■カウントダウン  07■


 数日後の、昼休み。ぼくは図書室の前で立ち止まった。自動的に、ぼくの隣にいる三郎の足も止まる。休み時間の学校は大抵何処もざわざわと騒がしいものだけど、此処だけは静まりかえっている。

「行くの? 図書室」

 三郎がにこやかに言う。ぼくはその顔を見詰めた。微妙に、瞼の裏がひりひりする。以前みたいに強い痺れを感じることはほとんど無くなったけれど、最近は三郎の顔を見る度に、ほんの少しだけ瞼に違和感を覚えるようになった。

 三郎は今日もぼくの隣にいて、ぼくの表情や口調や仕草を観察して、たまに真似をする。ぼくは、以前まではそれを「変わった趣味だなー」くらいにしか思っていなかった。付き合うようになってからは、そこに「ちょっと嬉しい」と「恥ずかしい」と「どんだけぼくのこのことが好きなんだよ」という気持ちが乗っかって色々と複雑ではある。だけど、決して嫌ではない。

 その辺も多分、ぼくの忘れている何かと関係しているんじゃないかと思うのだけど……どうもはっきりしない。

「……うん。行こうかな」

 ぼくは三郎から視線を離した。同時に、瞼の痺れが引っ込む。

 図書室のドアの、ノブに手を掛ける。ひやりとして冷たかった。その冷たさが、ぼくの瞼まで伝わるようだった。

 図書室の中は、外よりも一層静かだった。ぼくはそっと、扉を閉めた。床はカーペット敷きになっていて、足音もほとんど響かない。この環境で人の足音を聞き分けるのは難しそうだな……なんてことを無意識に考えてしまう。

「おれ、ちょっと料理の本を見てくるね」

 三郎が小さく耳打ちしてくるので、「あ、うん。ぼくは文芸の方にいるね」と返した。三郎は軽い足取りで、実用書のコーナーへ向かう。ただでさえ小さな足音が、カーペットに吸い込まれてゆく。ぼくは三郎の歩幅を観察しかけたけれど、不毛だと気が付いて途中で止めた。

  何故だかすぐに、人の足音だとか気配だとかに意識が向いてしまうのだ。自分でも、わけが分からない。これも、ぼくの忘れてしまっている何かに関係があるのだろうか。

 人の足音と、ぼくの真似をする三郎。

 ……ますます、意味不明だ。ヒントに共通点がなさ過ぎる。本当にそのふたつが手がかりなのかも定かではないのだけれど。

 ぼくは文芸の棚を眺めた。新刊書がすぐに入荷されるわけではないので、顔ぶれは少し古めだ。だけど、普通の図書館ではまず予約待ちをしないと借りられないような話題書が、誰にも借りられずぽんと無造作に置いてあったりするので意外と穴場なのである。

 「舟を編む」があったりしないかなあ……なんて思いながら棚に並ぶ背表紙を眺めていたら、右の通路を挟んで隣の書架に誰かが立っている気配がした。此処からは、その人物の姿は視認出来ない。だけどぼくは何となく、そこにいるのは久々知兵助なんじゃないかと思った。本当に、何となく。

 ぼくは顔の向きを変えて右隣の書架を見た。そうしたら本当に、久々知兵助の姿があった。腕組みをして、何やら真剣に本を選んでいる。こちらには、気が付いていないようだった。

「……兵助」

 ぼくは、小さく呼びかけてみた。すると、兵助の顔がこちらを向いた。大きな目が、ぱちぱちと瞬く。

「雷蔵、ひとり?」

 兵助はそう言いながら、こちらに歩いてきた。

「ううん、三郎もいるよ。あいつは、料理の本を見てる」

「好きだなあ」

「兵助は、ひとり?」

「勘右衛門も来てる」

 兵助が囁くのと同時に、すぐ近くから声がした。

「兵助ー、探してたの無かったわー」

 普段どおりのボリュームで喋りながら勘右衛門が登場したので、ぼくと兵助は慌てて「しーっ」と口元に指を持って行った。そうしたら、勘右衛門は焦った様子で口を手で塞いだ。

「あっ、ごめ……。ていうか、雷蔵じゃん」

 勘右衛門も内緒話のトーンになりつつ、ぼくに向かって手を振った。ぼくは手を振り返しながら、「何の本を探してたの?」と尋ねた。勘右衛門は照れくさそうに笑う。

「ええー、秘密ー。鉢屋もこの辺にいるの?」

「三郎は……」

 ぼくは途中で言葉を切った。誰かがこちらに近付いてくるのを感じる。足音は聞こえないけれど、静寂のお陰で制服のズボンが擦れる音がするので分かる。そのリズムから、歩調も。

 こちらにやって来るのは、三郎だ。

  ぼくはすぐに、そう考えた。三郎。三郎が、来る。だけどそれは、口には出さなかった。

「雷……あれ、増えてる」

 本棚の向こうから、ひょいっと顔を覗かせたのは、ぼくの予想通り三郎だった。

  ぼくは、少し自分が怖くなった。ちょっと前だったら、やったー正解だーとかなんとか呑気に喜んでいたのだろうけれど、そんな気になれなかった。

 制服のズボンが擦れる音? そのリズムで歩調?

 何だ、それ。流石に気味が悪い。耳を澄ませて、ぼくは何を聞いているんだ。しかもその歩調から誰だか当てるなんて。怖い。気持ち悪い。ぼくは一体、どうしてしまったのだろう。

「よう」

「よーす」

 兵助と勘右衛門は三郎に軽く挨拶をしながら、一瞬、ほんの一瞬だけお互いに視線を交わした。それをぼくは見逃さなかった。そして、今のは何か意味のある目配せなんじゃないか、と思った。兵助は無表情だったけれど、勘右衛門は笑いながらも……何だろう、緊張だとか警戒だとか、そんなものを目に滲ませていた。

 何で? 何で勘右衛門はぼくに警戒したんだ? それに、何でぼくはそんなことが分かったんだろう。何で? 何で……。

「雷蔵。今度、こういうの作ろうと思うんだけど、どう思う?」

 三郎は笑顔で、ぼくに料理の本を差し出してきた。その目には、緊張も警戒もなかった。幸せそうで、嬉しそうだ。ぼくは安心した。だけど、純粋な笑みを浮かべる三郎の姿を見ると、ぼくの瞼は自然とひりひりする。

  どうしよう、逃げ場が無い。

 ……逃げ場って、何だ。

 ぼくは混乱しながらも、三郎の指し示すページを見た。レンコンと枝豆のコロッケ。美味そうだった。

「ええと……そうだなあ……。みんなはどう?」

 ぼくは、兵助と勘右衛門にも尋ねてみた。

「いや、きみの為に作るんだよ?」

 三郎は少し早口になって、言った。兵助と勘右衛門が、どれどれ、と料理の本を覗き込む。

「良いね。おれ、こういうの大好き」

「おれはどっちかっていうと、こっちの方が……」

 レンコンと枝豆のコロッケを見て勘右衛門は眼を細めて笑い、兵助は首を傾げて隣のページのおからコロッケを指さした。

「お前らの為に作るんじゃない、って言ってんだろ」

 目をつり上げる三郎に、ぼくたちは笑った。声が室内に響かないように注意しながら、小さく笑う。笑う。だけど、何だか少し寂しかった。

 笑いながら、また、兵助と勘右衛門が視線を合わせた。ほんの一瞬の出来事だった。普通だったら、気が付かないと思う。だけどぼくは気付いてしまった。

 彼らは何やら、目でやりとりをしている。

 ぼくに、隠しごとをしている。


   

(ちなみに勘右衛門は、忍者に関する本を探していました)