■散る、満ちる 02■


夜の山道を中在家は静かに、しかし大股に歩いてゆく。

「中在家先輩、おひとりですか」

「……ああ」

 会話終了。ものの五秒と保たなかった。もっと他に言うことはないのかよ、と三郎は呆れた。誰でも良いから助けてくれと願ったのは事実だが、よりにもよってこの男を引き当てるとはついていない。彼はこの上級生が苦手だ。雷蔵と自分を見分けることが出来る、というのがまず気に食わない。雷蔵がこの男のことを尊敬しているらしい、というのも憎らしかった。

 ああくそ、雷蔵は今どうしているだろう。自分の帰りが遅いので、心配しているだろうか。雷蔵は心配性だから、きっとそうに違いない。雷蔵。かわいそうな雷蔵。脳裏にぼんやりと、雷蔵の姿が浮かんだ。三郎は、狂おしいような気持ちになった。帰ったらすぐさま彼を抱きしめたい。くちづけて形の良い耳を噛んで彼の全てを喰らい尽くす勢いで犯したい泣かせたい彼が許しを乞うまで嬲って欲望を注ぎ込みたい。

「……っ」

 がくん、と頭が前に倒れ、中在家の首元に額がぶつかった。目の前がくらくらする。頭の奥が熱い。いよいよこれはやばい、と三郎は思った。

「……中在家先輩、気を、失いそうです」

 息も絶え絶え訴えると、「そうか」という抑揚のない返事が返ってきた。

「寝ていると良い」

「嫌、ですよ。こんないかつい野郎の背で寝るなんて、悪夢を見そうだ……」

「そうか」

 頷いて、中在家は再度黙った。彼が砂利を踏むのに合わせて、三郎の身体が揺さぶられる。中在家は用心深く歩いてくれているが、それでも僅かな振動が弱った身には堪えた。

「先輩、何か喋って下さい」

 そう言うと、中在家は押し黙った。「喋って下さい。何でも良いから」と、三郎は再度促す。

「……古法十忍を、全て答えよ」

「は?」

「古法十忍を、全て答えよ」

 思わず聞き返す三郎に、彼が聞き取れなかったのかと勘違いしたのか、中在家はゆっくりとした口調で繰り返した。何を言っているんだと思ったが、三郎は乾いた口を開いた。怪我でぼやけた頭でも、これくらいは言える。

「音声忍、順忍、無生法忍、如幻忍、如影忍、如焔忍、如夢忍、如響忍、如化忍、如空忍」

「正解だ」

「あの……他に無いんですかね」

「七方出を、全て答えよ」

「いや、そういうんじゃなくて。もうちょっと、楽しくなる話をして下さい」

「……楽しくなる話か」

 ううん、と中在家は唸った。そんなに難しいことだろうか、と三郎は彼の朴念仁ぶりに呆れた。六年生ともなれば、町に降りて民衆と混ざり、そこで忍務を行うこともあるだろうに。こんなことで彼はやっていけているのだろうか。甚だ疑問だ。そのとき一際強い風が吹き抜け、三郎は身体を震わせた。耳の後ろがじんじんする。

「今日の委員会で、不破が」

「……ここで雷蔵を出しますか。それはおれを楽しませようと思ってるのか、嫌がらせなのかどっちですか」

 中在家の口から雷蔵の名を聞いて、反射的に三郎は彼の言葉を遮った。負傷とそれに伴う発熱で、頭の軸がどんどんぶれていく。その為、些細なことにも絡みたくなってしまう。

「鉢屋、おまえの言っている意味がよく分からない」

「いえ、良いんです。続けて下さい」

「今日、先日新しく買い付けた図書が届いたんだが、その中に変姿の術に関する本があった。不破がこれを鉢屋に勧めようか、いや彼ならもう読んでいるだろうか、読んでいなかったとしても必要ないだろうか、とずっと迷っていた」

 三郎はふっと笑みを浮かべた。本を手にして右往左往する雷蔵の姿が、容易に想像出来る。なんていとおしいのだろう。この目でその場面を見たかった。そんなことで悩まなくてもいいのに。きみが勧める本なら、何だって読む。

「……可愛い雷蔵」

 無意識に、口からこぼれ出した。普段は人前では、特にこの男の前では絶対に言わない科白だ。

「可愛いのか、不破は」

 意外そうに、中在家が言った。三郎は顔をしかめる。

「中在家先輩が、可愛いとか言わないで下さい」

「よく分からん」

「分からなくて良いです」

「それではお前は、可愛いから不破の変装をしているのか」

 その言葉に、三郎は小さく吹きだしてしまった。喉元から笑いがこみ上げてきて、肩を小さく震わせた。声にならない笑い声が、夜の風に混ざる。無遠慮に笑う下級生に対して、中在家は何も言わなかった。ただ黙々と、歩を進める。

「先輩も、そういう発想をするんだ」

 ひとしきり笑って満足した後で、三郎はそう言った。「違うのか」と、不思議そうな声が返って来る。

「教えません」

「そうか」

 突っぱねられても、中在家は気分を害した様子を見せなかった。がくん、と中在家の身体が大きく身体が揺れて、三郎は息を詰まらせた。撃たれた右足が激しく脈打つ。どうやら、下り坂にさしかかったらしかった。今はどの辺りだろう。あとどれくらいで、学園に着くだろう。重い頭を持ち上げて周囲を見てみても、周りは黒一色だった。