■散る、満ちる 04■
雨はまだ止まない。夜が明ける気配もない。中在家はときおり、ぬかるみに足を取られて膝をついた。その度に三郎は、低いうめき声をあげた。何度か嘔吐もした。身体の感覚はもはやない。しかしまだ声が出る。大丈夫だ。大丈夫だ。三郎は、自分にそう言い聞かせた。
これで何度目か分からないが、また、中在家の足が崩れた。びしゃりと泥の跳ねる音がして、飛沫が三郎の頬まで飛んで来た。ああ、こんなぬかるんだ地面を雨の中、十五貫以上はある荷物を抱えて歩くなんてやってらんないだろうなあ、とぼんやり考えた。自分が中在家の立場だったら、とうの昔に荷物を捨てている。しかしもしも中在家が自分を捨てようとしたら、そのときは足にかじりついてでもついて行くつもりだった。だって自分は雷蔵に会わなければならない。雷蔵に。雷蔵に。
「……雷、蔵」
三郎の口から、ぽつりと雷蔵の名がこぼれた。
「……雷蔵、雷蔵……」
それはほぼうわごとであった。
「……雷蔵……」
意識が白い闇にさらわれかける。ああ、駄目だ。雷蔵。
「鉢屋」
しかし三郎を現実に引き戻したのは、中在家の低い声だった。
「……鉢屋、しっかり、しろ」
そういう中在家の声も、大分芯を失いかけている。足も踏ん張りが効かなくなって、真っ直ぐ歩くことが出来なくなっていた。一歩踏み出すたびに、三郎の身体ごとぐらりと揺れる。
「お前はこんなところでは、死なない」
「……分かって、ます、よ」
あんたに言われるまでもない、と思った。そしてまだそんなことを考えられる自分に、少し感心した。
「不破に、会うのだろう」
「当然……」
「おれも、まだ死なない。明日、文次郎のところに行って、未返却本を返してもらわなけ、れば」
意外な名前が出て来て、三郎はほとんど開いていない目を瞬かせた。学園一の熱血漢で、はた迷惑な上級生の顔が浮かんだ。何だか随分と懐かしい感じがして、三郎の口元に薄く笑みが生まれる。
「……それは、大事、ですね」
「文次郎はすぐに、本を溜め込む。しかも管理がいい加減だ」
「……でも先輩。もうすぐ、予算会議です、から……。敢えてその日まで、未返却本の督促をしないで、会計委員長の弱みを握っておいては……」
「……お前、こんな状況で、よくそんな悪知恵が働く、な……」
中在家は、感心したように言い、それから「それも、いいかもな」と頷いた。
「中在家先輩って……意外と普通に喋れる、んですね……」
「……お前が、喋れと言う、から」
「……はは、中在家先輩も、けっこう、可愛……」
「ならば、おれの変装を、するのか」
「……冗談……」
やけに真面目な口調で言う中在家に、三郎は力なく笑った。想像するだに、おぞましかった。そして三郎は、いつの間にか雨音が聞こえなくなっていることに気が付いた。雨が、止んでいる。そういえば、頬を打つ冷たさも、何処かに去っていた。
「……鉢屋」
呼ばれて、三郎は「はい」と返事をした……つもりだった。しかし、声が掠れてしまってもう出ない。
「着いた、ぞ」
消え入りそうな声で、しかししっかりと中在家は言った。三郎は、持てる力を全て振り絞って、頭を持ち上げた。前方で、火が焚かれている。その周りにぼんやりと浮かび上がった輪郭は、確かに忍術学園の正門だ。三郎の口から、吐息が漏れた。
門の前に、人影が見える。小さな人物がひとりに、細身の人物がふたりと、中背の人物がひとり。小柄な影は、おそらく学園長だろう。中背なのは、校医の新野先生だ。細身の片方は事務の小松田秀作で、もうひとりは……。
「……雷蔵……」
もう出ないと思っていた声が、三郎の喉元から溢れ出した。間違いない。三郎が、彼の姿を見間違えるはずがなかった。あそこにいるのは不破雷蔵だ。急に、視界がはっきりしたような気がした。雷蔵が見える。雷蔵がいる。
雷蔵は、憔悴しきった顔をしていた。それを見て、三郎は胸が詰まるような思いになった。ああ、かわいそうな雷蔵。ずっと門の前に立っていたのだろうか。先程まで雨の降っていた中、一睡もせずに。そしてなんて表情だろう。今にも泣き出しそうな顔をしている。あんな痛々しい表情をさせるなんて、おれは最低だ。
ふと、雷蔵の顔がこちらを向いた。丸い双眸が見開かれる。
「三郎!!」
彼は叫び、三郎たちの元に駆けて来る。悲痛な声音であったが、それでも雷蔵の声が聞けて三郎は幸福だった。両手で彼を抱きしめたいのに、左右どちらの手も一寸たりとも持ち上がらない。三郎は、悔しくてならなかった。
「中在家先輩、三郎は……」
雷蔵は早口で、中在家に尋ねた。中在家はちらりとこちらを振り向き、軽く笑った。
「……鉢屋は大丈夫だ。……だよな、鉢屋」
「……もち、ろん」
三郎は必死になって、声を絞り出した。それから、真っ白になった雷蔵の顔を見て、
「大丈夫、雷蔵」
と言って笑った。……多分。本人は笑ったつもりだったが、実際にどのような顔になっていたのかは、三郎には分かららない。雷蔵は涙をこらえるように、眉を寄せて口を引き結んだ。それから中在家の様子にも気が付き、ぎょっとした表情になった。
「な、中在家先輩も酷い怪我じゃないですか……! 新野先生、新野先生!」
彼は大急ぎで、校医を呼ぶ。白衣の新野先生が、慌てて走って来るのが見えた。中在家はそれを見て大きく息を吐き、その場に崩れ落ちた。それと同時に、三郎の身体もずり落ちる。
「三郎! 中在家先輩!」
雷蔵が悲鳴をあげる。ばたばたと慌ただしい足音が聞こえて来た。
「保健委員がすぐそこで待機しているから、呼んで来てくれ、小松田くん!」
新野先生の声が飛び、少し離れたところから「は、はいっ!」という小松田の裏返った返事が返ってきた。
「……林檎」
地面に寝かせられた三郎は、ぽつりと呟いた。頭の奥に、赤々と輝く林檎の実が蘇る。
「そうだ、林檎だ……」
無意識に、三郎は空に向かって手を伸ばしていた。林檎。林檎を取りたかったのだと思い出す。雨でふやけた三郎の手を、雷蔵の両手がそっと包む。
「林檎がどうしたの、三郎」
気遣わしげに、雷蔵が尋ねた。三郎は、ゆっくりと彼の方を見た。
「きみに食べさせたかったんだ」
「何を、言ってるんだよ」
雷蔵は困ったように言って、雷蔵の手を握る力を強くした。彼の体温を感じられることが嬉しくて、涙が出そうになった。
「赤くて、きれいな林檎だった」
つややかで、素晴らしい赤だった。きっと瑞々しくて、美味い林檎だったのだろうと思う。ひとつももぎ取ることが出来なかったのが、残念だ。
「良いよ、そんなの。林檎なんて」
雷蔵は、ゆるゆると首を横に振った。少し怒っている風でもあった。
「保健委員、到着しました!」
という声が、何処からか聞こえて来た。周囲がどんどん騒がしくなっていく。三郎は、それが少し煩わしかった。雷蔵の声だけを聴いていたいのに。
「ほんとうに、うつくしかったんだよ」
「……ばかだな、三郎は」
そう言って雷蔵は、今度は微笑んだ。ああ、やっと笑った。そう思うと三郎は嬉しくなって、今までの苦しさや痛みを全部忘れてしまった。
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