■カウントダウン 06■


 宿題はやった。英語と数学。家でやるのが嫌だから、休み時間に超特急でやっつけた。些か気の早い感がある進路相談会のプリントは、ちゃんと母さんに渡した。今週末の予定は、土曜日にいつもの五人でカラオケ。日曜は三郎と。

  インクがあふれ出した修正ペンはこないだ買い換えたし、母さんに頼まれていたコンタクトの洗浄液、歯磨き粉もちゃんと買って来た。

 忘れていない。きちんと覚えている。

 だけど、足りない。何かが欠けている。しかもだいぶ、大きなものが。ぼくはやっぱり、何か大事なことを忘れているのだ。もやもやする。ここまで気になるほどの大切なものを、ぼくは一体何処で落としてきたのだろう。

 それに、八左ヱ門の態度も気になる。以前も、こんなことがあった。八左ヱ門が明らかにぼくに隠し事をしていて、ぼくは物凄くへこんでしまったのだった。今回は、あのときほどは落ち込んではいない。それよりも何よりも、疑問である。

 何で? 何でぼくが「何かを忘れている気がする」って言ったら、あんな風にちょっとよそよそしくなるんだ。八左ヱ門は、何かを知っているのだろうか。

 今度、八左ヱ門に尋ねてみようかな。だけどまた見えないシャッターをおろされたら、今度こそへこんでしまうかもしれない。それはちょっと、怖い。

「雷蔵?」

 ふっと、三郎がこちらをのぞき込んできた。そこでぼくは思考を打ち切る。見慣れた三郎の顔を眺めていると、少しずつ頭の中に現実が染み込んできた。

  ここはぼくの部屋だ。辺りは薄暗い。そうだ、学校が終わってからいつものように三郎が家に来て、ぼくの部屋に上がって、だらだらと喋って、でもって結構良い雰囲気になっていたのだった。

「どうしたの、また何か迷ってるの?」

 三郎は苦笑しつつ、ぼくの後ろ頭を掻くみたいにしてまさぐる。それがくすぐったくも気持ちが良くて、ぼくは目を細めた。

「……迷ってるというか……。何か忘れてる気がして」

「今日の雷蔵は、そればっかだね」

 学校にいる時間にも、ぼくは何回も同じことを言っていたので、流石に三郎も呆れているのだろうか。頭の隅で、いくら三郎でもあんまり言うと引いてしまうかもしれないから、この辺で止めておくべきだ……という考えが芽生えたが、ぼくは止まることが出来なかった。

「何かどうも……なんて言ったら良いかな……」

 ぼくは眉間に力を入れて、ぼくの気持ちを停滞させているこの感情を言い表す言葉を探した。この焦りというか、不安というか、謎の置いてけぼり感というか……。

「ええと……あのほら、何だ……喪失感?」

 ぼくは首を傾げながら言った。喪失感。その言葉が正解かどうかは分からないけれど、今の心に一番近い気がする。

「かっこいい」

 三郎がそんなことを言うので、ぼくは眉を寄せた。

「茶化すなよ」

「あ、いや。そういうつもりでは無いんだけど……」

 三郎の右手は、ぼくのシャツにかかっている。明らかに、彼は次のステップに進みたがっている。それは分かる。分かるけれども、ぼくは胸の中がもやもやしすぎて、今日はちょっと無理かもしれない……と思い始めていた。

「あと……」

 たまに、瞼の裏がじりっとするんだけど、これって何だろう……と言おうとして、ぼくは途中で口を閉じた。そんなことを言ったら、三郎は過剰に心配するのではないだろうか。今すぐ病院に行こう、とかそういうことを言いかねない。

「あと?」

「えーと、今日はこれでおしまい、でも良い?」

 シャツを握る三郎の手をほどきながらなるべく朗らかに言ってみたら、三郎は物凄く不満そうな顔になった。

「えええっ?」

「何か、そんな感じじゃなくなっちゃって……」

「おしまいも何も、始まってないんですけど」

「いや、あの……今日はちょっと、無理かなーって……」

 ぼくの声は、どんどん小さくなった。ベッドに上がり向かい合った状態でこれを言うのは三郎にとても申し訳無いし気まずかったけれど、本当のことなのでしょうがない。

「…………」

 三郎はくちびるを尖らせて、ぼくから手を離した。その手を自分の膝の上に置き、じっと黙り込む。

「ご、ごめんね?」

  ぼくは精一杯謝罪の気持ちを込めて、言った。三郎はむすっとしたまま、

「じゃあ、好きって言って」

  なんてことを要求してきた。予想外の返しだった。三郎ってこういうところ、ちょっと女の子みたいだよなと思う。

「……好きだよ」

 改まって言うのはだいぶ恥ずかしいのだけれど、それで三郎の機嫌が直るならば、と思って頑張った。言う瞬間、少しだけ手に汗をかいたのは内緒の話だ。

「…………」

 三郎の頬が、ほんのり赤くなった。ぼくは胸をなで下ろす。良かった。大丈夫らしい。

 ほっとしたところでぼくはベッドを降りて、鞄の中に入れていたお茶のペットボトルを取り出してキャップを開けた。そのまま口をつけようとすると、三郎が声をかけてきた。

「……雷蔵、前髪伸びたね」

 前髪? と思ってぼくはペットボトルを口から離し、右手で自分の前髪を触ってみた。あまりそういう自覚はなかったけれど、三郎が言うのならばそうなのだろう。彼は本当に、ぼくのことをよく見ているのだ。

「じゃあ、そろそろ切ろうかな」

 ぼくは前髪を軽く引っ張って、言った。三郎は物凄く真面目な顔をして、こちらに身を乗り出してくる。

「切るときは言ってよ。おれも、同時に切るから」

「そんな厳密に、同じにしないと駄目なの?」

 苦笑しながら、ぼくはお茶を飲んだ。三郎は相変わらずぼくと同じ髪型をしていて、勝手に散髪すると「何で先に言ってくれないの?」なんて訳の分からないクレームをつけてくるのだ。

「そうだよ。やるなら、ディティールにこだわらないと」

 三郎は当たり前のことのように言う。それにも苦笑いを返したところで、瞼の裏側がじりじりじりっとなってぼくはペットボトルを取り落としそうになった。

 あれ、何だ今の。今日の中で一番大きな痺れだったような気がする。ぼくは指で瞼を揉んでみた。もう、何ともない。だけど、このタイミングで瞼が変な風になったということは……。

「…………」

「雷蔵?」

「何だろ……何か……」

 ぼくは頭を振った。分からないことが多すぎて、だんだん胸が重くなってくる。そんな中、ぼくは考えた。確証はないけれど、何故か妙にくっきりと頭に浮かんだ。 

 ぼくが忘れているらしい大事なことと、三郎がぼくの真似をしたがることは、もしかしたら何か関係があるんじゃないだろうか。