■カウントダウン 09■


 ぼくはふらふらと立ち上がった。同時に、女子グループのひとりがこちらを見ていることに気が付いた。お前いつまで残ってんだよ、という感じの視線だった。怖い。いつの間にか、教室に残っているのは彼女らの他にはぼくしかいなくなっていた。ぼくは震え上がった。急いで鞄を閉めて、教室を飛び出す。

 廊下には、もう八左ヱ門の姿はなかった。駄目元で、一組も覗いてみる。此処にもいない。兵助と勘右衛門も、帰った後のようだった。孤独感が更に募ってゆく。

 ぼくは階段を下りながら、ポケットから携帯電話を取り出した。三郎に、電話をかけてみようかと思ったのだ。このまま、ずっと気まずいのは嫌だ。今回はぼくに原因があるのだから、こちらからアクションを起こすべきだ。

  どきどきしながら、アドレス帳の中から三郎の電話番号を選択した。発信ボタンに指を掛け、大きく深呼吸をする。

 出てくれるだろうか。いや、そうやって臆していては何も始まらない。出てくれなかったら、出るまでかける。やるんだ雷蔵、根性を見せろ。

 階段を一番下まで降りきってから、ぼくはエイヤッと気合いを入れながら発信ボタンを押した。電話を耳に当てる。ばぐんばぐんと心臓が大きくバウンドした。その音と、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の演奏が混じって奇妙なメロディが頭の中でぐるぐると回った。今ぼくは人生で一番、緊張しているかもしれない。受験のときだって、こんなに震えはしなかった。

 機械的な発信音が響く。一回。二回。三郎は出ない。三回。四回。出ない。ぼくは喉元に力を入れた。泣くな、男だろう。

 五回。そして六回目、途中でプツッと小さな音がした。

「……もしもし?」

 三郎の声だった。 出てくれた! ぼくはその場で飛び上がりそうになった。途端に目の奥がぎゅうっと熱くなって涙が出そうになり、歯を食いしばった。

「あっ、さ、三郎」

 ぼくは受話器にかじりつくみたいにして、声をかけた。その声は階段の踊り場に思いの外大きく響き、ぼくはあたふたと声のボリュームを絞った。

「……今、何処にいる?」

「……本屋」

 三郎は答えた。感情の読みづらい声だった。だけど、昨日みたいにぼくを拒絶する響きではなかった。……いつもに比べたら、ずっと固い声のような気がするけれど。

 ……いいや、引いては駄目だ。踏み込むんだ。

「いつも行く、通り沿いの本屋?」

「うん」

「……今から、行っても良い?」

 口から心臓が飛び出しそうになりながら、ぼくは言った。会いたくないって言われたらどうしよう、会いたくないって言われたらどうしよう、会いたくないって言われたらどうしよう、と冷たい恐怖が容赦無く襲いかかってくる。

「……うん」

 電話の向こうで、三郎は言った。確かに「うん」と言った!

 目がくらみそうになりながら、ぼくは電話を握り直した。

「じゃあ、十分くらいで行く」

「うん、料理本のとこにいるから」

 通話を切る。それと同時に、ぼくは走り出した。三郎はちゃんと電話に出てくれた。話をしてくれた。相変わらず料理の本を見ているって、会いに行っても良いって!

 ぼくは走る。気持ちが急いて、靴を履き替えず上履きのままで校舎から出そうになった。我ながら、焦りすぎだ。ばつの悪い思いを抱えつつ、ぼくは靴箱まで戻った。改めて通学用の黒いスニーカーを取り出したところで、ふと、以前三郎と交わした会話を思い出した。

(三郎は将来、料理の道に進むの?)

(うーん、どうかな)

(あんな上手いんだから、仕事に出来そうだけどなあ。それに、料理、好きなんだろ?)

(おれは料理が好きというよりは、きみに料理を振る舞うのが好きなだけだからなあ。だからきみが食べてくれれば、それで良いよ)

 三郎は、そんな風に言っていた。嬉しいのと勿体ないのが同時にやって来て、とても変な気持ちになったことを覚えている。

 あんなことがあった後でも三郎は、ぼくのために料理を作ろうと思ってくれるのだろうか。ぼくのことを、少しでも考えてくれるのだろうか。

 ぼくは下を向いた。じわじわっと涙がこみ上げてきた。

「…………」

 ぼくは目元を拭い、首を振った。

 早く、三郎に会いに行こう。









 ぼくは本屋に駆け込んだ。急ぎすぎて、自動ドアにぶつかりそうになった。危ない。早く三郎の元に行きたいのはやまやまだけれど、少し歩調をゆるめて雑誌コーナーを通り過ぎた。そのまま、学校帰りの高校生ならばまず真っ先に向かうであろう漫画コーナーもスルーして、料理の棚に向かう。三郎と一緒にいるおかげで、それまで全く縁の無かった料理コーナーの場所を覚えてしまった。

 程なくして、三郎の姿を見つけた。料理コーナーに、ひとり佇む濃紺のブレザー。周りにいるのは女性ばかりで、彼は明らかに浮いていた。だけど彼は気にする様子もない。三郎の、そういうところは格好いいな、と思う。

「……三郎」

 ぼくは声をかけて、彼の隣に立った。それだけで、胸がどきどきした。三郎は、手に持っていた本をついとこちらに向けてきた。

「雷蔵、こういうの作ったら食べる?」

 そう言って、彼が指し示したのは「りんごキャラメルケーキ」とかいうお菓子だった。螺旋状に並べられた林檎のスライスがすごくきれいで、ひと目で、あっこれは絶対に美味い、と思った。

「え、あ、うん、食べる」

 ぼくは反射的に答えた。

「そっか、じゃあこのレシピは覚えておこう」

 三郎は、普段と変わらない表情と口調で言った。本当に、いつも通りだった。彼はぼくに「仲直り」というカードをそっと差し出してくれているのだ。ぼくは息を吸い込んだ。

  このまま、彼の優しさに甘えてしまおうか、と一瞬だけ考えた。三郎は、昨日のあれこれを全部無かったことにしようとしてくれている。色々と思うことはあるだろうに、ぼくの為にそれらを全部呑み込むつもりなのだ。ここでぼくが普通に会話を繋げれば、きっとぼくたちは元通りになれる。

「さっ……三郎」

 ぼくはぎこちなく三郎を呼んだ。これから自分が口にすることを考えたら、どうしても固くなってしまう。三郎は本を閉じて、「うん、何だい」と、こちらを見た。ぼくは言葉を続けるかどうか迷いかけたけれど、いいやここで立ち止まったらきっとぼくは死んでしまう、と思ったので正に捨て身の覚悟で続きを口にした。

「時間が、あるなら……ぼくん家、こ、来ない、か」

「…………」

 三郎は目を丸くした。ぼくの発言に驚いているのだ。ぼくは頬が熱かった。きっとぼくの顔は、真っ赤になっているのだ。恥ずかしい。恐ろしい。

「き、き、昨日の、仕切り直しが……したくて」

 流石にこれは三郎の顔を見ながら言うことは出来なかったので、うつむいた。平積みされた本の表紙が目に入る。ミツカンお酢のレシピ。カルピスのレシピ。かるしおレシピ。……かるしおって、何だろう。緊張しすぎて、関係の無いことが頭に割り込んでくる。

「……無理して言ってるなら……」

 三郎が何処か気遣わしげに言ったので、かるしおから視線を離して顔を持ち上げた。

「無理してない」

「…………」

 三郎は困っているような照れているような、不思議な顔をした。ぼくは物凄く、物凄く恥ずかしかったけれど頑張って三郎を見詰めた。三郎は料理の本を棚に戻し、小さい声で言った。

「……知らないよ、そんなこと言って」

 ぼくは返事をせずに、くるりと身体の向きを変えて歩き出した。半歩遅れて、三郎もついて来る。

  本屋を出たところで、三郎と一緒にいても瞼がじりじりしていないことに気が付いた。治ったのだろうか。そうであって欲しい。だって、ぼくは今が頑張りどきなのだ。