■カウントダウン 08■

 三郎と向かい合って、ベッドに腰掛ける。  

 キスをすると、うっとりする。三郎がぼくの髪の毛をかきまぜるみたいにして、後頭部らへんをまさぐるのも、気持ちが良い。舌と舌を絡ませると、少し息苦しいけれど胸が高鳴る。

 三郎が片手で器用に、ぼくのシャツのボタンを外してゆく。ぼくは両手で、三郎のボタンを。ぼくは両手を使っているのに、いつも三郎の方が早くぼくのシャツを脱がす。

 くちびるを離すと、呼吸が自由になる安堵と不思議な寂しさがこみ上げてくる。三郎はぼくの背から手を入れて、肩胛骨を撫でた。冷たくて、くすぐったい。耳の後ろがそわそわする。

 三郎は顔を伏せて、ぼくの胸元に舌を這わせた。ぼくの身体はベッドに倒れる。皮膚に軽く歯を立てられて、膝がびくんと跳ねた。

「…………」

 ぼくは、手を両の瞼に当てた。例の、痺れが始まった。最初は左目だけだったのに、最近は両目に出るようになった。特に、三郎と抱き合うときに頻繁に起こる。集中したいのに、出来ない。

 三郎の手が、ぼくのズボンのベルトに掛かる。目が痺れる。熱い。それにつられたのか、心臓までばくばく鳴り始めた。 時折、布越しに三郎の指が触れる。目の異変は止まらない。心臓も、暴れっぱなしだ。

「ちょ……ちょっと待って……」

 ぼくは手を伸ばして、三郎の肩をかるく押した。彼は顔を持ち上げて、軽く眉根を寄せた。

「……また?」

 三郎は押し殺した声で言った。そんな恨みがましい言い方をしなくても……なんて考えかけたけれど、よくよく思い返してみればぼくはこの一ヶ月ほど、あれこれ理由をつけては三郎とそういう状況になるのを避けていた。いざベッドに入っても、こうやって途中でストップをかけてばかりだった。寸止めをしてしまうのは、これで何度目だろう。三郎が怒るのも、無理はない。胸の中で、罪悪感が膨らんだ。

「…………」

 何と言おうか迷いつつ、ぼくは身体を起こした。三郎が、この上なく不満そうな顔でこちらを見ている。その顔を視界にとらえた瞬間、瞼にびりびりっと電気みたいな強い痺れが走った。

  同時に一瞬だけ、瞼の裏側に何かが見えた。

 すぐに消えてしまったので、詳細は分からない。多分、何処かの風景だ。地面の茶色と草木の緑らしき色彩が何となく見て取れた。そういえば、瞼のじりじりが初めて起きたときも、同じような映像が目の裏に浮かんできたのではなかったか。

「……おれの、やなとこがあるなら言って欲しいんだけど」

 三郎の声が低くなる。やばい。三郎が怒っている。しかも完全に誤解している。

 本当ならばきちんと謝って申し開きをしなくてはいけない場面なのに、身体がおかしい。瞼の痺れが抜けない。先程浮かんだ風景が、断続的に現れる。古いフィルム映像のように、不規則に上下にぶれるので、ぼくはついついその画を目で追ってしまうのだった。

  違う。駄目だ。三郎と話をしなくては。ぼくのせいで、険悪なムードになってしまっているのだ。三郎なら、きちんと説明すればぼくの変調も理解してくれるはずだから、話を、話をしないと。

 そう思うのに、ぼくの目の前に何度も謎の映像がちらつく。そうなると、そちらに意識が持っていかれる。

 青い空があって、遠くに山があって……なんだろう、田舎なのかな……。ああもう、せめて画面が揺れなければもう少しきちんと見えるのに……。

「……何か、言いなよ」

 いよいよ、やばい。三郎の限界を感じる。

「……三、郎……」

 ぼくは声を絞り出した。名前を呼ぶのが、精一杯だった。だけど、それだけでは駄目だ。三郎は続きを待っている。

「お、前が嫌とか……そういうんじゃ、なくて……」

 目の前がぱちぱちして、上手く喋れない。妙に、たどたどしい物言いになってしまった。ぼくは焦る。そんな言い方では、説得力がない。まるで本当に、ぼくが三郎に対して不満を持っているみたいじゃないか。

 謎の風景がちらつく。新たに、建物のようなものが確認出来た。ぼくが普段目にする近代的な建築物ではなく、もっと古い……木造の感じで……。

 何だろう。懐かしい、ような……。

「せめて、おれの目を見て言ってよ……!」

 三郎はぼくの頬を手で挟んで、強引に視線を合わせてきた。その瞬間、瞼に、というか目に強い電気が走った。その衝撃に、ぼくは声をあげそうになった。ばちばちっ、という音が聞こえるんじゃないかという勢いだった。

「ぃ……っ!」

 びっくりして、ぼくは慌てて下を向いた。そして、しまった、と思う。露骨に、三郎から目をそらす形になってしまった。そういうつもりでは無かったのだ。

「あっ……いや、ご、ごめん、そうじゃなくて」

 ぼくは慌てて謝った。三郎は無言だった。ぼくは更に焦る。どうしよう。今まで、三郎と喧嘩をしたことはある。怒鳴り合ったことだって。だけど、こんなのは初めてだ。

「……良いよ、もう」

 三郎はそう言って、ふいと顔を背けてしまった。ぼくは奥歯を噛みしめて、眉間に力を込めた。そうしていないと、泣いてしまいそうだった。そんな自分に、うんざりする。自分が悪いのに、ろくに弁明もせずに泣きそうになるとか、女子か。女子にも怒られそうなくらい、どうしようもない。

 最悪だ。こんな状況なのに、まだ瞼は痺れているし、謎の風景はちらちらと現れる。何なんだよ、空気読めよ。今はそっちに構っている場合じゃないんだから、引っ込めよ。

 ……そんな風に必死で念じてみても、こちらの都合などお構いなしだと言わんばかりに、不可解な現象は続く。じりじり。びりびり。











 翌日、ぼくと三郎は学校で一言も口をきかなかった。目も合わせない。そうしていたらいつの間にか瞼の痺れは収まったし、視界はすっきり爽やかになった。だけど当然ぼくの心は爽やかでもなんでもなく、真っ黒でどろどろだった。三郎。三郎を、怒らせてしまった。罪悪感と自己嫌悪で死にそうだ。

 ぼくは、自分の席に突っ伏した。担任の先生の声が、頭上を通り過ぎていく。このホームルームが終われば、放課後になる。声をかけるなら終わってすぐ動かないと、三郎は帰ってしまうかもしれない。

 ……今だったら、昨日よりはまともに話が出来るんじゃないだろうか。昨日は、本当に駄目だった。三郎に謝りたい。きちんと、説明したい。だけど三郎の前に立ったときにまた、昨日と同じことが起こったら……。

 例によって、ぼくは迷っていた。三郎に声をかけて、無視されたらどうしよう……という気持ちもあった。そんなことになったら、ぼくは一生立ち直れないかもしれない。

「……雷蔵、雷蔵」

 肩を叩かれて、ぼくは顔を上げた。目の前には、八左ヱ門が立っていた。彼は鞄を肩にかけて、何処となく心配そうな表情でぼくを見ている。

「ホームルーム、終わったぞ」

 その言葉に驚いて、周りを見た。いつの間にか教壇から先生の姿がなくなっているし、級友たちも帰り支度を終えて続々と教室を出て行くところだった

「あっ、えっ……三郎は……!?」

 ぼくは三郎の席のある、右斜め前の辺りに顔を向けた。そこには、誰もいなかった。鞄もない。

「三郎なら、もう帰ったと思うけど……」

「……そっか……」

 八左ヱ門の言葉に、ぼくはがっくりと肩を落とした。八左ヱ門は息を吐いて、「あのさ、今回は何で喧嘩してんの……?」と尋ねてきた。ぼくはどきりとする。

「いや、ちょっと……」

 ぼくは首筋を掻いた。八左ヱ門には、ぼくと三郎が付き合っているとかそういうことは話していないのだ。ましてや今回の揉めごとは、夜のあれこれに関することが原因なので、彼にきちんと説明出来る訳がなかった。

「ぼくと三郎が喧嘩すると、八左ヱ門が気まずいよね……ごめん」

 ぼくは詳細は言わずに、小さく頭を下げた。それから、ぼくも帰り支度をしないと……と思って机の横に引っかけていた鞄を机の上にのせた。

「いや、まあ……うん、早く仲直りしろよ」

 八左ヱ門は声を潜めた。周りに聞こえないようにと配慮してくれたみたいだけど、既にぼくたちの周りには誰もいなかった。教室に残っているのはぼくたちと、離れたところでおしゃべりをしている、数名のテンションが高い女子たちだけだ。彼女らは自分たちの話に夢中になっているので、こちらには一切関心を払っていない。

 つまり、今ぼくたちは「ふたりだけの話」が出来る状況にあった。だったら、訊ける。今ならあれを、訊くことが出来る。

「あのさ、八左ヱ門」

 鞄の中に、今日配られたプリントを突っ込んでいく作業を一時中断して、ぼくは八左ヱ門の顔を見た。眉の太い、男らしい顔をまじまじ見つめても、瞼が痺れたりはしなかった。

「ぼくはずっと、何かを忘れているような気がしていて、それが何なのかまだ分からないんだけど……」

 ぼくの口は、するするとスムーズに動いた。昨日とは、大違いだ。どうして昨日はこんな風に、普通に話せなかったのだろう。

「八左ヱ門、何か知ってるんじゃないのか」

 ぼくは確信を込めて、言った。八左ヱ門がたじろいだ様子を見せる。だけどぼくは、視線を外さなかった。八左ヱ門の眉が、ひくりと震える。そして彼は、笑顔になった。一見、いつもの八左ヱ門だ。だけどぼくには分かる。違う。これ本当の笑顔でなく、何かを隠す為の顔なのだ。

「……何だ、それ。何かって何だよ」

 八左ヱ門は明るい声で言う。ぼくの目の前で、見えないシャッターを下ろす。ぼくは胸が痛くなった。やっぱり、彼は知っているんだ。知っていて、隠しているんだ。

 以前は、何も言えなかった。だけど、今は違う。どうしても、どうしても知りたい。三郎と気まずくなってしまっているのも、そもそもはこの「何かを忘れているんじゃないか」という漠然とした思いが原因なのだ。

 いい加減、知らなくてはならない。ぼくは八左ヱ門の見えないシャッターをこじ開けて、その中に踏み込む。

「八左ヱ門、知っているんだろう」

「…………」

 ぼくが引かないので、八左ヱ門は面食らったようだった。女子たちが、一際高い声で笑う。ぼくは友人を凝視する。 彼の混乱し、迷っている。ぼくはひたすら、八左ヱ門を見詰める。

「お、もい……思い出したわけじゃ、ないんだよな?」

 掠れた声で、八左ヱ門が言った。ぼくは「えっ?」と聞き返す。そうしたら、彼は大きく息を吸い込んで、真っ向からぼくを見返した。そして、真顔になってぎゅっとくちびるを引き結ぶ。

「何も、思い出してないんだろ?」

「……その言い方だと、やっぱり、きみは何か知っているんだ」

  ぼくが言うと、八左ヱ門はまた眉を下げ、困り切った面持ちになった。

「お、おれは、言わないぞ」

「何でそんな……。教えてくれ、ぼくは知りたいんだ」

「お前が思い出さないなら、言わない」

 ぼくは納得出来なかった。思い出したいから教えてくれと言っているのに、その返事は理不尽だ。

「思い出そうとしても、思い出せないんだよ。どうしても」

 焦れったくて、少し早口になった。八左ヱ門は顔をしかめた。理由は分からないけれど、彼も辛そうだった。

「思い出せないならきっと、それがお前の選択なんだよ。……これ以上は勘弁してくれよ、マジで」

「何が何だか、分からない……」

 ぼくは途方に暮れて首を横に振った。思い出さないのがぼくの選択って、何だ。

 思い出したくないこと? 思い出しては、いけないこと?

 だけど、八左ヱ門は知っているのだ。それに多分、兵助と勘右衛門も。ぼくは知らない。ぼくは、思い出すことが出来ない。

 頭がぐちゃぐちゃになって呆然としていると、八左ヱ門は「……悪い、雷蔵」と言い置いて、逃げるように教室を出て行ってしまった。止める間もなかった。

 ぼくは視線を下げて、机の木目を見詰めた。八左ヱ門たちは何も教えてくれない。三郎はきっと、ぼくのことを嫌いになった。

 どうしよう。

 どうしよう。ぼくは、ひとりだ。