■散る、満ちる 01■


 美しい果実をたわわに実らせた林檎の木を見て、あの林檎を持って帰ったら雷蔵は喜ぶだろうかと、そう思ったのが間違いだったのだろうか。

 ほんとうに美しい林檎だった。形も色も大きさも見事だった。あかく輝く紅玉のようで、三郎はその果実に魅入られた。是が非にでも持ち帰りたかった。

 三郎が林檎の木の枝に飛び移った瞬間、空気を裂いて後方から銃弾が飛んで来た。油断したとは思いたくない。林檎を持って帰ろうと思ったときも、三郎の意識の一部は周囲を警戒していた、はずだった。しかし彼は何者かに狙撃され、弾丸は彼の右足を貫いた。それは事実だ。

  身体がぐらつき、三郎は地面に向けて落下した。咄嗟に右足をかばおうと身体を捻ったら左手から着地してしまい、そのときの衝撃で左手首が動かなくなった。

 不自由な足を無理矢理動かして、山道を駆けた。逃げた。逃げた。とかく逃げた。痛みを感じる暇もないほどに、必死で走った。後ろは一度たりとも振り返らなかった。ひたすらに前だけを見つめ、姿勢を低くして走った。途中まで追いかけてくる何者かの気配があったが、けもの道に分け入りどうにか振り切った。



 三郎は足を引きずり、大岩の陰に身を投げ出した。立ち止まった瞬間、今まで忘れていた痛みが右足に押し寄せてきた。風ですら、傷口をえぐる凶器に感じた。呼気が喉を突き破りそうだ。もう、一歩も歩けなかった。右足は赤黒くに染まっているし、左手も熱を持ち始めた。

 三郎は額から溢れる脂汗を右手で拭って、周りに意識を集中させた。追跡されている気配はない。一体、何者だったのだろうと考える。相当熟達した狙撃手であったに違いない。

 息を吐き出した。それがやけに熱くて、ぎょっとする。頭巾を解いてなんとか足の止血だけは行ったものの、それだけでごっそりと体力を消耗してしまった。

 ここまで来れば誰か学園関係者が通るだろう、と思ったのに、誰も来ないまま夜になった。闇と共に冷たい空気が降りてくる。三郎は両手で身体を抱き、全身を震わせた。誰かがこの音を拾ってくれないかと、必死で矢羽音を送り続けるが、聞こえるのは風で騒ぐ木の音のみだ。既に右足の感覚はない。身体がどんどん冷えてゆき、三郎は奥歯を噛んだ。

 何処かの組が課外実習でもやっていないのか。体力の有り余っている上級生は、今日に限って誰も自習をしていないのか。畜生、誰でも良いからおれを助けろ。

 霞みそうになる目をこすり、何処にいるとも分からない誰かに向かって、ひたすら助けを求める矢羽音を送り続けた。その傍ら、三郎は頭の半分で「もしこのまま誰も来なければ」ということを考えていた。そうなれば、無理矢理にでも這って行くしかない。この身体で、どれほど進むことが出来るだろうか。正直、少し身をよじるだけでも身体が裂けそうだ。敵に見つかれば終了。獣と遭遇しても終了。血の匂いを嗅ぎつけられなければ良いが、そこはもう、運に天を任せるしかない。

 空気が随分と重く、湿ってきている。雨が降るかもしれない。そうなれば、最悪、足が腐るやも。そのときは、右足は切り落として行こう。もう忍びにはなれないかもしれないが、そんなことより、雷蔵の姿を一目見るまでは死ねるか。三郎は眉間に力を込めた。そうだ、雷蔵に会うまでは死ねない。

 そのとき微かに、砂利を踏み分ける音が耳に入った。反射的に三郎は息を止めて、苦無を構える。敵だろうか。味方だろうか。

 ……助けに来た。

 学園関係者の使う矢羽音の暗号で、そう聞こえた。三郎は顔に手を当てた。身体の力が抜けていく。ああ、やっとだ。助かった。

 暗闇に人影が浮かんだ。大柄なその人物が、こちらに近付いてくる。三郎は目を凝らして、救世主の姿を見ようとした。しかし、視界がどうにもはっきりせず、明瞭な像を結ばない。

「……大丈夫か」

 救世主は言った。風に溶けてしまいそうな、小さな声だった。三郎は天を仰ぎたくなった。よりにもよって、こいつか。しかしそんなことを言っている場合ではない、とすぐに思い直す。意地よりも矜持よりも何よりも、命だ。三郎はこんなところで死ぬ気など毛頭無かった。

「大丈夫じゃないです。助けて下さい、中在家先輩」

 三郎が平板な口調でそう言うと、中在家長次は彼の側に屈み込んだ。

「右足を撃たれました。あと、多分左手の骨にヒビ入ったかな、という感じっす。応急処置はしましたけど、もう一歩も歩けません」

 三郎の傷の具合を調べていた中在家が、頷く気配があった。それから水筒を懐から取り出し、三郎に差し出した。三郎はそれを受け取って、がぶがぶと飲み干した。信じられないほどに美味く感じた。

「……先程、狙撃手らしい忍者を見た、が、逃げられた」

 言いながら、中在家は忍び装束を脱ぎ、冷え切った三郎の身体に掛ける。

「へえ、わたしをやった奴ですかね」

「……かもな」

 中在家は、ひょいと彼を背負った。その際、足と腕に激痛が走ったが、どうにか声をこらえることに成功した。冷たくなった四肢に、中在家の体温が染みてくる。それにほっとしてしまって、三郎はにわかに死にたいような気分になった。