※ほんの少し、雷蔵の実家と家族を捏造しています。








■恋に落ちた鉢屋三郎の五日間  五日目■


 蕎麦屋の看板娘。 おさななじみのあやめちゃん。 くのいち。

  雷蔵に恋するわたしの前に、昨日までにこれだけの強敵が立ちはだかった。わたしは学園内外から現れる邪魔者に屈することなく、勇猛果敢に戦った。その結果、全てに勝利した。

  ……これ以上の障害は無い筈だ。そうだろう。流石に、これで打ち止めだろう。多少の困難があった方が恋は燃えるとはいえ、少しばかり多過ぎる。そろそろ雷蔵への想いとじっくり向き合い、今後のことを考える時間を設けたい。

  雷蔵のためなら如何なる苦労も厭わないが、ここのところ色々な出来事が続き過ぎた。しかし、これ以上はない。きっとそうだ。そうであって欲しい。

「そうだよな雷蔵!」

  わたしはそう言いながら、部屋の戸を開けた。雷蔵はわたしに背を向けて胡坐をかいていた。また何かを思い悩んでいるのか、随分と静かであった。端から聞けば意味不明なわたしの呼び掛けにも、全く応じる気配がない。

「雷蔵?」

 彼の正面に回って顔を覗き込むと、ようやくこちらに気が付いて顔を上げる。

「あ、三郎」

「また悩んでいるのかい」

「実はそうなんだ」

 照れたように雷蔵が笑う。わたしの心臓を鷲掴みにする笑みである。何度目か分からないが、わたしはまた彼に恋をした。

「何を悩んでいるのか、言ってご覧よ」

「うん、ありがとう……。実は、先日届いた文のことなんだけど……」

「あやめちゃんからの?」

「いいや、もう一通の文。あやめちゃんの出産祝いをどうしようと悩んでいる内に、開くのを忘れていて」

「ああ、そういえば、二通届いていたっけね。そちらは、誰からだったの」

「家族から」

「うんうん。きみのご家族はまめだねえ」

「見合いをしろって」

「うんう……、……え?」

「忍者の修行をやめて、見合いをしろと言うんだ」

 ……それを聞いて、気を失わずに、尚且つ二本の足できちんと立っていたわたしは立派であると思う。

 誰だ、もうこれ以上の障害は無い等と無責任なことを言った奴は! あるではないか。思い切り、あるではないか! それも、くのいちや蕎麦屋の娘なんてお話にならない程に強大な相手が!

「ほら、あやめちゃんが赤ちゃんを産んだろう? それにうちの家族が感化されたみたいで」

「そ……そうかい」

「特に祖父母が、孫の顔が早く見たいって騒いでいるらしいんだ」

「そ……そうかい」

 わたしは阿呆のように、同じ台詞を繰り返した。それほどまでに、わたしの受けた衝撃は大きかったということである。

「だ、だけど、雷蔵。忍術学園を中退したりなんてしないだろう?」

 どうにか気を取り直し、切なる表情で訴える。雷蔵がいなくなってしまうなんて、それだけは絶対に嫌だ。というか無理だ。耐えられない。

「勿論だよ」

 雷蔵はしっかりと頷いた。わたしは心の中で拳を握り締めた。

  そうか、そうだよな!辞めたりなんてしないよな!ああ良かった。しかも即答であった。ああ良かった。良かった。良かった!

「だけど……」

 続いた言葉に、わたしはぎしりと固まった。

 ……だけど……?

 だけど、何だ。何だと言うんだ。一体、その後に何が続くんだ。忍者の修行を辞めたりはしないのだろう? ならば、もう良いじゃないか。

 雷蔵の唇が開く。わたしは耳を塞ぎたくなった。しかしそれよりも早く、彼のやわらかな声が耳の中に滑り込んで来た。

「だけど、とりあえず一回は見合いをしないと、納得してくれないだろうなあ……」










 気が付けばわたしは長屋の屋根の上で、暮れゆく太陽を見つめていた。橙に染まった空に、じりじりと群青の天幕が降りてくる。空気も少しずつ冷たく、そして硬くなる。

  わたしはいつからこうしているのだろう。どのようにして、此処まで来たのだろう。先程の雷蔵との会話以降、記憶がすっぽりと抜け落ちている。

 ああ、雷蔵。雷蔵。雷蔵雷蔵雷蔵。

 見合いをするだなんて酷い。酷すぎる。

 今までの恋敵とは訳が違う。何せこれは、雷蔵の家の話だ。蕎麦屋の娘や、くのいちなんて比較対象にすらならない。わたしが口を出せる問題ではない。陰で動いて妨害することは可能かもしれない……とも考えたが、己の私利私欲の為に不破家や雷蔵の家族まで陥れる、なんてことは出来ない。

 ああいや、しかし! 見合い! それはきつい!

 とりあえず一回、という物言いであったから気乗りがしている訳ではないのだろうけれど、如何せん優柔不断な彼である。見合いの席に足を運んでしまったが最後、その場の空気や勢いに流されてしまいそうだ。

 ああそれだけは、それだけは阻止したい。わたしは一体、どうすれば良いのだ……!

「三郎?こんな所で何やってんだ」

 膝を抱えて煩悶するわたしに声をかける人物がいた。

  首を捻ってそちらを見る。八左ヱ門であった。返事をする気力がなく、わたしは溶けてゆく夕陽に視線を戻した。

「恋煩いだな」

 何故分かったのか、ずばりと八左ヱ門に指摘された。恋煩い。その言葉はわたしの土手っ腹に深く食い込んだ。

「いやあ、おれも恋に破れたばかりでさあ。何かそういうの、分かるんだよな……」

 そう言って彼はわたしの横に腰を下ろした。鮮やかな蜜柑色の空を見つめ「おふみちゃん……」と、溜め息混じりに蕎麦屋の娘の名を呼んだ。

 まだあの娘のことを引きずっていたのか、とわたしは少し驚いた。ただ目の保養にする為に、軽薄な気持ちであの娘に会いに行っていたのだと思っていたが、こいつはこいつなりに、彼女のことを想っていたのかもしれない。

「……はあ、辛いよなあ、お互い……」

 八左ヱ門は、わたしの肩を軽く叩いた。わたしはなんとも答えられなかった。黙っていると、八左ヱ門はぶつぶつと独白めいた呟きを漏らし始めた。

「ほんと、後悔してるんだよ。玉砕しても良いから、彼女に想いを伝えておけば良かった、ってさあ……」

「…………」

 顔を上げ、八左ヱ門を見た。彼の言葉ひとつひとつが、やけにわたしの胸に染みた。

「確かに恋敵は多いし、おれみたいなのと彼女じゃ釣り合わないだろうけどさ、でも、嫁に行っちゃったんじゃ、もうどうしようもないもんな……。……そうなる前に、一言、話をすれば良かったよ」

 その科白に、わたしの心はごとりと動いた。建て付けの悪い扉が開いたようだった。

 そうか。そうだ。大事なことを忘れていた。わたしはまだ、雷蔵に気持ちを言っていない。どうしようもないくらい彼に焦がれていることを、まだ伝えていないのである。

 見合いの件に関しては、わたしに出来ることは何も無いかもしれない。しかしまだ、人事を尽くしてはいないではないか。わたしにはまだ、すべきことがあった。

 わたしは、すっくと立ち上がった。何だか目が覚めた気分だ。清々しさすら覚える。ああ、雷蔵。雷蔵に会わなくては。

「三郎?」

 八左ヱ門が、怪訝そうにわたしを見上げる。わたしは心の中で八左ヱ門に礼を言い、屋根から降りた。そして駆け出す。いとしの雷蔵の元へ!










「雷蔵っ!」

 わたしは勢いよく、障子を引いた。すると、中にいた雷蔵がこちらを振り向く。わたしはひとつ息を吸い込んだ。そして大股で、雷蔵に歩み寄る。覚悟は既に出来ていた。

「あっ三郎、良いところに帰って来てくれた」

 雷蔵はわたしを見て破顔した。わたしはそんな彼と向き合い、もう一度深く息を吸い込んだ。

「きみに、話があるんだ!」

 おれはきみがっ、と続けようとしたところに、雷蔵の声がかぶさってきた。

「ぼくもあるんだ!」

「……えっ?」

 勢いを遮られ、わたしは若干肩すかしを食らったような気分になってたたらを踏んだ。今にも喉元から吹き出さんとしていた激情が、行き場を失ってぐるぐると胸の中でとぐろを巻く。ああ折角この想いを存分に叫ぼうと思ったのに、と狂おしい気持ちで喉をかきむしった。

  そんなわたしをよそに、雷蔵はがさがさと何やら紙を取り出し、わたしの胸に押しつけた。

「まず、これを読んでおくれ」

「何だい、これは……」

 わたしは渋々、渡された紙を見た。雷蔵の字で、長々と文章が書き付けられている。だいぶ試行錯誤を繰り返したようで、所々塗りつぶされていたり、横に文が書き足されていたりするので随分と読みづらい。

「それでね、文章がおかしなところや誤字脱字があれば指摘して欲しいんだ」

  雷蔵の声を聞きながら文章を読み進める。視線を走らせる内に、わたしの手は小さく震え出した。

「……きみ、これは」

 今わたしの手の中にあるのは、雷蔵が家族へと宛てて書いた文であった。雷蔵らしい丁寧な、そして穏やかな文体で、わたしの目がおかしくなったのでなければ、「見合いはしない」とはっきり書かれている。

 見合いはしない。見合いは、しない、と書いてあるのである。

「ねえ三郎、そんな文章で良いかなあ。もっときつく断った方が良い? だけど、あまり強硬な姿勢を取ると、向こうも意固地になると思うんだよね。ぼくとしては、なるべく穏便にことを進めて、後々に遺恨を残さないようにしたくて……」

「ら、雷蔵、雷蔵」

 腕組みをして、いつものように悩み始める雷蔵に、わたしは声をかけた。手の震えが大きくなる。頬が熱くなってきた。

「何だい、三郎」

「その……これは、見合いの話を断る文のように見えるのだけれど」

「その通りだよ。ぼくは見合いなんてしないもの」

 雷蔵は軽く答えた。見合いなんてしない。その声が、頭の中で反響する。

「こ、断る、のかい? だってさっき、一回くらい見合いをしないと家族が納得しないって……」

「そうなんだ。だから、色々悩んだのだけれど、やっぱり断ろうと思って。身を固める気もないのに見合いだけするなんて、相手の女性にも悪いじゃないか。元服後にぼくがどうなっているかなんて分からないし、それに」

「……それに?」

「ぼくはまだまだ、お前と色々なことを学びたいもの」

 そう言って、雷蔵は笑った。やさしくてあたたかな微笑み。わたしの一番好きな表情であった。

「…………」

 わたしは口を閉じて、雷蔵の顔を見つめた。

 その言葉と笑顔で、わたしの身の内に住み着いていた屈託は全て吹き飛んだ。炎のような感情の嵐もすっと引っ込み、わたしの心は何処までも静かに、そして穏やかになったのだった。

「……雷蔵」

 ゆっくりと、わたしはいとしい相手の名を呼んだ。

「何だい?」

 雷蔵が返事をする。わたしも彼につられて笑顔になり、こう言った。

「きみが好きだ」

「えっ」

 雷蔵の頬が桜色に染まった。それと同時に、鐘の音が響き渡る。いつの間にやら夕飯の時間であった。










 ……以上が、わたしが恋に落ちてからの五日間である。あれほどもがき、苦しみ、空回りし、七転八倒したのは生まれて初めてのことであった。もう二度と、同じ体験をすることはないのだろう。しかし、まあ、今となっては良い思い出である。あの日々があったからこそ、今日という日がある。

 あの後、雷蔵からどのような答えが返って来たのかは、わたしの胸にのみ留めておこうと思う。あのときの雷蔵の表情、声、言葉や仕草はわたしだけのものである。

 わたしはこれから、雷蔵と共に彼の故郷へと出掛ける。雷蔵の幼なじみ、あやめちゃんの赤ん坊をつつきにゆくのである。変装道具はたんまりと持って来た。赤ん坊を思い切りに笑わせ、そして泣かせてやるつもりだ。実に楽しみである。

「三郎、支度出来た?」

 おっと、雷蔵が呼んでいる。もう行かなくては。

「今行くよ、雷蔵!」

 わたしは立ち上がり、雷蔵の隣に立った。わたしを見て、雷蔵が笑う。わたしも、自然と頬が緩む。

 ああ……ああ!

 恋とはなんて素晴らしいのだろう!