■カウントダウン  05■


 三郎をつかまえることが出来た嬉しさにぼくはすっかり浮かれてしまって、その次の授業はほとんど頭に入って来なかった。世界史の先生の声が、右から左へするすると通過してゆく。中世ヨーロッパの情勢を聞いている場合ではなかった。

 一応開いた教科書を軽く指先で叩きながら、ぼくはさっきのあれこれを頭の中で何度も繰り返していた。思い出すたびに、頬が緩みそうになる。本当に、気持ちが良かった。まだ、手のひらに余韻が残っていた。それとあのとき感じた、水の中にどんどん潜ってゆくような感覚。妙な体験だった。あれは、何だったのだろう。

 そのとき、瞼の裏側にじりっと痺れが走った。ん? と思って目元に手をやる。まただ。さっきも同じことがあった。

  ぼくは瞬きをしてみた。疲れているのだろうか。両手で瞼を揉む。異常を感じたのは一瞬だけで、もう何ともなかった。











 授業が終わって、教科書とノートを机に押し込んでいると、右斜め後ろ辺りから、誰かが歩み寄って来る気配がした。ぼくは前を向いたまま、 「八左ヱ門?」と言った。ほぼ直感だった。

「…………」

 右斜め後ろの誰かは、足を止めた。何も言わないが、ぼくは確信していた。これは、竹谷八左ヱ門だ。

「八左ヱ門だろ?」

 繰り返すと、やや戸惑った調子の「……お、おう」という答えが返ってきた。ぼくは振り返る。思ったとおり、そこには八左ヱ門が立っていた。ぼくはにっこりする。

「やった、当たった」

 また少し、テンションが上がった。今日のぼくは、向かうところ敵無しなんではないだろうか。

「……よく、おれだって分かったな」

「分かるよ。だって足音と……」

 そこまで言ったところで、また、瞼がじりっとした。ぼくは言葉を切り、目に手を当てた。じりじりと、目の裏側が微かに痺れている。何だこれは。痛いだとか、視界がおかしいだとか、そういうこと一切無かったけれど、何だか気持ちが悪い。

 何となく、自分の身体が何かを警告している気がした。具体的なことは分からないけれど、何となく。

「…………」

「雷蔵?」

 突然黙り込んだぼくを妙に思ったのか、八左ヱ門がぼくの肩を叩く。はっきりしない心持ちのまま、ぼくは顔を上げた。気が付けば、変な痺れは無くなっていた。だけど、胸がもやもやする。

「ぼく……」

 ぼくは口を開いた。八左ヱ門は、少し心配そうにこちらを窺っていた。ぼくはそんな彼の目を見る。一重の瞼に短い睫毛、それに濃い茶色の瞳を、じっと。

「何か……忘れてることがあったっけ?」

 無意識に、そんなことを言っていた。口にしてから、そうだそれだ、と思った。ぼくの身体が訴えていたのは、お前は何か忘れているぞ、ということだったのだ。

 忘れていること。一体何だろう。ぼくは、何を忘れているのだろう。物覚えは悪い方ではないつもりだけれど、たまに物凄く簡単なことを忘れてしまったりするから、油断出来ない。そういうときは、ぼくの代わりに大体三郎が覚えていてくれて、とても助かるのだけど、彼を頼ってばかりではいけないなと常々思って……あれっおかしいな、思考が脱線し始めた。そういう話ではないのだ。

 それにこの「何か忘れてるんじゃないか」感にとらわれるのは、初めてではない。ぼくは何かを忘れている。何だっけ。何を思い出さないといけないのだっけ。

 ぼくはじっと、じっと八左ヱ門の目を凝視し続けた。そうしていたら、答えをくれるんじゃないかと期待したのだ。たとえ言葉に出さなくても、彼の目や表情が語ってくれるのではないかと。

 八左ヱ門はすっと息を吸い込んでから、口を開いた。

「何かって? 宿題?」

 八左ヱ門は、軽い口調でそう言った。普段通りの、明るい笑顔だった。

 だけどぼくは、彼が見えないシャッターのようなものを下ろしたのを感じてしまった。確かに彼は今、ぼくに対して一線を引いた。

  あれっ、八左ヱ門。それ、ぼくに隠し事をするときの態度だよね? 何で? 何で今、誤魔化そうとしたの? 何か忘れてることがあったっけ、ってただ尋ねただけなのに、どうしてそんな……。

「…………」

  ぼくは何を忘れているのか、と、どうして八左ヱ門の態度が変わったのか、という二つの疑問がごっちゃになって訳が分からなくなってきた。
ぼくは八左ヱ門から視線をそらす。

 急に頭が冷えてきた。今まで浮かれていたのが、馬鹿みたいだ。足音がどうとか気配が何だとか、八左ヱ門はぼくに引いてしまったんじゃないだろうか。絶対にそうだ。途端に後悔が胸を支配する。変なことを言わなければ良かった。

 ふと、三郎の気配を感じた。一瞬、三郎、と言いそうになったけれど、また八左ヱ門から変に思われることを恐れて口を閉じた。

「雷蔵、これ読んだよ。有難う」

 三郎はぼくの正面に回り、文庫本をこちらに差し出してきた。和田竜「のぼうの城」下巻である。昨日、ぼくが貸したやつだ。

「あ……うん。どういたしまして」

 何となく歯切れが悪くなりつつ、ぼくは彼から文庫本を受け取った。

「三郎……あのさ」

「うん、なあに、雷蔵」

 三郎は笑っている。ぼくは、喉元までこみ上げてきている言葉を外に出そうかどうか、迷った。どうしよう。言わない方が良いのかな。言うにしても、三郎とふたりのときにするべきかもしれない。だけど、ああ、だけどどうしても今気になる!

「何か忘れてることって、ないかな?」

 結局、ぼくは三郎にも同じことを尋ねた。視界には入っていなかったけれど、八左ヱ門が僅かに緊張したのが分かって、あっやっぱり言わない方が良かったのかも、と思った。だけど、言わずにはいられなかったのだ。

「何かって? 宿題?」

 三郎は、きょとんとして答えた。八左ヱ門と、全く同じ答えだった。だけど、彼は見えないシャッターを下ろしたりはしなかった。ぼくとの間に、一線を引くこともない。本当に、心からそう思って言っているのだ。

 それが分かって、ぼくは心底ほっとした。良かった。三郎にまで引かれていたら、どうしようかと思った。

 しかし、問題は残っている。

 ぼくは何かを、それもきっと大事なことを忘れてしまっているのだ。