■散る、満ちる 03■


「……先輩は、どうやってわたしと雷蔵を見分けているんですか」

 ふと三郎は、常々気になっていたことを尋ねてみた。それに対する中在家からの答えは、この上なく単純だった。

「分からない」

「は?」

「分からないが、分かる」

「何かそれ、むかつくなあ……」

 三郎は舌打ちしつつ、吐き捨てた。平素であれば、上級生相手にこんな口の効き方はしない。しかし今は、思考の大半を痛みと熱さを堪えることに使っているため、当たり前のことが何ひとつとして出来なかった。ともすれば呼吸の仕方も、声の出し方も忘れてしまいそうだ。

「わたしがどれだけ、雷蔵の変装に心血を注いでいると思っているんですか」

「見事だと思う」

「心のこもっていないお言葉を、どうもありがとうございます」

「本心だ」

 どうだか、と三郎は心の中で呟いた。  

「……中在家先輩、雷蔵の可愛い話をもっとして下さい」

 会話が途切れたので、三郎は言った。すると、困惑したような声が返って来る。

「そう言われても、不破が可愛いというのが分からん」

「可愛いじゃないですか。昼食の献立を何時までも決められないから、目を瞑って献立表を指さしてるところとか」

「分からん」

「悩みながら首をかしげる仕草とか」

「分からん」

「おはよう三郎、って言うときの声の抑揚とか」

「……分からん。鉢屋は流石によく観察しているな」

「はは……そうでしょう」

 と、そのとき。ぽつりと冷たい雫が三郎の頬に落ちた。上を見上げると、今度は額に冷たい感触。雨だ。三郎は何処から何処までが空なのか判然としない、黒い空間を睨みつけた。雨は瞬く間に勢いを増し、さあさあと涼やかな音を立てて三郎たちに降り注いだ。濡れた髪が頬にはり付く。最悪だ。三郎は息を吐き出した。その息が熱いのか冷たいのかも、よく分からなかった。

「……雨宿りはしない。このまま進むぞ」

 中在家が呟いた。三郎の体力の低下を感じ取り、雨を凌ぐことよりも一刻も早く学園に帰り着くことが先決だと判断したのだろう。三郎に異論はなかった。

「そうして下さい……」

  自分の声がやけに弱々しいので、三郎は舌打ちしたくなった。これは一体誰の声だ。雨は一向に弱まる気配を見せず、じりじりと装束の中まで染みこんで来る。装束を三郎に貸している中在家は、すでにびしょ濡れだ。

「……中在家先輩、何か、喋って下さい……」

 無茶なことだと理解しながら、三郎はそう言った。雨が降れば、その中でただ立っているだけでも体力を消耗する。更に、中在家は三郎という荷物を抱えている。三郎はけっして小柄な方ではない。しかも、負傷して脱力してしまっているので尚更重く感じるだろうし、普通の荷物よりも慎重に運ばなければならない。中在家とて、相当疲弊しているはずだ。それは三郎も重々承知しているが、声を出していなければ自分が生きているという実感が持てなかったし、誰かの声を聴いていなければ闇に喰われてしまいそうだった。

「……図書室で読んだ、本の話だ」

 ゆっくりと、中在家は話し始めた。それは何処か遠い国に伝わる神話らしかった。雨の音に混じり、ゆるやかに耳に伝わる中在家の声を聴き、時折それに相槌を打つことで、三郎はどうにか意識を保った。




 三郎が異変を感じ取ったのは、話の中で英雄が、目を見ると石にされてしまう蛇女の首を切り落としたところだった。未だ雨の降り続く中、それまで一定だった中在家の歩調に、少しではあるがずれが生じて来ている。そして三郎は、わずかに鼻を突く血の匂いに気が付いた。今まで、自分の血の匂いに気を取られていて分からなかった。

「……先輩、足、怪我してませんか」

 中在家の語りを遮ってそう言うと、彼は憮然とした口調で「何のことだ」と言った。

「足。歩調が、おかしくなってきてる……」

 中在家はそれに答えず、神話の続きを始めた。しかし、英雄が蛇女を退治して帰還する途中、海へと生け贄に捧げられた娘と出会うところまで物語が進む頃には、明らかに中在家の歩は遅くなり、また時折左足を引きずるような仕草も見せた。

「……足、やってるでしょう……」

 中在家の肩に顔を伏せ、三郎は呟いた。声に力が入らなかった。中在家はしばし黙っていたが、とうとう観念したのか、

「弾がかすっただけだ」

  と、負傷していることを認めた。

 何だ、それ。自分の怪我は押し隠して、後輩を背負って雨の中歩くってか。随分と格好の良いことで。さすが、先輩は高潔でいらっしゃる。  

  体力が残っていれば思うさま皮肉を言ってやりたいところだったが、残念ながらそんな気力はもう無かった。

「……わたしのときと同じ、狙撃手ですか」

「多分。しかし、おれのは軽傷だ」

 中在家は、軽傷、の部分を強調して言った。たとえそれが本当であっても、人をひとり抱えて雨の山道を長時間歩けば、傷も開くに決まっている。傷めた足をかばって歩けば、逆の足だって壊れかねない。その証拠に少しずつ、三郎に伝わる振動が大きくなってくる。

「……きっとここで、普通なら、先輩わたしを置いてって下さい、とか、言うんでしょうけど……」

 そこまで言って、三郎は自嘲気味に笑った。もし三郎がそう言えば、非の打ち所のない美談の完成だ。素晴らしい。反吐が出そうだ。そんなことを考えながら、言葉を続ける。

「おれは、言いませんよ。責任持って、おれを雷蔵に会わせて下さい」

 絶対におれはあんたから手を離さない、と告げて、ほとんど力の入らない手で中在家の首にしがみつく。雷蔵に会いたい。忍者の常識など糞喰らえだ。雷蔵に、会いたい。だから中在家の足が動くのならば、そこまでおれを連れてゆけ。

「分かっている。心配するな」

 中在家は、しっかりと頷いた。嫌になるくらい頼りがいのある科白だった。三郎は息を吐き出して、ふたたび中在家の肩に頭をもたれさせた。