■カウントダウン  12■


 ぼくは三郎を探して走った。校舎の中に入ると、様々な足音が頭の中でひしめき合って大変なことになった。あまりの騒がしさに一瞬目の前がくらっとしたけれど、ぼくは我慢して三郎の足音を探る。

 かつんかつんかつん。これは女性教師だ。違う。ばたばたばた。違う。 三郎はそんなに体格が良くない。ぱすんぱすん。上靴のかかとを踏んで歩く音。これも違う。三郎じゃない。

 そういうのは全部、いらないのだ。ぼくが今欲しいのは、三郎の足音と気配だ。それ以外はいらない。余計な音を聞きたくない。

 三郎が見つからなくて、苛立ちと不安が一緒になってやって来る。一度、教室に戻ろうか……そう思い立つと同時に、静かな、だけど何処か慌てた感じの足音が耳に飛び込んできた。

 三郎だ!

 ぼくは、ぐるりと身体の向きを変えた。急に立ち止まったものだから、ぼくのすぐ後ろを歩いていた女子生徒と危うく衝突しそうになった。ショートボブの女子は露骨に眉を寄せて、「何なのこいつ」みたいな顔をした。ぼくは一瞬怯んだけれど、その女子の向こう側に三郎の後ろ姿を見つけてしまったので、それどころではなくなった。

「三郎!」

 叫んでから、あっそうださっきの彼女に謝らないと、ということに気が付いた。だけどもう、彼女の姿は既にだいぶ離れていて、一応「すいません」と言ったけれど聞こえているかどうかは疑わしい。ええとあの、本当にすみません。

 丁度携帯電話を耳に当てようとしていた三郎は、ぼくの声にすぐ反応して振り返った。

「雷蔵!」

 三郎は目を丸くして、こちらに走ってくる。今にも泣き出しそうな顔だった。

「びっくりした……探したんだよ。電話しても全然出ないし……! 八左ヱ門たちに聞いてもよく分かんなかったんだけど、何があったの?」

 よっぽど焦っていたのか、三郎はいつもよりもずっと早口だった。ぼくはと言うと、三郎に会えて安心したけれどもやっぱりまだまだテンパっていて、 「三郎、三郎」としか言えなかった。何か言いたかったけれど、言葉が出て来なかったのだ。

「うん、なあに」

「三郎、あの、あのね、ええと」

「……取り敢えず、水飲む?」

 三郎はそう言って、ぼくにミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれた。そういえば彼は、水を買いに行っていたのだっけ。ぼくは、有難く頂戴することにした。キャップを開けて、ぐいぐいと水を飲む。冷たい。美味い。自覚はなかったけれど、随分と喉が渇いていたみたいだ。

 一気に半分ほど流し込んでから、ぼくは改めて三郎に向き直った。それと同時に、休み時間の終わりを告げるチャイムが高らかに鳴り響いた。周囲の生徒たちが、気怠げな足取りで教室へと移動し始める。

 やっと三郎と話が出来ると思ったのに……と、ぼくは絶望的な気分になった。

「……チャイム、鳴っちゃったね」

 小さな声でそう言うと、三郎はこんなことを言った。

「雷蔵、貴重品は身につけてる?」

「え?」

「財布と、携帯と、家の鍵」

 ぼくは三郎の言わんとすることが分からず、首を傾げながらブレザーの上からポケットを軽く叩いた。

「えーと、うん。全部ポケットに入れてる」

「じゃあ、このままどっか行っちゃおう」

 三郎は何気ない口調で言って、ぼくの腕を軽く掴んだ。ぼくはぎょっとして目を見開いた。

「えっ……え、さぼるの?」

「うん、ゆっくり話聞きたいし」

「でも……」

「大事な話があるときは、授業をさぼったって良いんだよ?」

 そんなことも知らないの? みたいな風に言われて、ぼくは何も言い返せなかった。確かに三郎と話をしたい、と強く思っていたけれど、授業をさぼるなんて選択肢はぼくの頭にはなかったので大いに戸惑った。だけど三郎があまりに平然と提案してくるので、そういうものなのかな、という気にもなってくる。

「じゃ、行こう」

 三郎は、迷うぼくの腕を引いて歩き出した。ぼくは、引っ張られるままにあたふたと彼の後をついてゆく。

「み……見つからない?」

 不安に駆られて、前を歩く三郎に尋ねる。三郎はこちらを振り返って、にっこりと笑った。

「裏から出れば、大丈夫。堂々としてたら、結構いけるものだよ」

 三郎はやけに自信満々だった。呆れるべきなのか頼もしく思うべきか、どちらなのだろう。そこでもまた迷いながら、靴だけ履き替えて裏口から校舎の外に出た。すぐ目の前にある花壇付近にも、右手に見える焼却炉にも、その奥の駐車場にも、ひとけは無かった。裏門は、この駐車場の先にある。

  ぼくはどきどきと緊張しながら、三郎は相変わらず平然として駐車場を歩いた。校舎からぼくたちの姿が見えるんじゃないだろうかと冷や冷やしたけれど、結局誰にも見咎められることなく、ぼくたちは裏門からの脱出に成功した。拍子抜けするくらい、あっさりだった。だけど門を出る瞬間、たぶんぼくの足は震えていたんじゃないかと思う。

「ほら、大丈夫だっただろ」

 少し歩いたところで、三郎は勝ち誇った面持ちで言った。確かに大丈夫だったけれど、それで威張るのも何かが違う気がする。

「……ぼく、授業さぼるの初めてだ」

 正直に告げると、「そうなの?」と驚いた声が返ってきた。それでぼくは、何となく恥ずかしくなった。おかしいかな。真面目すぎて、かっこわるいだろうか。

「後で、呼び出されたりするかな……」

「無視しちゃえば平気だよ」

「そ、それは駄目なんじゃないかな……」

「そう? でもまあ、おれはともかく、きみは日頃の行いが良いから口頭で注意されるくらいだと思うよ。初犯だしね」

「……なんというか、三郎は、慣れてるね」

「中学のときは、さぼりまくってたから」

 三郎は、何でもないことみたいに言う。そういえば、彼の口から中学時代の話をほとんど聞いたことがない。ぼくは少しだけ、その辺に踏み込んでみようかなと思った。

「さぼって、何してたの?」

「何してたっけなあ。公園で寝たり、ネカフェで寝たり?」

「寝てばっかりじゃん」

 思わず吹き出すと、三郎も軽く笑った。

「ほんとだ。何か馬鹿っぽいね、おれ。……でもおれも、学校さぼってデートするのは初めてだなあ」

「デートなの? これ」

「違うの?」

 つい先ほどまでぼくの頭と心はメッタメタのぐっちゃぐちゃだったのに、三郎と話していたらちょっとずつ落ち着いてきた。三郎って凄い。さっき、三郎を見つけることが出来て良かった。足音を聞き分けるだとか気配を感じるだとか、訳が分からなくて薄気味悪いこの症状が、初めて役に立った気がする。

 平日の真っ昼間に、制服で、しかも手ぶらで三郎と街を歩いている。何だか変な気分だった。サラリーマンや、子ども連れのお母さんや、宅配業者のお兄さんなどなど、色んな人とすれ違った。だけど意外なことに、誰もぼくたちを怪訝な目で見たりしなかった。

「……案外みんな、ぼくらのことなんてスルーしちゃうんだね」

「そういうもんだよ」

「……そういうもん、かあ」

「それで雷蔵、どっか行きたいところある?」

 三郎の言葉に、ぼくは少し考えた。だけど、如何せんこんなこと初めての体験だし、また突然飛び出して来てしまったので、これから何処に行けば良いかなんて全く考えつかなかった。

「あんまり思いつかないな……。というか……スルーされるとはいえ、この格好でうろうろするのって、ちょっと落ち着かないかも」

「そう?」

「うん……、なので、ぼくん家でも良い?」

 それを口にするのに、ぼくは声が強ばらないよう細心の注意を払わないといけなかった。何せあの日以来……もう十日くらいになるだろうか、三郎はぼくの家に来ていないのだ。別に、家に呼ぶイコールいやらしいことをする、というわけではない。あんなことになる以前だって、家には来るけど何も無い日だってあったのだ。だから、別におかしくない。変じゃない。大丈夫のはずだ。

 ぼくは心の中で沢山、器の小さな言い訳を並べ立てた。

「うん、良いよ」

 三郎はごく普通の口調で答えた。だけど、心の中ではどういう風に思っているのだろう。考えると怖いので、想像しないことにする。