■カウントダウン  14■


「…………っ」

 唇を合わせたまま、三郎は何故か息を呑んだ。それからおもむろにぼくの肩を掴んで、素早く唇を離したのだ。えっ何で、とぼくは戸惑った。ぼくは物凄く幸せだったけれど、駄目だったのだろうか。ぼくはまた、何かを間違えたのだろうか。

「三、郎……?」

「……やっちゃった……」

 三郎はぼくの肩に手を置いたまま、呻くように呟いた。よく見れば、その手が微かに震えている。

「やっちゃった、って……何が?」

「……今日は、紳士的に振る舞うつもりだったんだよ……」

 三郎の声は後悔に満ちていた。ぼくは彼の言わんとすることがよく分からなくて、「は、あ」と気の抜けた相づちを打った。三郎は、勢いよく顔を上げた。

「だって、ここで何もしないまま爽やかに終わったらさ、おれ、ちょうスマートでかっこよくない?」

「お、おお……」

 ぼくは一応頷きながらも、それ、口に出して全部言っちゃったら意味ないんじゃないかな……と思った。うっかり笑ってしまいそうになったけれど、我慢した。彼は真剣に言っているのだ。ぼくも襟を正して聞かなくてはならない。三郎はこういうところが少し抜けていて、そしてそこが愛しい。

「でも、ふたりきりだし、くっついてるし、雷蔵は嬉しいこと言ってくれるし……」

 三郎は頬を桃色にして、恥ずかしそうに言った。「嬉しい」という彼の言葉が、ぼくにはとても意外だった。それは、ええと、さっきのぼくのラブソング的なあの恥ずかしい台詞に対して言っているんだよな?

「あ、あれ嬉しいんだ?」

「ど、どうしよう、おれ帰った方が良いかな」

 三郎は、ぼくの言うことを聞いていないみたいだった。すっかり泣きそうな顔になって、忙しなく瞬きを繰り返している。気が付けば何故か、彼はソファの上で正座をしていた。

「えっ、何でだよ」

 発言があまりに突拍子もなくて、ぼくは声をひっくり返した。何で今、帰っちゃうんだよ。ぼくは思わず、両手で三郎の手を掴んでいた。そうしたら三郎は「うわっ」と小さく声をあげて、肩を震わせた。

「だって、多分我慢出来なくなるもん。ていうか、今すでにやばい、し」

 三郎は、何処かふわふわした口調で言った。その口の動きだとか、潤んだ目だとかを見ていたら、背骨が熱くなってきた。そういう顔をされたら、ぼくも、やばい。

「そ……そんなの、ぼくだって一緒だよ」

 噛みそうになりながら、ぼくは掠れた声で言った。胸が鳴る。体温がどんどん上がってゆくのが分かる。

  三郎が、息を吸い込んでぼくを見る。ぼくも三郎を見詰める。視線が合う。

 ぼくたちは、もう一度キスをした。 三郎の手がぼくの背に回り、ぎゅうと抱きしめられる。身体が触れ合うと、何だか泣きそうになった。瞼は今も痺れている。だけど不安や恐怖は無かった。三郎とくっついていられる喜びの方が、ずっと大きい。

 ぼくは夢見心地で目を閉じた。三郎は、ぼくの頭を撫でながら髪の毛を探った。手の感触は心地良くてうっとりしつつ、三郎はよく、こうやってぼくの後頭部を撫でるよな……、なんてことを考えた。そうするのが好きなのかな。ぼくも、好きだけれど。

 だけど何か……何だろう。何かが引っかかる。

 その瞬間、ぼくの目の中でぱちん、と何かが弾けた。

 ……ぼくは、これを知っているかもしれない。いや、知っている。この仕草を知っている。これは、ぼくの記憶の、今まで手が届かなかった場所に大事にしまってあったものだ。

  ぼくは知っている。そうだ。知っている。ぼくは、ぼくは、三郎と抱き合う。くちびるを重ねる。三郎は腕を伸ばしてぼくの髪の毛を探り、ぼくの、ぼくの、

 髪紐をほどく。

 ぱちんぱちん、と立て続けに目の中が弾ける。熱い。ああ、だけど、そうだ。まぐわいのとき、ぼくたちは寄り添って、口吸いをして、そして三郎はぼくの髪紐を、解くのだ。

 髪紐。長い髪。紐で髷を結っている。その紐を、髪紐を解く。髪の毛が肩に落ちる。目の前にいるのは……ぼくと同じ顔をした男だ。

「あ……」

 目の前が、ぐらりと歪んだ。 足下がおぼつかなくなる。耳鳴りがする。

  あれっ、ぼくは何処にいるのだっけ。膝がぐらぐらして自分を支えることが出来ない。此処は何処だ。草の上? 水の中? 畳の上? 井戸端? 屋根裏? 物見櫓? 裏山? 図書室? 文机の前?

  視界が回る。前が見えない。全てが白く霞んでいる。煙幕でも張られたみたいな。息が苦しい。声も出ない。毒だったらどうしよう。矢羽音を、矢羽音を送らなければ。そうすれば、そうすればきっと、

「……雷蔵?」

 ぱっと、視界が明るくなった。眩しい光が目に刺さって、ぼくは悲鳴をあげそうになった。数秒してから、それが蛍光灯の明かりであることに気が付く。そして自分が今、三郎とふたりで自宅のリビングにいることも。

「……三、郎……」

 知らない内に、ぼくは三郎にしがみついていた。冷たい汗が背中を滑り落ちる。身体が半分、ソファから落ちそうになっていた。三郎はしっかりと、ぼくを抱き留めてくれていた。

  ぼくは息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。きちんと息が出来る。目も見えるし、耳も聞こえる。声も出せる。瞼の痺れは消えた。ぼくは思い出した。

  ぼくは、 忘れていたことを思い出したのだ。

「はは……」

 ぼくは喉を震わせて笑った。ぼくは思い出した。思い出した。思い出した。

「何……おれ、何かおかしいとこある?」

 三郎は不安そうに、自分の頬を撫でた。その誤解が微笑ましくて、愛しくなった。胸が軽い。心が宙に浮いている感じがした。

「ごめんごめん、違うんだ」

 ぼくはそう言って、三郎の頬に軽くキスをした。三郎は目を丸くして、ぼくの顔を覗き込んだ。

「……ほんとどうしたの、雷蔵。急にご機嫌になってるけど」

 三郎の言葉に、ぼくはまた軽く笑った。ご機嫌。機嫌も良くなるに決まっている。何せぼくは、今まで両手いっぱいに抱えていた荷物を、ついさっき全部下ろしたところなのだ。きっと三郎は何が何だか分からないだろうから、きちんと説明をしなくてはいけない。それからお礼を言って、それから……。

 いいや、とぼくは思い直した。そういうのは、全て後にしよう。今は欲望の赴くままに、自分のしたいことをするのだ。

「そりゃあ……」

 ぼくは、三郎と視線を合わせた。そうすると、幸福が体の中にじわじわと染み込んでゆくようだった。喜びを抑えることが出来ない。ぼくは今、これ以上ないってくらい締まりのない顔をしているんじゃないだろうか。

「お前が此処にいるのだもの」

 囁くと、三郎は目尻をほんのり朱色に染めた。それが色っぽくて、胸がむずむずした。

「雷蔵ってば、誘惑がお上手だこと」

「ははは……」

 三郎が少し悔しそうな口調で言うので、ぼくは気分が良くなって笑い声を大きくした。やった。三郎をテレさせてやった。

「……っ」

 気楽に笑っていたら三郎の手がわき腹を撫でて、ぼくは息を詰めた。

「三郎、急に……」

 三郎は「休憩時間は、おしまい」と言って、ゆっくりとぼくをソファに押し倒した。

「休憩だったんだ? ……っあ、ちょっと……」

 三郎はぼくのシャツのボタンを外しながら、首筋に吸いついてきた。ぼくは上擦った声をあげた。急速に、身体が火照ってゆく。

 ぼくは何も考えずに、快感に身を任せた。三郎の手が素肌に触れると、こめかみのあたりがぼうっとなった。不安はひとつも存在しない。頭に余計なことが割り込んでくることも無い。ぼくはただ、三郎のことだけを考えていれば良かった。

「……っ、ん……んっ」

 三郎の手が制服のズボンの中に入ってきて、ぼくは唇を噛んだ。ぼくのそこは既に限界が近くて、恥ずかしかった。下着をずり下げ、直接その部分に触れられる。

「いっ……」

 びくりと、背中が反り返った。ほんの少し触れられただけなのに、ぼくはもういっぱいいっぱいだった。というか正直、どうにか我慢したけれど、今のはだいぶ危なかった。一瞬で、終わってしまうところだった。

「っ、あ……ッ、あぁ、ぁ」

 三郎は手を上下に動かして、ぼくを追い詰めにかかる。目の前がぐらぐらする。ぼくはぎこちなく手を伸ばして、三郎のベルトに手を掛けた。

「さぶろ……っ、ぼくも……」

「……触りたい?」

 三郎の問いかけにぼくが頷くと、同時に三郎は一際強くぼくのものを擦り立てた。

「いっ、ぁあ……!」

 頭の中がぎゅんとなり、ぼくは三郎のベルトを掴んだ格好のまま、内股を痙攣させて勢いよく精を散らした。

「……はぁ……あ……っ」

 ぼくは脱力して、手足をソファに投げ出した。三郎はテーブルの上からティッシュを取って、ぼくの腹に飛んだ白濁を拭ってくれた。

 今度こそぼくもやるんだと思い、寝転んだ姿勢のまま改めて三郎の腰に触れる。手に力が入らなかったけれど、頑張ってベルトを外した。 三郎は目を細めて、ぼくを見ている。あんまりじっくり見られても恥ずかしいな……と多少気まずくなりつつ、ファスナーを下ろす。

 そのままぼくに任せてくれると思ったのに、三郎はおもむろにぼくの足を掴んでぐいっと持ち上げた。咄嗟に、ぼくは手を離してしまった。

「えっ、ちょ……」

 絶句するぼくをよそに、三郎は平然とズボンのポケットを探って何かを取り出した。何回か見たことがある、ローションの小袋だった。えっそこに入れてるの? と、ぼくは少しびっくりした。三郎は、黙々と袋の封を切る。ぼくは半ば呆気に取られて、その行動を目で追った。

 三郎は袋を引っ繰り返す。とろりとした液体が、彼の手のひらに広がった。それを手で揉み込むようにして、馴染ませていく。そうしてぬめりを帯びた指がぼくの後ろに回ったので、ぼくは「うわっ!」と大きな声をあげた。

「さ、三郎……っ、ぼくも触るって、言ったじゃん……!」

「うん。触って良いよ、勿論」

 三郎は微笑みながら、ぼくのそこをつつく。背中がびりびりして、ぼくは身を捩った。

「じゃあ……っ、何、で……っ」

「触って良いんだって。ほら、頑張って、雷蔵」

 三郎は意地悪く言ってぼくの手を、中途半端に脱げた彼のズボンに導いた。ぼくは熱い息を吐きながら、どうにか彼の下着の中に手を入れた。それと同時に、三郎の指がぬるりと中に突き入れられた。

「あっ……!」

 粘膜を撫でながら、どんどん奥へと指が入って来る。ぼくは手を引っ込めそうになったけれど、歯を食いしばって固くなった三郎のものを掴んだ。三郎が、微かに息を吐く気配がする。

「ぁあ、あ……っ、あっ」

 三郎は、ゆっくりと指を出し入れした。意地の悪い物言いとは裏腹に、優しく、いたわるような動きだった。彼はあのときの、ぼくが駄目だったときのことを気にしているのだ。ぼくは胸が締め付けられ、泣きそうになった。

「あっ……あ、三、郎……っ」

「……雷蔵、平気?」

 じりじりと中を探りながら、三郎はぼくの耳元で囁いた。思いやりに溢れたその声に、ぼくは我慢が出来なくて涙をこぼした。

「う、ん……ぁっ、気持ち、良い……っ」

  ぼくは泣きじゃくりながら、何度も首を縦に振った。嘘ではなかった。ぬるぬるとした摩擦はぼくの四肢をとろけさせた。ぼくだって三郎をよろこばせたいのに、三郎のものをろくに愛撫出来なくて悔しかった。

「ふ……、ぅ、う……あ……っ」

 ぼくの口からは、絶えることなくみっともない声が溢れ出した。指が増えて、自分の中がどんどんほぐれてゆくのが分かる。気持ちが良い。涙が止まらない。 もっと、欲しい。

「三郎……もう、大丈夫……だから……っ」

 ぼくは涙声で訴えた。三郎はぴたりと手を止めて、そっと指を引き抜いた。きちんと三郎の顔が見たくて、ぼくは手の甲で涙をぬぐった。

「……ほんとに、大丈夫?」

 三郎は、気遣わしげに尋ねる。いつだって三郎は優しい。ぼくのことを想っていてくれる。ぼくは「うん」と頷いた。大丈夫だ。大丈夫に決まっている。だってぼくは、思い出したのだ。ぼくがかつて過ごしていた風景、音、匂い、空気、……それに、常にぼくの隣には鉢屋三郎がいたことを。

「大丈夫……」

 ぼくはもう大丈夫だ。

「…………」

 三郎は息を吸い込んで、ぼくの足を抱え上げた。

  固くて熱いものが押し当てられる。ずく、と先端が中に入って来る。身体が押し広げられる。ほんの少しだけ、息が苦しい。だけど、それだけだ。それ以外の違和感や抵抗は無かった。三郎は少しずつ、慎重に身体を進めた。ぼくの身体は、それを受け入れる。幸福と愛しさで心が満ちる。時間をかけて、ぼくたちは繋がってゆく。

「は、ぁ……っ」

  深く繋がり合って、三郎は吐息を漏らした。その響きはぼくの脳を揺らした。熱を帯びた下腹が震える。

「……雷、蔵……」

 三郎は、ぼくの腰を抱え直した。ぼくは何も言わずに、彼の手に自分の手を重ねた。
 
「あ……」

 三郎のものが、身体の中で動いた。内側を擦られる快感に、ぼくはうっとりと目を瞑った。

  最初は遠慮がちに、やがて深々と三郎はぼくの中を突き上げる。その度に、瞼の裏に白い閃光が走った。

「ん、んっ、あ……っ、あっ……!」

 熱いものがぼくの弱点を突き、背筋に電気が走った。その感覚が全身に回る。気持ちが良い。たまらない。

「いっ……ぃ、あ……っ、あ、もう、もう……っ!」

 ぼくは我を忘れて首を振った。律動が脳に響く。こめかみが締め付けられる。 熱い。熱い。

「あっ、あ……っ!」

 ぼくは喉を反らして、二度目の絶頂に達した。その拍子にぼくの中がぎゅうと狭くなり、三郎も息を詰めて精を溢れさせたのだった。