■恋に落ちた鉢屋三郎の五日間 二日目■
……ということでわたしは今、川沿いにある蕎麦屋の前まで来ている。
いや別に、己の恋心が早くも打ち砕かれそうで不安が募っていてもたってもいられないから、というわけではない。そんなことがあるわけがない。わたしは鉢屋三郎である。何処の馬の骨とも分からぬような女など、全く怖くなどない。当然である。ただ、八左ヱ門があまりに別嬪だ別嬪だとぬかすから、どんなもんかと見に来ただけである。
ちなみにわたしは今、雷蔵の顔はしていない。ごくふつうの町人を装って蕎麦屋の前に立っている。今日、わたしが此処に来ているということは誰も知らない。勿論、雷蔵もである。
わたしはひとつ息を吐き、蕎麦屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃあい!」
すぐに中から、快活な声が聞こえてきた。お盆を持った若い娘と目が合う。これが噂の娘か、と思った。わたしは素早く、かつ不自然にならないように彼女を観察した。
年の頃はわたしたちと同じくらいで、色が白く、まなこが大きく睫毛も長い。髪は黒くて真っ直ぐで、ほおと唇が真っ赤であった。
垢抜けない印象ではあるが整った顔立ちをしており、確かに、まあ、別嬪……と言えなくもないかもしれない。強いて言えば、であるが。しかし、そんなに騒ぐ程か? とも思う。これなら山本シナ先生や、ミスマイタケ城嬢の方がずっとうつくしいだろうに。
「お客さん、おひとりですか?」
娘はきびきびと動き、わたしの目を見て声をかけてきた。溌剌とした表情である。そして、相手の目を見つめるのは口説きの常套手段だ。この娘、やりおる。わたしはそんなものになびきはしないが、その手で雷蔵にも迫ったのかと思うとはらわたが煮えくり返りそうになる。
「あちらのお席、どうぞ!」
娘に案内された席につく。さほど広くない店内は、多くの客で混雑していた。ほぼ全員が若い男である。この国は大丈夫であろうかと思う。
そして八左ヱ門たち我らが忍術学園一行であるが、すぐ近くの席についていたので探すまでもなかった。五年生ばかり六人ほどが、わいわい言いながら品書きを囲んでいる。そして、ちらちらと娘の方をだらしのない顔で見やるのである。なんという情けなさだろう。この光景を、後輩たちに見せてやりたい。
……しかしわたしの雷蔵は違った。他の男どもが娘にうつつを抜かすなか、彼だけは品書きにがぶりよりであった。注文する品を迷っているのである。
わたしは安心と幸福といとしさを、いっぺんに噛み締めた。そうだ、そうだよなあ。雷蔵にとっては、娘よりも今から何を注文するかということの方が大事だよなあ。わたしはほっとして、適当に蕎麦を注文した。
しばらくしてから、厨房からぱたぱたとおかみさんらしき小柄な女性がやって来た。そして八左ヱ門たちの卓の前で立ち止まり、
「お客さん方、いつも来て下さって有難うございますねえ」
と一礼する。どうやら彼らは常連であるらしい。本当に、こやつらは一体何をやっているのだろう。
「ほら、おふみ、お前もいらっしゃい」
おかみさんに呼ばれ、おふみという名であるらしい先程の娘は笑顔で彼女の横に立った。何やらあらたまった雰囲気である。店の客が全員、なんとなくそちらの方に注目する。
「実はですねえ、この跳ねっ返りに、ようやく縁談がまとまりまして」
ほくほくと笑って、おかみさんはおふみの背中に手を添えた。おふみは照れたように肩をすくめる。
「えっ!!」
叫んだのは、八左ヱ門たちだけではなかった。店内にいた男たちが一斉に、目を見開いて驚き声をあげる。その声に吃驚したのか、雷蔵が肩をびくりと震わせて品書きから顔を上げた。あれっ何事? とでも言いたげな表情で、辺りを見回している。その一拍子ずれた反応が、かわいらしく仕方が無い。うっかりにやけてしまわぬよう、わたしは頬に力を入れて堪えた。
「明日、隣町の鍛冶屋に嫁ぐんです」
胸元で手をもじもじと絡め、おふみは頬を赤らめた。その表情は幸福に満ちていた。
八左ヱ門や勘右衛門が呆然とした顔つきで娘を見つめているのが、わたしは面白くて仕方が無かった。笑い声が口を突いてしまいそうだ。いかんいかん、と口元を引き絞る。
「だから、この子、店に出るのは今日で最後なんですよ」
「今日で、最後……」
同級生の誰かが、呆然とした声で繰り返した。
「はい、これまでお世話になりました」
おふみは身体を折り曲げ、一礼した。
それから、浮ついていた店内の空気は一転し、まるで通夜の席のように暗くなった。わたしは運ばれてきた、大して美味くもない蕎麦をすすりつつ、一応ほかの客に合わせて肩を落としておいた。しかし心の中は晴れ晴れとしていた。
噂の看板娘は大したことがなかったし、雷蔵も彼女に殊更関心を抱いているようには見えないし、何よりもあの娘は明日、鍛冶屋だか紙屋だかに嫁ぐのである。わたしにとっては朗報だ。なんせ、脅威がひとつ去ったのだから。
最後まで暗い顔をしていた八左ヱ門たちが席を立って少ししてから、わたしも店を出た。すると何故か入り口の側に雷蔵が立っていたので、わたしは一瞬どきりとした。どうして、彼がこんなところに。八左ヱ門たちと一緒に行かなかったのだろうか。
動揺を悟られぬよう、彼の方は見ないようにしつつわたしは歩き出した。すると雷蔵は小走りでわたしに追いつき、こんなことを言ったのだった。
「……三郎だろう?」
わたしはその瞬間、もう一度恋に落ちた。わたしの変装を見抜くなんて。ああ、彼のことを抱きしめたい。
「よ、よく分かったね、雷蔵」
わたしはあまりの喜びといとしさに頬をひくひくさせながら、答えた。
「分かるさ。お前のことだもの」
そう言って微笑む雷蔵の姿を認めた瞬間、また恋に落ちた。一体何度、恋をすれば良いのだろう。惚れ直すたびに胸がどかんと爆発するので、正直、これ以上は身が保ちそうにない。
「だけど、三郎もおふみちゃんのことが好きだとは、知らなかったな」
「えっ」
「明日、嫁いでしまうなんて、残念だったね。あまり、気を落とすなよ」
雷蔵は気遣わしげな表情で、わたしの肩を叩いた。一瞬、何を言われているのか分からなかった。彼が、今日わたしが此処に来た目的を勘違いしているのだと気付いたのは、たっぷり数十秒経ってからだった。
「い、いやいや、いやいやいや。ち、違うよ雷蔵。それは、誤解だ」
わたしは自然と早口になり、雷蔵に詰め寄った。焦りが全身を駆け巡った。冗談じゃない。わたしが、あんな娘に惚れていると雷蔵に勘違いされるだなんて。
「だって、しょげていただろう。ぼくはちゃんと見たぞ」
わたしが誰よりも好いている相手は、からかうような視線をわたしに向けてくる。わたしは思わず、悲鳴のような声をあげた。
「それは、周りに合わせていただけだ!」
「無理しなくても良いよ」
「無理だなんて! き、きみはどうなんだ。おふみちゃんが嫁ぐことになって、雷蔵はなんとも思わないのかい」
震える胸を押さえながら、わたしは聞いた。大丈夫だとは思うけれど、雷蔵が本当にあの娘に惚れていないのか、確認しなければ気が済まなかった。すると雷蔵は「ぼく?」と目を瞬かせながら腕を組み、少しだけ考える仕草を見せた。
「ぼくは、そうだなあ……確かに少し残念ではあるけれど、八左ヱ門たちみたく落ち込むほどじゃ無いかなあ。そうだ、八左ヱ門たちも慰めてあげないとね」
「……あいつらは、放っておけば良いよ」
「そう尖るなよ。お前がおふみちゃんに会いに来ていたことは、みんなには黙っていてあげるからさ」
雷蔵はすっかり、わたしがおふみのことが好きだと思い込んでいるらしい。焦りが更に募る。その思い違いを見過ごすわけにはいかない。わたしが好きなのは、きみだけなのに!
「何を言って……!」
「わざわざ変装して来るくらいだもの。みんなには知られたくないんだろう?」
「いや、違うんだ! 本当に、違うんだったら!」
「何が違うのさ」
「おれが好きなのは、あんな不味い蕎麦屋の娘じゃなくて!」
「蕎麦屋の娘でなくて?」
ぱちぱちと目を瞬かせて、雷蔵はわたしの顔を見た。
「…………」
わたしは押し黙った。勢いで口から飛び出しそうになった想いが、ひゅっと喉の奥に戻ってゆく。一瞬、雷蔵はわたしを試しているのだろうかと思った。彼はわたしの想いを知っていて、それをわたしの口から引き出すためにそんなことを言うのかと。
雷蔵は、無垢な表情でこちらを見つめている。その顔を見て、わたしは先程の考えを打ち消した。いいや、それはない。雷蔵に、そんな駆け引きが出来るわけがない。わたしの想いは知られていない。大丈夫だ。大丈夫だ。
「……とにかく」
わたしはひとつ、咳払いをした。
「おれは別に、あの娘のことが好きなわけでも何でもないからな」
「ふうん、そうなんだ」
「本当だよ」
「分かったよ」
「本当に、本当なんだからな」
「分かったってば」
しつこいなあ、と雷蔵は眉をしかめた。本当に信じてくれたのか甚だ不安であったが、しつこい、という言葉が地味にわたしの心に食い込んだので、それ以上は何も言えなかった。
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