■恋に落ちた鉢屋三郎の五日間 四日目(後編)■
わたしは、さも「ぼくは不破雷蔵ですよ」というような顔をして、ぶらぶらと庭を歩いた。雷蔵の仕草や身のこなしはわたしの骨の髄まで染み込んでいるので、特に意識する必要はない。雷蔵の歩幅、歩調で足を進めてゆく。
さて、くのいちはどのように仕掛けてくるだろう……そう思ったときであった。
「あっ、雷蔵の変装をした三郎だ」
通りすがりの久々知兵助に、声をかけられた。わたしは足を止めた。
「……何で分かった?」
ゆっくりと兵助の方を見ながらそう言うと、彼は大きなまなこを瞬かせた。
「ああ、本当に三郎だったんだ。かまをかけただけなんだけど」
わたしは思わず舌打ちをした。なんという初歩的な引っ掛けだろう。恋を知り幸福に浸るのも良いが、のぼせ上がるのも大概にしなくては、と己を戒める。
わたしは咳払いをし、気を取り直してこう言った。
「おれは今、雷蔵だから、雷蔵として接してくれ」
「お前って、面倒臭い奴だな」
兵助は、露骨に嫌そうな顔をした。わたしはそれには返事をせずに、雷蔵の笑顔で微笑み、雷蔵の声色で「ええと」と言って首を傾けた。
「兵助、何か用でもあるのかい?」
「……それじゃあ、火薬委員会で特別貸出して貰っている本があるんだけどさ」
渋々といった調子であったが、兵助はわたしの小芝居に付き合ってくれた。何だかんだでこいつも人が好い。
「それの返却手続きについて、中在家先輩に訊いておいて欲しいことが……」
「おれにあの男の話題を振るな」
鉢屋三郎の声と口調でぴしゃりと言い放った。わたしは、図書委員長である中在家長次のことがどうにも受け付けないのであった。何故、と尋ねられても困るが、どうしても駄目だ。なんとなく嫌だ。とかく無理なのである。何故あいつと雷蔵が同じ委員会なのだろうと思う。
「……お前って、本当に面倒臭いな」
「やだなあ、兵助。そう言うなよ」
「もう良いよ、雷蔵本人に聞くから。……部屋にいるか?」
肩をすくめて言う兵助に、わたしは大きく頷いた。
「ああ。丁度良かった。存分に長居をして、雷蔵を外に出さないようにしてくれ。その代わり、おれが戻ったらすぐ帰れよ」
「何だ、それ」
「良いから、頼んだぞ」
わたしは兵助の背中を押した。彼はまだ物言いたげな面持ちをしていたが、小さく息を吐き出すと五年長屋に向けて歩き出した。
兵助の姿が見えなくなり、わたしは橙に染まった空を見上げた。そろそろ夕飯の鐘が鳴る刻限である。あの女どもが仕掛けてくるならば、そろそろであるはずだが……。
「あの……先輩」
来た。
か細く高い、女の声であった。ついに来た。わたしから雷蔵を奪わんとする、にっくき×××(自主規制)の登場である。
わたしは、くるりと身体の方向を変えた。小柄なくのいちが、もじもじしながらそこに立っていた。鼻筋の通った、なかなか整った顔立ちをした女であった。この女が、雷蔵を。わたしは頬を引き攣らせそうになったが、そこはぐっと堪えて「くのいちがぼくに何の用だろう」みたいな顔を作った。
「少しお話があるんですが……よろしいでしょうか」
くのいちは頬を赤らめ、一度、そっと視線を横にずらした。それからもう一度わたしの顔を見て、上目遣いでこちらを注視する。今度は目をそらさない。ただひたすらに、わたしの目を見つめている。小癪な。しかし、それを顔に出すような愚は犯さない。
「え……。な、何かな?」
戸惑いと照れを含んだ声で、わたしは言った。すると何故か、くのいちは口に手を当てて小さく笑った。
「……鉢屋先輩って、本当に不破先輩の変装がお上手ですよね」
うん?
わたしは数度、目を瞬かせた。何だと。どういうことだ。
「鉢屋先輩ですよね? 久々知先輩とお話しされているのを、最初から聞いていました」
どうやら最初から、わたしが雷蔵でないことがばれていたらしい。これだからくのいちは嫌いなんだ、と舌打ちをしたくなった。
「それで、あの、お話なんですけれど」
「ちょっと待て」
胸の前で手を組んで話を続けようとするくのいちを、わたしは一旦遮った。彼女の顔が、怪訝そうに曇る。
「……はい?」
「もしかして、わたしに話があるのか」
「え? はい、そうですけれど」
「不破にでなく?」
「不破先輩にでなく、鉢屋先輩に、です」
「わたしにか」
「そうですけど……」
くのいちの頷きに、わたしは顎に手を当てて考え込んだ。あれっ、これはどういうことだ。彼女らは、雷蔵を狙っていたのではなかったのか?
わたしは記憶を巻き戻してみた。くのいちたちは、不破雷蔵に思いを告げるのだと、そう言っていなかっただろうか。頭の中で、昨日耳にした会話をひとつずつ辿ってみる。
……言っていない。
言っていなかった。何ということだろう、雷蔵の名は出て来ていたが、くのいちが雷蔵に思いを寄せているとは、ひとことも言っていないではないか。まさかの展開である。それでは、わたしの早とちりだったということか。雷蔵の名が出た時点で、自動的に彼が狙われていると思ってしまったようだ。
「……あの、本題に入っても?」
目の前のくのいちが、おずおずと切り出す。そういえば、彼女の存在をすっかり忘れていた。わたしは手を軽く振って 「あ? ああ、どうぞどうぞ」
と続きを促した。しかし、雷蔵に危機が迫っているのではないと分かれば、後は割とどうでも良かった。
「あの……わたし、鉢屋先輩のことを……」
「はあ、おれの早合点だったか……何だ、そうか……」
「お慕い申し上げております……って、あの、聞いてらっしゃいますか?」
「ん? ああ、聞いてる聞いてる。続けて」
わたしはぞんざいに言って、もう一度手を振る。くのいちのこめかみが、ひくりと震えるのが分かった。
「いえ、あの、お慕い申し上げておりますので、鉢屋先輩のお気持ちを、お聞きしたいのですけれど……」
「それなら、こんな必死になることもなかったな……」
わたしは腕組みをして息を吐き出した。まったくもって空回りであった。情報の詳細を確かめることなく奔走してしまうなどと、忍者失格である。いやはや、わたしは恋のせいで腑抜けすぎだ。引き締める部分は、しっかりと引き締めなくては。
「あの……鉢屋先輩?」
「ん? ああ」
くのいちは、いい加減焦れているようだった。心なしか、声が震えている。必死で「可憐な少女」の顔を作っているが、その奥に潜んでいるあれこれが少しずつにじみ出してきていた。
わたしとしても、もうくのいちには用は無いし早く帰って雷蔵の顔が見たかったので、端的に告げることにした。
「興味無い」
「は?」
「女には興味がない。雷蔵に手出しをするつもりがないのなら、尚更どうでも良い」
「…………」
くのいちは黙り込んだ。そしてしばしの沈黙ののち、恐る恐るといった様子でこんなことを尋ねてくる。
「鉢屋先輩は……もしかして、衆道の……?」
その言葉に、ふっと笑いが漏れた。
「好きに想像すると良い。きみたちは下世話な邪推が大好きだろう。それじゃあ、わたしはもう行くからな」
一方的に言って、わたしはさっさと踵を返した。くのいちは引き止めなかった。わたしはずんずん歩いてその場を立ち去った。
……というふりをして、一定距離を歩いたところで立ち止まって引き返した。あのくのいちを尾けるためである。
くのいちは、しばらく呆然とその場に立っていたが、やがて身体の向きを変えて歩き出した。最初はとぼとぼと足を運んでいたが段々歩幅が広くなり、最後には駆け足になった。
「ほらあ! やっぱり女に興味無いって言ってたじゃない!」
くのいちは、しげみに向かって叫んだ。それと同時に、草むらの中から数人のくのいちたちが勢いよく顔を出した。全員、にやにや笑っている。男子生徒たちが心から恐れる、通称「毒の笑み」である。
「おっつかれさまー。やっぱり、鉢屋先輩ってそうなんだあ」
顔を出したひとりが、さも面白そうに言った。わたしに冷たくあしらわれた少女は、怒りをあらわにして足を踏み鳴らした。
「何なの、あの、人を馬鹿にした態度! 誰がお前なんかに惚れるかって話よ! ああもう、腹が立つ!」
まあ、そういうことだろうとは思っていた。なので特に腹は立たない。ただ、彼女の詰めの甘さには苦言を呈したい。あんな見え見えの怒車の術に嵌りかけるようでは、まだまである。可憐な女を装うのなら、最後までそれを通さなければ。
「くじで負けたんだもの。仕方ないわよ」
そう言ったのは、昨日、わたしがくのいち教室で見かけた女であった。その隣にいるくのいちは、涼しげな顔で大黒帳らしきものをめくっている。
「ねえ、倍率は?」
誰かに尋ねられて、大黒帳を手にした女は口元に指を当ててこう言った。
「一,三倍てとこ? 固すぎて面白くとも何ともないわね」
「ちょっと待って。鉢屋先輩は、衆道だとははっきり認めてないわよ」
不服そうな声で抗議をしたのは、色が白く切れ長の目をしたくのいちだった。大黒帳くのいちは、首を傾げてそちらに向き直った。
「でも、女に興味無いってことは、そういうことでしょう?」
「いいえ、断言していないんだから、賭けはまだ終わってないわ」
「しっつこいわねえ」
「当たり前じゃない。こちとら、衆道じゃない方に食券五枚も張ってんのよ」
「じゃあ、あんたが確認して来なさいよ。鉢屋先輩の寝所に潜り込むなりなんなりしてさあ」
「やっだあ!」
女どもは、きゃんきゃんと甲高い笑い声をあげる。実に楽しそうであった。
さて、この辺りで良いだろうか。
わたしは息を吸い込み、わざとらしく咳払いをした。その瞬間、女どもの肩が、ぎくりと硬直する。いやはや、良い反応である。何とも面白い。わたしは、口角を持ち上げた。
「やあ、お嬢さん方」
芝居がかった声で言う。くのいちたちが、引き攣った顔でこちらを向いた。先程までの明るい表情は何処か消え失せていた。焦りと危機感に満ちた面持ちで、慌ただしく視線を行き交わせる。
「面白い話をしているじゃないか。わたしも混ぜてくれたまえよ」
めいっぱい、いやみな口調で言ってやった。くのいちたちのかんばせが歪む。最高の気分であった。
「あっはっは、愉快痛快!」
わたしは声高に笑いながら、長屋に戻った。懐は、くのいちたちからせしめた食券で膨らんでいる。心は、ほくほくと満足感に満ちていた。なんせ、まあ勘違いであったが、雷蔵を彼女たちの魔の手から救うことが出来たし、人心を踏みにじるような悪巧みも看破出来た。そしてこうして、戦利品をも得られたのである。ひとことで言うと、完全勝利だ。
「雷蔵、ただいま!」
勢いよく、自分の部屋の戸を開ける。兵助はもう帰ったあとらしく、中には雷蔵しかいなかった。わたしの姿を見て、雷蔵の顔が、ぱっと明るく輝いた。
「あっ、お帰り、三郎!」
それから彼は机に置いてあった、紺地に白の波模様が入った着物を手に取り、わたしに差し出した。
「次の実習で着る服だけれど、ちゃんと決めたよ!」
そう言って、明るく微笑む。先程のくのいちたちと違って、何の含みもない素直な笑みであった。わたしはその笑顔と、手渡された着物を交互に見つめた。じわじわと、柔らかであたたかな気持ちが胸にこみ上げてくる。
「……っ、あっ、ありがとう!」
わたしは、雷蔵の選んでくれた着物を抱きしめた。ああ、雷蔵。可愛い雷蔵!
「ああ、ずっと考えていたからお腹が空いたよ。三郎、夕飯を食べに行こう」
そう言いながら、雷蔵は大きく伸びをした。その腕の伸ばし方や反らされた喉に、いちいち目が行ってしまう。
「うん! 着物を選んでくれたお礼に、今日はおれが奢るよ!」
「えっ、良いの?」
雷蔵は驚いたように、目をぱちぱちさせる。わたしは幸福のあまり頬を緩ませ、「勿論さ!」と頷いた。なんせ、食券なら山ほどある。
「それじゃあ、ご馳走になろうかな」
ほんの少し首を傾げたその笑顔は、わたしの胸をまっすぐに射貫いた。いとしさが喉元から溢れそうになり、今すぐ大声で叫びたくなる。
ああ雷蔵、きみが好きだ!!
次 戻
|