■あい、うえ 前編■
「死ぬ……」
ふらふらと廊下を歩きつつ、八左ヱ門は呟いた。雷蔵も同感であった。しかし返事をする気力が湧かない。身体と頭が重かった。
「断食の訓練は良いよ。でも何でわざわざ、校内で実施するんだ……」
山にでも放り込んでくれたら良いのに、と八左ヱ門は力のない声で言った。雷蔵はそれにも同感であったが、やはり返事をする力は出ないのだった。
五年ろ組が断食の訓練を始めて、今日で四日になる。
食い物は一切禁止で、水は最初に配られた水筒と、雨水などの自然から得られる水分のみを摂取して良いこととなっていた。そういうわけで五年ろ組では雨乞いの祈祷が大流行し、朝方には植物から朝露を採取しようと必死の形相で庭に集った。それゆえ、最近の彼らは下級生たちに不気味がられていた。
そんな中でも、授業は普通に行われる。これが大層辛い。教科は全く集中出来ないし、実技は身体が動かない。それでも教師は、生徒たちを容赦なくしごく。雷蔵たちは、日ごと命が摩耗してゆくのを感じていた。
しかしそれよりももっと過酷なのは、五年ろ組以外の生徒たちは皆、普段通り飲み食いしている、ということだった。食堂から立ち上る匂い、他の生徒たちが何気なく持ち歩いている食料など、とかく誘惑が多い。それに負けて食ってしまえば当然失格だ。体力以上に、精神力が試される試練であった。
「……ぼく、昨日委員会で後輩に、目が怖いって言われちゃってさ……」
今までそんな風に言われたことなかったのに……と、雷蔵は肩を落とした。すると八左ヱ門が、濁った目を向けてくる。
「おれなんか孫兵に、じゅん子の半径十尺以内に近寄るな、って言われたぜ」
「ああ……危険を察知したんだろうねえ」
「そんな、食いつきそうな顔してたかな……」
「生物委員は色々と大変そうだね……」
「そうなんだ……。正直あいつらが、美味そうに見えて仕方がなくて……」
ああおれは生物委員失格だ、と八左ヱ門は嘆いた。雷蔵は彼を慰めてやりたかったが、慰撫の言葉はもやもやと霞んで形にならなかった。
「ところで雷蔵。三郎は何処行ったんだ?」
「お使いで、街に行ったよ」
「うわあ……気の毒に……」
八左ヱ門は顔をしかめた。街は一番誘惑が多い場所だ。市場の呼び込みに、あちらこちらから漂ってくる芳香、それに店先にどっさり積まれる野菜や魚や米。想像するだに恐ろしい光景である。
「よう、ろ組」
後ろから、ぽんと背中を叩かれた。い組の、久々知兵助の声だった。八左ヱ門は、嫌そうな表情で振り返った。
「うわっ、出たな、余裕のい組め」
八左ヱ門の言葉に、兵助は腕を組んで不敵に笑った。
「そう。先週、断食の訓練が終わった余裕の五年い組ですよ」
「何だよ、腹減ってんだから絡んで来るなよ」
八左ヱ門は手に持っていた教本を軽く振り、そのまま歩き出そうとした。そんな彼の前に、兵助が回り込んで立ちはだかる。
「お前……一週間前のおれに何をしたか、忘れたとは言わさないぞ」
「えー、何かあったっけ?」
何やら怒りに燃える兵助の目を面倒くさそうに見返して、八左ヱ門は顎を掻いた。
「お前……っ、あんな非道な真似をしておいてそれを忘れるなんて、なんて奴だ……!」
「腹が空き過ぎて、頭が回らないんだって。お前も先週この実習やってんだから、分かるだろ」
勘弁してくれと言うように、八左ヱ門は両手を広げた。
「……で、ハチは一体何をしたの」
雷蔵は兵助に尋ねてみた。兵助は「聞いてくれよ、雷蔵!」と言って雷蔵の腕を掴んだ。それだけで、雷蔵は倒れ込みそうになったが、どうにか足を踏ん張った。
「こいつ、断食中のおれの目の前で、饅頭を食ったんだぜ!」
兵助は言って、八左ヱ門の顔を指さした。当の彼は手を打ち鳴らし「ああ、そんなこともあったっけ」と頷く。雷蔵は顔をしかめた。
「……ハチ、それ流石に酷いよ」
ぼくがされても怒るよ、と冷ややかな視線を八左ヱ門に向けると、彼は心外だというように眉を寄せた。
「いや違うんだよ、雷蔵! たまったま、部屋で饅頭食ってたとこに兵助が来ただけだって!」
「授業終わったら、ハチの部屋行くって言ってただろ!」
「ああもう怒鳴んな! 空きっ腹に響く!」
八左ヱ門は、自分のことは棚に上げて大声を張り上げた。兵助は、そんな彼を見てふっと勝ち誇った笑みを浮かべ、懐に手を差し入れた。
「そんなわけで、ハチ。今日は復讐しに来たぜ」
「な……っ、兵助お前、まさか……っ」
不穏な気配を感じて、八左ヱ門は後ずさる。兵助は、勢いよく懐から手を出した。その手には、白い饅頭が握られている。
「お前の目の前で! 饅頭を、食ってやる!」
「うわやめろ! おれの前に食い物を出すな!」
八左ヱ門は眩しいものでも見たかのように、慌てて饅頭から目をそらした。兵助は、満足そうに笑う。
「今お前が感じてる苦しみは、かつてのおれの苦しみだぜ。ちなみにこの饅頭は、評判の名店、金剛屋さんの饅頭だ」
「最低だ! 最低だこいつ! ちょっ、すげえ良い匂いするし! 何それめっちゃ美味そう!」
「よし、じゃあ食おうかな」
「やっ、やめてくれええっ!」
八左ヱ門は、頭を抱えて泣きそうな声で絶叫した。側を通り過ぎる下級生たちが、何事かと彼らをちらちら見やる。
雷蔵は若干呆れつつ、友人たちのやりとりを眺めていた。しかし兵助の持っている饅頭は雷蔵にも目の毒であったので、早々にこの場から立ち去ることに決めた。
「……ハチ、先に戻ってるね」
一応声をかけてはみたが、八左ヱ門の耳には届いていないようだった。まあいいや、と雷蔵息を吐いた。何だかんだであれだけ騒ぐ元気があるなら、大丈夫だろう。雷蔵はひとり長屋に戻ることにした。
自室にて、雷蔵は何をするでもなく寝そべっていた。腹が減った。もう、頭の中にはそれしか出て来ない。三郎はまだ戻って来ていない。何処まで出掛けたのだろう。それにしても腹が減った。腹が減った。腹が減った。
すう、と障子の滑る音がした。そちらを見なくても、三郎が帰って来たのだと雷蔵には分かった。
「お帰り、三郎」
雷蔵が言うと、「ただいま……」と、掠れた声が返って来た。三郎は相当消耗しているようだった。部屋に入ってくるなり、雷蔵の上に折り重なるようにして倒れ込む。
「重いよ、三郎」
「…………」
三郎は何も言わない。軽く肩を叩いてみても、どく気配はない。雷蔵は、諦めて天井を見た。
「お使い、きつかった?」
「地獄だった」
短い返事に、彼の辛苦が全て詰まっているようだった。よしよし、と雷蔵は三郎の頭を撫でた。三郎は、くぐもった声で続けた。
「市場で饅頭を百個買って、金楽寺に届けて来いってお使いだったんだ」
「それは……酷い……」
予想以上の残酷さに、雷蔵は言葉を詰まらせた。なんて厳しい試練だろう。食を断った状態で食い物を運ぶだけでも厳しいのに、それを自ら買い求めなくてはならないとは。恐ろしさに、雷蔵の身体に震えが走った。自分ならきっと、耐えられない。三郎は優秀だから、先生方もそんな苦難を課したのだろうけれど、あんまりだ。
「地獄だった……」
三郎はもう一度言った。雷蔵は彼の身体を抱きしめて、随分と薄くなった背中をさすってやった。
「三郎、頑張ったね」
「……もっと褒めて」
「三郎は頑張った。偉い偉い」
ゆっくり繰り返すと、三郎は顔を持ち上げた。疲弊しきった瞳が、雷蔵の目を捉える。三郎はそのまま顔を伏せ、雷蔵の唇を吸った。水分の少ない舌を絡ませ、雷蔵の下唇を軽く噛む。その刺激に、雷蔵は睫毛を震わせた。
三郎は手で雷蔵の頬に触れ、唇を首筋に滑らせた。
「……三郎。こんな状態でしたら、ぼくたち死ぬんじゃない」
ぼんやりとした口調で言い、雷蔵は三郎の肩を揺する。
「うん、何かもうそれも有りかな、って」
三郎は、雷蔵の着物の中に手を入れた。
「ああ……うん、そうかもしれないね」
雷蔵は頷いた。頭がちいとも働かない。まともな思考は、断食三日目あたりで何処かに落としてきてしまった。
三郎が、肉のそげた脇腹に触れる。ああ、とかく腹が減った。雷蔵は目を閉じて、三郎の背中を抱きしめた。
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