■カウントダウン 04■
休み時間。ぼくの耳の中では様々な音が揺れていた。その中でも、やはりよく知っているからか、八左ヱ門の足音が際立って聞こえる。
ざっかざっか。がつんっ。痛そうな音と、息を呑む気配。どうやら、机に脚をぶつけたらしい。女子が「何やってんの?」と怪訝そうに声をかけ、それに対し八左ヱ門はぶっきらぼうに「何もしてねえよ」と返す。
ぼくは 自然と笑顔になった。八左ヱ門って、良いなあ。上手い表現が見つからないけれど、何か良い。ぼくは彼の、ああいうところが好きだ。
「雷蔵、何か良いことでもあったの?」
そんな声が聞こえてきて、ぼくは目線を上に向けた。ぼくの机のすぐ側に、三郎が立っている。にこにこの、やわらかな笑顔。やっぱり、足音は聞こえなかった。
しまった、油断した。
……油断って、何だ。
「…………」
ぼくは、じいっと三郎の顔を見た。最初は笑っていた三郎も、五秒、十秒と経った辺りで「え、何なに、どうしたの」とそわそわし始めた。ぼくは彼の眉間辺りに視線を固定したままこう言った。
「三郎、ちょっとその場で足踏みしてみて」
それを受けて三郎は、何でそんなことを言うの、みたいな顔で首を傾げた。だけれど、ぼくが「足踏み」と再度促すと、その場で足踏みをし始めた。右足、左足、右足。すとん、すとん、すとん。三郎が床を踏みしめる音が、きちんとぼくの耳にも聞こえてきた。
「出来るじゃん」
思わずそう言ったら三郎は「えっ雷蔵、おれが足踏み出来ないと思ってたの?」と目を丸くした。それについての説明はせずに、
「じゃあ次は、向こうから歩いてきてぼくの肩を叩いて」
とリクエストした。三郎は、ますます意味が分からない、という風にくちびるを尖らせたが、反論はせずにぼくの指さす方向へと歩き出した。ぼくは前を向いて、三郎の気配を感じ取ろうとくちびるを引き締める。
よし、いつでも来い……と思ったところで、ぽんぽんと肩を叩かれた。えっと思って振り返る。そこには三郎が立っている。
「何でそうなるの?」
ついつい、非難めいた声が口を突いた。だって今回は、三郎がこちらに来るのだということは分かっていて、そのつもりで準備をしていたのだ。それなのに、分からなかったのである。そんなことって、あるのだろうか。
「いや、あの、何が?」
困惑をあらわにする三郎に、ぼくは「足音……」と呟いて彼の足下をまじまじと見た。白い上履きが目に入る。学校指定の、ごく普通の上履きだ。何ら特別なものではない。ぼくだって、同じものを履いている。
「おれの足音があんまりしない、って話? そういえば、前もそんなこと言ってたね。そうなのかなあ」
相変わらず彼自身には自覚が無いみたいで、三郎は足を持ち上げて自分の靴の裏を眺めたりしている。
「足音だけじゃなく、気配が無いんだよ、三郎は」
「本当に? おれ、雷蔵に対しては存在感をバンバン出していってるつもりなんだけど」
三郎は真面目な顔をつくって、胸の前で手を組んだ。そして、きらきらした目でこちらを見る。ほんの少しだけ、むっとした。ぼくは、真剣に話をしているのだ。
「そういうのとはまた意味が違ってて……」
ぼくは途中で口を閉じた。この感覚を明確に伝える言葉が見つからなかったのだ。
ぼくは悔しかった。どうしても、どうしても悔しかった。腹のあたりがもやもやする。
「ぼくはさあ……」
「うん」
「誰よりも、三郎のことを知っている人間になりたいんだよ」
そう言うと三郎の顔に、水に絵の具を落としたみたいに一気に赤色が広がった。
「らっ、雷蔵……。そういうことを、此処で言われたら、やばいんだけど……」
首筋まで真っ赤になった三郎は、もじもじしながら声を震わせた。深く考えずに言ったことだったけれど、そんな反応をされたらぼくまで恥ずかしくなってしまう。
「えっ、あ……そういう意味じゃなくて……いや、そういう意味なのかな……? ええと、まあ、ほら」
ぼくたちの間に漂い始めた変な空気を消すために、ぼくは大きく手を払った。今のはぼくが悪い。とても不用意だった。こんな、クラスメイトが大勢いる教室の中で、ムードを作ってどうするんだ。反省しつつ、ぼくは大きめの声で言う。
「と、とにかく、もっかい」
「もっかい? 歩いてきて肩叩くやつ?」
「そう」
頷くと、三郎はまだ赤みの引かない顔を手で扇ぎ、二度咳払いをしてからぼくの後方へと姿を消した。ぼくも恥ずかしさを紛らわせようと、ひとつ咳をした。
ぼくは机の上で手を組んで、目を閉じた。教室を覆っているざわざわが頭の中を埋め尽くしていく。この中から、三郎の気配だけを抜き取るのだ。
出来る、と思った。ぼくならきっと出来る。呼吸を整える。耳に意識を集中させて、雑音を排除しようと試みる。もっと集中したい。息を吸う。吐く。吸う。吐く。少しずつ、頭の中が透明になってゆく気がした。あ、これは良いかもしれない。いける前兆なのかも。
もっと、もっと……と頭の中で念じていたら、少しずつ、自分の身体が水に沈んでゆくような、そんなイメージが湧いてきた。もっと、もっと。
ぼくはどんどん、奥へ潜る。もっと、もっと、もっと。もっと深く、もっと。
そのとき、どぷん、と何か深みに嵌るような感覚に襲われた。階段を踏み外したときみたいな、急に足場が消えてしまうあの感じだ。
次いで、瞼の裏に痺れが走った。真っ黒な視界に一瞬だけ、何かが見えた。何かは分からない。あっと思ったときには、既に跡形もなかった。
ここから、ぼくの身体は明らかに変わった。以前よりももっと感覚が研ぎ澄まされていることが、自分でも分かった。空気の流れが目に見えるような気がするし、音の無い音まで聞こえるんじゃないかと思った。
そして、はっと気が付いた。三郎が、こちらに近付いて来ている。相変わらず、足音は聞こえない。だけど分かる。三郎は、ぼくに向かってゆっくり歩いてきている。その気配をはっきりと感じた。
どうして今まで、これが分からなかったのだろう。三郎の、「雷蔵に対して存在感をバンバン出している」という言葉は嘘じゃなかった。物凄く、分かりやすい。ぼくに気付いて欲しい、という主張をひしひしと感じる。
よし、今だ。
ぼくは、薄く微笑んだ。そして勢いよく振り返り、今まさにぼくの肩を叩こうとしていた三郎の腕を掴んだ。一瞬、彼の手がびくりと震える。やった。タイミングも、ばっちりだった。
「つかまえた」
そう言うと、三郎が目を丸くした。ぼくはとても気分が良くなって、笑い声をあげた。
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