■カウントダウン 13■
ぼくたちは、しばらく無言で歩いた。三郎の小さな小さな足音が、車やバイクの音に混じってぼくの耳にそっと滑り込んでくる。
相変わらず街をゆく人たちはぼくたちを見咎めやしないし、それどころかベビーカーの赤ちゃんがこちらに向かって手を振ってくれたりした。男の子か女の子かは分からなかったけれど、ふくふくの笑顔が愛らしくて思わず手を振り返した。そうしたら、ベビーカーを押していたお母さんらしき女性が会釈をしてくれた。
何というか、絵に描いたみたいな、のんびりとした昼下がりだった。天気も良い。こんなに平和で、大丈夫なのだろうか。
……気が付けば、ぼくの心はだいぶ落ち着きを取り戻していた。人生初のサボりにまだ緊張しているけれど、先ほどに比べたら格段に冷静だ。こうやって三郎と二人でいると、ぼくは一体何をワーッとなっていたのだろう、という気分になってくる。
横断歩道にさしかかった。信号は、煌々と赤く輝いている。ぼくたちは足を止めた。目の前を過ぎゆく車を眺めていたら、ふと思い浮かんだことがあった。
「八左ヱ門たちに、連絡しといた方が良いかな……?」
ここに来てようやく、八左ヱ門たちのことを考えが至った。自分のことでいっぱいいっぱいになっていて、彼らに心を向ける余裕が無かったのだ。何という、至らなさ。今思えば、ぼくはだいぶ感じが悪かったんじゃないだろうか。とても悪いことをしてしまった。兵助にも。
自責の念に駆られるぼくに、三郎はあっさりとこう言った。
「別に必要無いんじゃない?」
「え……そんな、サクッと」
「おれも一緒だってことは分かってるだろうし、平気でしょ。ちょっとさぼるくらい」
お前にとっては何でもないことでも、ぼくの中では結構な大事件なんだけどな……と思いつつ、「そうかなあ」と呟く。
「でも、多分、心配してるだろうし……」
どうしても気になるので、ポケットから携帯電話を取り出して視線をさまよわせていたら、三郎はぼくの背中を軽く叩いた。
「たまには自分のことだけ考えなよ、雷蔵」
その言葉にびっくりして、三郎の方を見る。三郎は「青だよ」と言って前方を指さした。はっとなって、前に向き直る。いつの間にか、信号は青に変わっていた。慌てて足を踏み出して、横断歩道を渡る。
「……ぼく、普段から結構自己中だよ?」
「きみが? まさか」
三郎は目を細めて笑った。
だって自分のことばっかり考えてるから、こんなことになっているんじゃないか……と思った。三郎は、その辺を分かっていないのだ。もしくは、気を遣ってわざとそんな風に言ってくれているのだろうか。ぼくは、そっと息を吐き出した。何だか、心がまた落ち込んでゆきそうだ。
「雷蔵」
横断歩道を渡りきったところで、三郎が声をかけてきた。顔を上げられずにいると、すっと三郎の手が目の前に現れた。彼の手には、透明の袋に入った、透き通った赤色の飴がちょこんと乗っかっていた。
「これ、あげる」
三郎はにこにこして、言った。ぼくは飴の袋をつまみ上げながら、「……えっ、何で急に、飴……?」と首を傾げた。
「ポケットに入ってたから」
三郎は、何故か自信満々といった調子で胸をそらした。三郎のやることは、いつだって唐突で不思議だ。だけどぼくは、彼のそういうところが結構好きだった。だからこの飴も、有難く頂戴することにした。
「……ありがとう」
ぼくは小袋の封を切って、飴玉を口の中に放り込んだ。甘い。懐かしい甘さだった。
「雷蔵、美味しい?」
「いちごあじの、味がする」
「ああ、何か分かる。決していちごではないけど、いちご味なんだよね」
そう言って三郎は笑った。いちご味の甘さと三郎の笑顔はぼくの心を穏やかにしてくれた。何だろう。何だかよく分からないけれど、三郎って、凄い。
十分くらい歩いて、ぼくの家に到着した。ぼくの自宅は住宅街のど真ん中にあって、昼過ぎのこの時間帯はとても静かだった。
門を開けると改めて、ああぼくは授業をさぼって帰って来てしまったんだ、という実感が湧いてきた。ご近所さんに見られたりしないかな……なんてそわそわしながら、門の中に体を滑り込ませた。三郎も、後ろからついて来る。
玄関の鍵を開けて、家の中に入る。何時も通り、誰もいない。こういうとき親が共働きだと楽だな、と思った。
「……何か、折角さぼったのに、普通の放課後みたいになっちゃったけど」
靴を脱ぎながらそう言うと、三郎が「ふふ……」と小さく笑った。
「何?」
「いや、学校をさぼったら特別なことをしないといけない、って考えてる雷蔵が真面目で微笑ましいな、って」
三郎は、 楽しそうだった。どうやら、だいぶかっこ悪い発言をしてしまったみたいだ。ぼくは恥ずかしくなって、三郎から目をそらした。
「……別に、そんなことは思ってないよ」
「じゃあ、普通の放課後でも良いじゃん」
三郎はずっと、にこにこしている。こいつばっかり余裕で、何だかずるい。
ぼくたちは、リビングのソファに並んで座った。壁の時計は午後二時すぎを指していた。布張りのソファに身を沈めながら、ぼくは三郎に向かって言った。
「しばらく、ボーッとしても良いかな」
「勿論」
「……手、つないでも良い?」
少し躊躇いながらそう言ったら、三郎は目を瞬かせた。それから右手を持ち上げて、 「喜んで」と微笑んだ。
ぼくは、そっと三郎の手を握った。そうしたらまた、瞼のパチパチが始まった。だけどもう、あまり嫌だという感じはしなかった。慣れたのかな。何なのだろう。
ぼくは宣言通り、何も考えずにボーッとしていた。聞こえるのは、コチコチという時計の音だけだ。三郎は、黙ってぼくの手を握っていてくれた。あたたかくて、ほっとする。そのままぼんやりしていたら、瞼の裏が滲んで、また謎の風景が浮かんできた。
薄水色の空に、木々の緑、地面は草が生い茂っていてこちらも緑だ。見渡す限り、ずーっと緑。とても広く、そして美しい野原だった。
此処は一体、何処なのだろう。こんな野原、ぼくは知らない。行ったこともない。相当な田舎だよな。兵助は、この場所を知っているんだろうか。あのとき、ぼくが「知りたい」と答えていたら、此処が何処なのかも教えてくれたのかな。
緑の中を、誰かが歩いてゆく。だけど、目の焦点が上手く合わなくてよく見えない。誰だろう。野原はこんなにもくっきりと、枝のうねりや葉の陰まで見えるのに、人物像は磨り硝子を通したみたいに不明瞭だった。だけど多分、あれはぼくか三郎のどちらかだ。
……ごくごく自然にそんな風に考えてしまってから、あれっ、となった。
「……ぼくか三郎って、何かおかしくない?」
その疑問を口にした瞬間、瞼の裏に広がっていた不思議な風景はぱちんと消えた。
「雷蔵、何が?」
三郎が、ぼくの顔を覗き込んでくる。とても見慣れた顔だ。そして今日も彼は、ぼくと全く同じ髪型をしている。周囲が閉口するくらい、緻密にぼくの外見を真似ているのである。そして彼は、そうすることに無上の喜びを感じているようだった。みんなに引かれようとも、気味悪がられようとも気にしないし、やめようともしない。
「…………」
あれ、何だろう。何か……、何か、どきどきしてきた。
「あの……あのさ、ぼくが前に、何か忘れてる気がするって言ったの覚えてる?」
胸に芽生えた違和感に何やらもじもじしつつ、ぼくは言った。それを受けて、三郎はすぐに「覚えてるよ」と頷いた。
「結局、思い出せたの?」
「ううん。思い出せそうだけど、相変わらず思い出せない」
ぼくはそこで言葉を切って、三郎の手を握り直した。
「でね、ぼくが何を忘れてるのか、八左ヱ門と兵助と勘右衛門は知ってるらしいんだ」
「あいつらが? 何で?」
「分かんない。ぼくには教えてくれない」
それを口にするとき、ぼくはまた少し苦い気持ちになった。それが顔に出ていたのか、三郎は身を乗り出してこう言った。
「おれから、あいつらに聞こうか?」
真顔で三郎が左拳を固めたので、ぼくはぎょっとした。力ずくでも聞き出してやる、みたいな勢いだった。こいつなら、本当にやりそうで怖い。だけど、そういう荒っぽい展開は困る。
「い、いや、それは大丈夫だよ」
ぼくは慌てて首を横に振った。三郎は「そう?」と拳を下ろす。ぼくは、ほっと胸をなで下ろした。そして、再び口を開く。
「ていうかさっき兵助に、知りたいなら教えてあげる、って言われたんだけど、何か……何か怖くなって」
そのときのことを思い返すと、不思議な心持ちになった。今となっては、何がそんなに怖かったのかさっぱり分からない。どういう風に恐怖を感じたのかも、きちんとは思い出せなかった。ついさっきの出来事なのに。
「それで、いらない、って言って逃げてきちゃったんだ」
「聞かなかったんだ」
「うん。で、その直後、三郎に会ったんだよ」
「……雷蔵は、それで良かったの?」
「分かんないけど……」
ぼくは下を向いた。黒い靴下を履いた、自分の足が見える。その横には、三郎の足がある。ぼくと同じ、黒い靴下だ。今は三郎が近くにいるから、その安心で恐怖も遠くに行ってしまったのかな、と思った。三郎は凄い。本当に。ぼくの隣に、三郎が座っていてくれて良かった。
「何か……三郎がいれば、もうそれで良いかなって気になってきた……」
ぼくは何も考えずに呟いて、目を瞑った。同時にぱちぱちと、痺れが再び瞼にやって来たけれど、それも何だか心地よく思えてきた。人の心って不思議だ。
「…………」
リビングに、沈黙が満ちた。家の外から、トラックの走る重たい音がする。ぼくも三郎も、黙っていた。とても静かだ。気持ち良いな。このまま昼寝でも出来そうなムードだ。
本当に寝てしまおうかな、なんて気になったところで、ぼくはふと考えた。
……今、ぼくは何も考えず心に浮かんだことをぽろっと口から出してしまったけれど、あれっ、今のって実はめちゃくちゃ恥ずかしい台詞だったんじゃないだろうか。三郎がいればそれで良いとか、やばい、安っぽいラブソングの歌詞みたいだ。やばい。完全に、やらかした。恥ずかしい。
「も……もしかして、ぼく、さっき物凄く恥ずかしいことを言った?」
おそるおそる、ぼくは視線を下に向けたまま三郎に尋ねてみた。三郎は、「え、いや……」と言いにくそうに口ごもる。その反応に、耳の後ろが熱くなった。
「や、あの、今のは無意識で、その」
どうにかして今の恥を帳消しにしたい。だけど舌はもつれ、まともに喋ることが出来なかった。 やばい。恥ずかしいし、死ぬほどかっこ悪い。
「…………」
三郎は何も言わない。静けさに、胃の辺りがギュッとなった。何だよ、何か言えよ。何だったら思い切り笑い飛ばしても良い。とにかく、黙るのだけはやめて欲しい。
「……三郎、聞いてる?」
そう言って、ぼくは顔を上げて三郎を見た。そうしたら、まともに彼と目が合った。それも、結構な至近距離だった。三郎の目が、睫毛が、すぐそこにある。今度は心臓がギュッとなった。
「…………」
ぼくたちは、まるでお互い吸い寄せられるみたいに、どちらからともなくキスをした。くちびるが触れ合った瞬間、心臓が激しくバウンドした。繋いだままの手が熱い。目の痺れなんか気にならないくらい、どきどきする。
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