■カウントダウン 01■


 ぼくは、不破雷蔵は、何か大事なことを忘れている気がする。





 ずっと引っ掛かるものはあった。明確に何がどう、とは言えないけれど、小さな違和感と既視感が胸にじりじりと積もってゆくのをぼくは感じていたのだ。何かが違う気がする。これは知っている気がする。気がする。気がする。最近、そんなことばかりだ。何か大事なことを忘れている「気がする」。ここでもまた、気がする、の登場だ。すべてが確信ではない。それがとても気持ち悪い。そわそわする。落ち着かない。

「……何か、大事なことを忘れている気がする」

 最初にそれを打ち明けた相手は、鉢屋三郎だった。場所は学校の、図書室のすぐ近く。三郎はそれを聞いて目を数度瞬かせ、「……何か忘れ物?」と首を傾げた。違う。そうじゃない。正確に伝わらないもどかしさに、地団駄を踏みたくなった。

「もっと、もっと大事なことだよ」

 そう言ってみても、三郎には通じない。

「ぼくだけじゃなくて、お前もだよ」

 何故か、そう思った。三郎も、ぼくと同じなんじゃないかと。根拠は無い。そんな気がしたのだ。また、気がする。違和感の欠片がぼくの内側を刺す。どんどんフラストレーションが溜まっていく。

「おれも?」

「そう、三郎も」

 三郎は明らかに「何を?」という顔をしていたが、ぼくがその答えを出せずにもやもやしていることを感じ取ったのか、何も言ってこなかった。

 このときはまだ、忘れている「気がする」だった。おなじみの「気がする」だ。推論の域を出ない。だけどそれは、じりじりと確信に変わっていくことになる。

 最初に意識したのは、足音だった。

 何となく、人の足音が耳につくようになったのだ。特に、学校で。本を読んでいるときや、友達と喋っているときなんかは気にならないのだけど、手が空いたふとした瞬間に、人の足音が妙に耳に入ってくるのだった。

 休み時間のことだ。ぼくは自分の席でぼんやりしていた。休憩中は、みんな教室の中をあちこち歩き回るから大変だ。軽快だったり、すり足気味だったり、慌ただしかったり騒がしかったり、様々な音がぼくの側を行き交うので気が散ってしょうがない。

  男子は無遠慮にどすどすと歩く。女子は比較的静かな足音が多い。走るときも、ぱたぱた、くらいだ。でも、たまーに、男勝りな足音の女子もいる。ばたばたばた、どんどんどん。

 ……ぼくは何だってまた、足音なんかを真面目に聞いちゃっているんだろう、と思ったところで三郎がやって来た。彼の姿を目にした瞬間、周囲の足音が全部溶けて形のないただの雑音と化し、何も気にならなくなった。

「雷蔵、雷蔵これ見て」

 三郎は嬉々として、手に持っていたノートを差し出してきた。購買部で売っている、ごくごく普通の大学ノートだ。見たところ、新品だった。

「ノート?」

 これがどうかしたの? という気持ちを込めてぼくは言った。そうしたら三郎はいつもの幸福そうな笑顔と共に、「うん、きみとお揃いだよ」と深く頷いた。ぼくはついつい笑ってしまう。

「いちいち見せに来なくて良いよ」

 三郎は、持ち物を何でもぼくとお揃いにしたがる。出会ってから、ずっとだ。ぼくはもう、彼のそういうところにもすっかり慣れた。何だったら、ちょっと可愛いな、くらい思う。

「なあなあ雷蔵、三郎。勘右衛門からのメール見た?」

 今度は、携帯電話を手にした竹谷八左ヱ門がやって来た。ぼくは 「あ、見てない」と答えた。携帯電話は鞄の中に入れっぱなしになっていて、今日は一度も確認していなかった。

「おれも見てない」

 三郎も、首を横に振る。八左ヱ門は「見てやれよ……」と苦笑する。どうやら勘右衛門は、ぼくたち三人宛てに同じメールを送ったようだ。唯一メールを見たらしい八左ヱ門に、ぼくは尋ねる。

「勘右衛門、何て?」

「日曜、スイパラ行こう、って。ちなみにおれは、嫌だって今から返す」

「ああ……男だけで行くのは流石に……」

「あいつ、そういうの分かんねえんだよ。馬鹿だから」

「雷蔵、スイパラって何?」

 三郎が無邪気な表情でぼくの袖を引っ張る。彼はとても頭が良いけれど、こういうことは意外と知らないのだ。

「ケーキとかのお菓子が食べ放題のお店」

「美味いの?」

「三郎が作ったお菓子のが美味しいよ」

「…………」

 ぼくの言葉を受けて、三郎は口の端をむずむずっとさせた。にやけるのを我慢しているときの顔だ。ぼくは少し笑いそうになってしまった。だけど、嘘は言っていない。三郎が作ったお菓子の方が、美味しい。

「お前らどうすんの。何なら、まとめて返しとくけど」

 八左ヱ門は携帯電話を軽く振る。ぼくは少し迷った。勘右衛門らしいお誘いだし、彼と一緒に遊ぶのは楽しいから良いのだけれど……。

「……ぼくもちょっと遠慮する、って書いといて」

 やっぱり男だけでスイーツ食べ放題はきつい、という結論に達したので、ぼくはそう答えた。そうしたらすぐに三郎が「雷蔵が行かないなら、行かない」と続けた。

「じゃあ、全員NOって書いとくわ」

 八左ヱ門は頷いた。それから一分もしない内に、彼の手の中にある携帯電話が震えた。

「返信早っ。『おれは甘いものが食いたい。妥協案を提示せよ』だって」

「妥協案……」

 真面目に考えようとしたぼくをよそに、三郎はいかにも適当な口調でこう言った。

「ひとりで行けば良いんじゃないの、そのスイパラに」

「三郎、そんな風に言っちゃ可哀想だよ」

「あいつなら行きそうだけどな」

 八左ヱ門がそう言ったところで休み時間終了を告げるチャイムが鳴ったので、ぼくたちは雑談を打ち切った。「じゃ」と短い挨拶を交わし、三郎と八左ヱ門が各々の席に戻っていく。妥協案をちゃんと考えないとな……と思いつつ、ぼくは何となく、三郎の後ろ姿を目で追った。

 また、クラスメイトたちの足音がやけに大きく響き始める。ぼくはその中から、三郎の足音を探そうと試みた。

  ……だけど、分からなかった。ばたばた、とんたん、すそすそ、色々な音がするけれど、どれも三郎の足の運びとは合わない。全部、三郎の足音じゃない。そうなると妙に気になってしまって、ぼくは一層意識を集中させて三郎の足音を聞き分けようとした。

 三郎は自分の席の前で一旦立ち止まり、こちらを見た。目が合う。彼はにこっと笑ってぼくに手を振った。ぼくも、同じように手を振り返す。三郎は満足げに微笑んで、席についた。

 半ばむきになっていた心が、すっと落ち着いていく。ぼくは何をやっているんだろう、と思った。三郎の足音を当てようなんて、我ながらちょっと気持ちが悪い。ぼくは自分が恥ずかしくなった。

  次の課目はなんだっけ。そうそう、現国だ。ぼくは気持ちを切り替えて、机の中から現国の教科書とノート、それに便覧を取り出した。