■カウントダウン 03■
家族に「行って来ます」と声をかけてから、玄関へと向かう。スニーカーに足を突っ込み、通学鞄を肩にかけ直してぼくは外に出た。
「寒……っ」
思わず声が漏れるくらい、空気が冷たかった。今日の最高気温は何℃だと言っていたっけ。天気予報を見ずに出て来てしまった。空も何だか曇っているし、雨が降ったら嫌だなあ……。
灰色の空を見上げながら、てくてく歩く。大柄な男子中学生が、ぼくの横を駆け足で追い越して行った。だだ、だだだだ。荒々しい足音だ。だけど、怪我でもしているのだろうか。何だか少し変な足音だった。
足首? 膝? ……あ、中学生だったら成長痛かもしれない。ぼくにも、そういう時期があった。懐かしい。
そんなことを考えていたら、背後からひとつの足音が聞こえてきた。とた、とた、とたん。気怠げな音だ。そしてぼくは、この足音を知っている気がする。
……八左ヱ門、かな?
いかにも眠そうな足音が、不意に、とたたたた、と早足になった。絶対に、八左ヱ門が。ぼくが前を歩いているのに気が付いたから、走って来ているのである。とたたたた、はぼくから少し離れたところで一瞬止まり、とす、とす、と小さな音に変わった。
分かった。そっと近付いて、ぼくを驚かせるつもりなのだ。
ぼくはこっそり口元に笑みを浮かべた。それじゃあ逆に、八左ヱ門をびっくりさせてやろう。
ぼくは勢いをつけて、後ろを振り返った。案の定、そこにはぼくに向かって手を伸ばそうとしていた八左ヱ門がいて、彼は「うわびっくりした!」と身体をのけぞらせた。期待通りの反応である。ぼくは、にやりとした。
「おはよう、八左ヱ門」
「おはよー。何だよ、びっくりさせるつもりだったのに……」
「八左ヱ門、下手だよー。すごく分かりやすかったよ」
「えっ、マジで? だっておれ、途中から本気で……」
「膝カックンする気だったろ」
「.……する気だった」
八左ヱ門は、くちびるを尖らせる。ぼくは大満足だった。足音だけで八左ヱ門だって見抜いたし、途中から彼が足音を忍ばせていたこともちゃんと分かったのだ。これって結構、凄いんじゃないだろうか。
「……あのさ、雷蔵……。今日って何か夢とか、見た?」
「夢?」
八左ヱ門の質問があまりに唐突だったので、ぼくは少しびっくりしてしまった。そして考える。夢。何か見ただろうか。記憶をぐるぐる巻き戻してみるが、何も出て来なかった。
「……いや、見てないと思うけど」
そう告げると、八左ヱ門は「……そっか」と頷いた。そこで話が終わってしまったので、ぼくは笑って「えっ、なに何。どうしたの」と八左ヱ門の背中を軽く叩いた。八左ヱ門は、へへ……、と気の抜けた笑いを浮かべた。ぼくは首をかしげる。
「八左ヱ門は、何か夢を見たの?」
「いや、おれは何も見てないんだけど」
「何だそれ。一体何が言いたかっ……、あ」
ぼくは途中で言葉を切った。背後から聞こえてくるいくつかの足音の中に、またも知っている響きが混じっていたのだ。更に、ごくごく小さくではあるが、
「兵助、帰りチャリ屋について来てよ」
「めんどくさいなあ」
というやりとりが耳を撫でる。
兵助と、勘右衛門だ。
ぼくは振り返った。すぐ後ろには、カップルとおぼしき男女がいた。楽しそうに、映画の話なんかをしている。その少し後ろには、坊主頭でスポーツバッグを肩に掛けた男子生徒。更にその後ろ、やや離れたところに兵助と、自転車を押して歩く勘右衛門の姿があった。
「兵助、勘右衛門!」
ぼくは、友人たちに向かって大きく手を振った。
「お? おお、雷蔵、八左ヱ門!」
彼らも手を振り返してくれる。ぼくと八左ヱ門は足を止めて、ふたりが追いつくのを待った。
「……雷蔵、あいつらが来てるって分かったの?」
八左ヱ門が、そっと尋ねてきた。ぼくたちの横を、カップルが通り過ぎてゆく。ぼくは頷いた。
「うん。勘右衛門たちの声、聞こえなかった?」
「後ろのカップルがうるさくて、おれは何も聞こえなかった」
八左ヱ門は言って、遠ざかってゆくカップルの後ろ姿を恨めしげに睨みつける。ぼくは「よしなよ」と苦笑混じりに彼をたしなめた。それと同時に、勘右衛門たちがやって来る。
「勘右衛門、チャリどうしたん」
八左ヱ門は勘右衛門の自転車を指さした。勘右衛門は悲しそうに眉を下げ、こう言った。
「それが、パンクしちゃってさあ」
「ああ、だから帰りに自転車屋行くとか話してたんだ」
ぼくが口を挟むと、勘右衛門は「えっ」と大きな声をあげた。
「雷蔵、聞こえてたの?」
勘右衛門が驚きをあらわにするので、ぼくは少し気分が良くなった。
「うん、聞こえた。兵助は『めんどくさい』って言ってただろ」
それを聞いて勘右衛門はあんぐりと口を開け、兵助の方を見た。兵助も、勘右衛門を見た。……あれっ何だこの感じ……と思っていたら、勘右衛門は視線をこちらに戻した。
「……あの、雷蔵。昨日は何か夢とかは……」
勘右衛門が神妙な顔で訊いてくるので、ぼくは軽く噴き出した。
「それ、さっき八左ヱ門にも訊かれたけど、何かあるの?」
「えっ、あ、そうなの? いや、別に……」
勘右衛門の返事ははっきりしなかった。結局彼らが何故、こぞって夢を見たかどうか尋ねてきたのかはよく分からないまま、話題はなんとなく流れて今週のジャンプの話になった。ぼくは友人たちの態度が少し不思議だったけれど、まあそんなに気にする程のことでもないかな、と特に追及しなかった。
それにしても、今日の冴えっぷりには少しびっくりだ。ここまで人の足音や声を聞き分けられるなんて、今日は相当調子が良いらしい。ぼくは友人たちの会話を耳の端で何となく聞きながら、これで三郎が来るのも分かったらパーフェクトだな……なんてことを考えていた。パーフェクト、という表現もおかしな気がするけれど、気配を察知し、足音をとらえるのが思いの外楽しくて、はまってしまいそうだ。
ジャンプの話も一区切りし、八左ヱ門が「名探偵コナン」の話題を持ち出してきた辺りで、学校に到着した。校門の周りには生徒が大勢いて、その分沢山の足音と話し声に満ちていた。勘右衛門は駐輪場に向かい、ぼくと八左ヱ門、兵助の三人は先に校舎へと足を向けた。
コナンは途中までしか読んでいないという兵助に、八左ヱ門とふたりで最近のストーリーを説明している最中、突然誰かがぼくの背後から抱きつくようにして、手でぼくの目元を覆った。急に視界が暗くなって、ぼくは「うわっ!」と声をあげて足を止めた。どん、と後ろにいる誰かの身体が、ぼくの背中にぶつかる。
「だーれだっ!」
楽しくて仕方が無い、という声が耳に流れ込んでくる。声を聞けば……というか、聞かなくてもすぐに誰だか分かる。こんなことをするのは、鉢屋三郎しかいない。しかしぼくにとって、そんなことは問題ではなかった。
まったく、気が付かなかったのだ。三郎が近付いて来ていることを、ほんの少しでも察知することが出来なかった。完全に不意を突かれた。何で、と思った。今日は絶好調のはずなのに。八左ヱ門や兵助、それに勘右衛門はすぐに分かったのだ。それなのに三郎は、触れられるまで気付かなかった。
「三郎、うっぜえ」
八左ヱ門の、冷め切った声がした。
「あっ馬鹿お前、答え言うなよ。雷蔵に当てて貰いたかったのに」
「そんなのすぐに分かるって」
兵助も、すっかり呆れているようだった。三郎は不服そうに「ええー」と言いつつも、まだぼくの目元から手を離そうとしない。
「三郎、分かったから手を離してよー」
そう言うと、ぱっと目の前が明るくなった。笑顔の三郎が、ぼくの正面に回り込んでくる。
「ふふ、おはよう雷蔵」
「……おはよう」
ぼくも挨拶を返す。三郎の笑みが深くなった。とても、幸せそうな表情だ。ぼくは彼の、そんな顔を見るのが好きだった。
だけど、悔しい。悔しくて仕方が無い。どうして、三郎の足音が分からなかったんだ。ぼくは三郎の一番近くにいるのに……三郎のことが好きなのに、彼の足音や気配が掴めないなんておかしいじゃないか。
悔しい。前から三郎は足音があまりしないなとは思っていたけれど、これは悔しい。歯がゆさに、胸の辺りがもやもやする。
……もっと、感覚が鋭くならないだろうか。もっともっと集中したい。
三郎の足音も分かるくらいに、もっと。もっと……。
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