■恋に落ちた鉢屋三郎の五日間  一日目■


 部屋で苦無の手入れをする雷蔵の右手の小指が深爪になっていることに気付き、また雷蔵は大雑把に爪を切るからそういうことになるんだ全くと思った瞬間わたしは恋に落ちた。

 ……いや。違う。違わないが、違う。

 一応言っておくと、別にわたしは、雷蔵の深爪に恋をしたわけではない。いくらなんでも、それはない。

  深爪に情欲をかき立てられる質ではないし、爪そのものに殊更感心があるわけでもない。断じて違う。なので言い方を変えよう。

  雑に切られた雷蔵の小指の爪に彼の性格が表われていることにふっと和み、ほんの少しの呆れと共に言い知れぬ幸福感が胸を満たし、それと同時に己の恋心を自覚したのである。ああわたしは雷蔵のことが好きなのだ、と。

  だから別に、わたしは雷蔵の深爪に恋をしたわけではない。うっかり深く爪を切ってしまう雷蔵に恋をしたのだ。

 とかく恋に落ちた。まっさかさまだ。恋ってこんなに急転直下なのかと思うほどの、見事な落ちっぷりだった。恋。恋である。恋に落ちた、などとひとことで言ってしまうのは簡単だ。字にするとたったの五字にしかならない。しかしそのときのわたしの衝撃は、五字などでは言い表せない。何万字を費やしても表現しきれないかもしれない。

 雷蔵はそんなわたしには気付かず、黙々と苦無の手入れをしている。刃にこびりついた泥を、布で拭き取っていく。その表情は真剣そのものだ。汚れがなかなか落ちず、かるく眉根を寄せて苦無に視線を注いでいる。わたしはしばし、彼に見惚れた。

 そしてふと、わたしは自分の頬に手を当てた。雷蔵の輪郭である。いつもの触り心地だ。わたしはなんとなく違和感を覚えて、側に置いてあった鏡を引っ掴んで覗き込んだ。

 駄目だ、と思った。何故だか分からないが、これではいけない気になったのである。この顔は駄目だ。ただちに別の顔をこしらえないと。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。わたしは衝動的に立ち上がった。

「あれ、三郎。何処行くの?」

 雷蔵は顔を上げてそう言った。そんな何でもないひとことでも、恋を知ったわたしの心を大きく震わせる。甘酸っぱいような切ないような奇妙な感覚が胸にじわじわと広がって、しゃがみ込みたくなる。つい先程までは、こんなことはなかったのに。恋とはかくも恐ろしいものなのか。  わたしは雷蔵と目を合わせないようにして、「厠!」と短く答えて部屋を飛び出した。

  ああ、ああ! まったくもって、恋ってやつは!










「あれっ、おれがもうひとりいるよ」

 食堂で行き会った竹谷八左ヱ門が、楽しそうに目を瞬かせた。わたしは今、八左ヱ門の顔をして食堂でひとり飯を食っていた。雷蔵以外なら誰の顔でも良いやと思い、適当に選んだのがこいつの顔であった。

  八左ヱ門はわたしの隣にきつねうどんと鉄火丼といなり寿司の載った盆(どれだけ食うんだとわたしは呆れた)を置き、わたしの顔を見やる。それから何かに気付いたような顔になり、何故か気遣わしげな視線を寄越してきたのだった。

「……一緒に謝ってやろうか?」

 彼の言う意味がまったく分からなかった。

「何の話だよ」

「あれ、雷蔵と喧嘩したんじゃねえの?」

「は? 何で?」

「だって、雷蔵の変装をしてないから。ということはつまり、雷蔵と喧嘩した……ということはつまり、三郎が悪い……ということはつまり、雷蔵は怒ってる……っていう推理だったんだけど」

「お前なあ」

 心外であった。わたしは目を細める。こやつは、わたしを何だと思っているのだろう。しかし八左ヱ門はわたしを励ますように、うんうんとやさしく励ました。

「早めに謝ったほうが良いぞ。雷蔵はやさしいから、きっと許してくれるよ」

「別に、怒らせてなんていないって」

「そうなの? じゃあ何で?」

 恋をしたから、とは言わなかった。答える代わりに八左ヱ門から視線をそらし、湯呑みを掴んで茶を口に含む。

「……ああ、そうだ。明日の休みさあ、お前も行くの?」

 どんぶりを掴み、八左ヱ門は言った。今度も何の話なのか全く分からず、軽く首を傾げて「何処にだよ」と尋ねた。兵庫水軍から届けられた鮪と飯をかき込みながら、八左ヱ門が答える。

「街の、川沿いにある蕎麦屋。そこの娘がめちゃくちゃ可愛いんだよ」

「ふうん」

 あまりにもどうでもいい話題だったので、思わず鼻から笑いが出た。すると八左ヱ門は、むっとしたように眉を寄せた。

「何だよ、嫌な笑いだな。ほんとに、物凄い別嬪なんだぞ」

「それは良かったなあ」

「興味無さそうだな」

「無いね」

 即答である。蕎麦屋の看板娘がなんぼのものだと言うのだ。どんな美女でも、雷蔵にはかなわない。雷蔵以外に、わたしの心を動かせる人間はいないのである。

「じゃあ三郎は行かないんだな。みんな行くんだけどなあ」

「みんなって……そんな大人数で行くのか」

 お前らはどれだけ暇なんだ、とわたしは呆れた。蕎麦屋の娘にうつつを抜かすよりも、もっと他にやることがあるだろうに。わたしの問いに八左ヱ門は、指を折って参加人数を数え始めた。

「ええと、何人だっけな。おれと、あいつと、あいつと、勘右衛門と、それと兵助……は行けないって言ってたから除外で、あと雷蔵と」

 その名前が出た瞬間、わたしの手から箸がぽろりとこぼれた。

「えっ、何、雷蔵も行くの?」

 わたしは思わず、八左ヱ門の肩をつかんだ。彼は「ん?」とこちらを振り返った。

「雷蔵? 行くよ」

「別嬪の娘を見に?」

「そうだよ。そう言ってんじゃん」

 お前人の話聞けよ、と八左ヱ門は顔をしかめた。その後も彼は何かを喋っていたが、わたしはそれどころではなかった。

  雷蔵。雷蔵が、蕎麦屋の娘とやらに関心を持っているだと。それは一体、どれくらいの好意なんだ。ただ蕎麦を食うついでに評判の美女を見に行ってみるか、くらいの軽い気持ちなのか、それともあれなのか、もしかして、まさか、既に雷蔵はその娘のことが好……、

「さ、三郎?」

 八左ヱ門が、戸惑ったような声をあげる。気が付けば、わたしは立ち上がっていた。おいどうした、とかそんな風に声をかけられたような気がするが、構っていられなかった。

 いやしかし、もし雷蔵がその娘に惚れていたら、わたしに話してくれるのではないだろうか。わたしと雷蔵の間には、海よりも深い信頼関係が存在すると自負している。だからこそ彼は、わたしの変装も許してくれるのである。  しかしわたしは何も聞いていない。

 だからきっと、雷蔵がその娘に恋をしているなんて、そんなことは絶対にない、はずである。いや、大丈夫だ。そんなことはない。そんなことはない!

 そう言ってくれ雷蔵! 頼むから!