| ■きみが涙を流すなら 38■
 
 相原の話が終わってからしばらく、僕は何も言えずにいた。衝撃と感動で、心がもみくちゃである。すげえ。相原おかん、まじすげえ。息子から、男と付き合っているなんて突然言われて、そんな風に返せる母親が、この日本に何人くらいいるのだろう。
 
 僕たちは、いつものリビングに移動していた。テーブルの上には、相原おかんのカレー(チン済み)が、どんと鎮座している。相原の話を聞いた後だと、こ、これがそのときのカレーか……と、なんとなくドキドキしてしまう。
 
 「そんな訳で、やたらとマジな説教はされたけど、ふつうに受け入れられたで」
 
 がつがつとカレーを食べながら、相原はそう言った。それから、
 
 「な? そんな卑屈になることなかったやろ?」
 
 と付け加えて、いつもの笑顔を浮かべた。 僕はどうにも返事が出来なくて、相原おかんのカレーを一口食べた。辛い。美味い。相原おかんの愛情の味だ。下を向いていたら相は勘違いしたようで、少し声を小さくして
 
 「え……、吉川、泣く?」
 
 と尋ねてきた。
 
 「泣かへんよ!」
 
 泣いていないことをアピールするために、勢いよく顔を上げて相原を見た。相原は、ほっとしたような表情になった。
 
 もしかして、彼の中で僕は「よく泣く男」というイメージが定着してしまっているのだろうか。いや確かに、相原の前で何度か泣いてしまっているけれど、そのイメージは不名誉極まりない。少しずつでも、払拭していかなくては。
 
 「いや……、相原親子はほんまに凄いな、と思って」
 
 そう言うと、相原は首筋を指先で掻いた。
 
 「おかんの理解っぷりは、確かにおれも凄いと思ったなあ。いきなり一緒にカレー食い出すし。訳分からんわ」
 
 僕はそのときの光景を想像して、ちょっと笑ってしまった。一緒にカレーを食べながら、恋愛話をする親子。何だかシュールだ。
 
 「おれは、相原おかんのそういうとこ、好きやわ」
 
 「本人に言うとくわ。…… あ、そうそう、おとんが帰って来てから、おとんにも言ってんけどさ」
 
 「お、おとんにもかい」
 
 ぎくり、と反射的に体が固まった。しかし相原は、こともなげに笑ってみせる。
 
 「大丈夫大丈夫。おとんの方も、あっさりオーケーやったから」
 
 「ま、マジでか……! どないなってんねん、相原一家は。むしろちょっと、気持ち悪いくらいやねんけど……!」
 
 正直に言うと相原は神妙な顔つきで、うんうんと同意した。
 
 「おれもそう思う。せやからやっぱし、かや子おばちゃんがレズなんちゃうか、って思うねんけどなあ。だから、両親そろってそういうのに理解があるんちゃうかと」
 
 でもなんとなく聞きにくいしなあ、と続けて彼は牛乳を飲んだ。しかしすぐに、「ま、それは良いや」と言って頷いた。
 
 そこで、あっさり切り替えられる彼も凄い。もし僕の叔母が同性愛者からもしれない……なんて話になったら、僕だったら気になって気になって眠れなくなるに違いない。
 
 「ちょっと拍子抜けしたわ。おもっきし喧嘩しようと思ってたのに」
 
 相原はテーブルに出していた牛乳パックを手に取って、コップに注ぎ足した。半分くらい減っていた僕のコップにも、同じように注いでくれる。
 
 「け、喧嘩?」
 
 「そうそう。反対されたらな、何でじゃボケおれの勝手やろがー、とか言おうと思っててん」
 
 そう言って、相原はからからと笑う。言葉と表情のギャップがありすぎだ。
 
 「何か、相原がそういうこと言うって、全然想像出来へんねんけど……」
 
 「え、何でよ。それくらい普通に言うって」
 
 相原は、少し恥ずかしそうに言った。僕はやっぱり、想像することが出来ない。いつかマジギレしている相原も見てみたい、かも。……でも、僕に対してマジギレされないように、気を付けよう。そんなことになったら、僕はいよいよ死んでしまう。
 
 「吉川もさあ、言ったら良かってん」
 
 「え、何を?」
 
 相原の言わんとすることがよく分からなくて、聞き返した。
 
 「だから、親に自分がゲイって打ち明けたときに、何でじゃボケおれの勝手やろがー、ってキレたったら良かってん。そっちのが、話は簡単やったかもよ」
 
 僕は口に運びかけていたスプーンを止めた。僕が親にキレる? そんな選択肢、当時は全く頭になかった。
 
 「い、いやいや。逆ギレやん、それ」
 
 「逆ギレか? だって別に、犯罪おかしてる訳でもないんやし」
 
 「そんな風に考えられるお前が凄いわ……。ていうか、もしあのときおれがキレてても、多分結果は一緒やったと思うし……」
 
 改めて、スプーンを口の中に入れた。うん、やっぱり美味い。相原は、我が家にあった賞味期限ギリギリのらっきょを囓り、首を傾けた。
 
 「そう? 自分の思ってること何も言わずに疎遠になるのと、全部ブチまけて疎遠になるのとでは、全然違うと思うねんけど」
 
 少し、ドキッとした。相原の言うことも、もっとものような気がした。
 
 僕は、両親と全然話をしていない。特に母親とは、カミングアウトしてからは一言も口をきいていない。それで良いはずがない、と理解しつつもズルズルと数ヶ月が経ってしまった。僕がもしあのときキレてたら、自分の考えを口にしていたら、結果は変わっていた、かも?
 
 「……でもそんな、おれが悪いのに。おれの勝手やろ、とかそんな」
 
 言われへん、と小さい声で呟いた。そのまま下を向こうとしたら、相原が僕の頭をポンポンと軽く手で叩いた。
 
 「それ、吉川のおとんおかんも同じこと思ってんちゃう」
 
 「え?」
 
 僕は顔を上げた。目に映るのは、相原の笑顔。僕のために笑ってくれているのだと思うと、それだけでもう卒倒しそうなくらい幸せな気持ちになる。
 
 「悪いのは自分。四郎は悪くない、って思ってそう」
 
 「……そ、そうかな、あ」
 
 声がどんどん小さくなる。心に生まれた幸福が萎縮していって、もやもやとしたものが胸に広がってゆく。
 
 両親は、本当にそんなふうに思っているのだろうか。そうかもしれないという気もするし、全然違うような気もする。分からない。全然分からない。そんなこと、考えたこともなかった。
 
 「その辺確かめるためにも、やっぱ吉川もちゃんと親と話した方がええで」
 
 「う、ん……」
 
 それは、全くもってその通りだ。いつまでも、逃げてばかりではいけない。それは重々承知しているのに、僕はなかなか実行に移すことが出来ない。己のヘタレっぷりには、ほとほとうんざりだ。
 
 「今度の進路指導なんか、いいチャンスやん」
 
 「うん……」
 
 「うんうんって、吉川、ちゃんと本心から頷いてる?」
 
 「い、いや、頑張る気だけはあんねんで」
 
 慌ててそう言うと、相原はスプーンを皿に置いた。
 
 「そんなら、今、電話しよう」
 
 「はい?」
 
 「吉川のおとんに」
 
 「いやいやいやいや! 無理! ていうかほら、仕事! おとん普通のサラリーマンやから!」
 
 「それもそうか。そんなら、おかんは」
 
 「あかんあかんあかんあかん! もっと無理やって!」
 
 「あ、吉川の携帯発見。おかんてメモリ何番?」
 
 「ちょ、あかんてほんま!」
 
 床に置いてあった携帯を相原が取ろうとするので、僕は慌てて彼の腕を掴んだ。すると相原は、不満そうに目を細めた。
 
 「何やねん、頑張るんやろー」
 
 「が、頑張るよ。頑張るけど、いきなりすぎるやろ」
 
 「そんじゃ、十分後にかけよっか」
 
 「インターバルみじかっ! な、何でそんなせっかちなん」
 
 「おれ、思い付いたらすぐ行動する派やねん」
 
 ああ、それは納得……と思いつつ、僕は素早く携帯を拾い上げて、相原の手が届かない位置まで移動させる。
 
 「わ、分かった。ちゃんと電話する! 電話はするけど、今日は勘弁して!」
 
 僕は、懇願するように手を合わせた。今から母親に電話するなんて、考えただけで泣きそうになる。更に、手が震えてきた。無理だ。明らかに、無理だ。
 
 「そんなら、いつ電話するん」
 
 相原は、じっと僕の顔を見る。その真っ直ぐな視線に、適当なことは言えない、と思った。そのうち……とかぼかした答えでは許してくれないだろうし、あまりに遠い日にちを設定しても、怒られそうだ。
 
 「な、中二日は欲しい、かな」
 
 相原の勢いに圧され、僕はそう答えた。相原は、首を後ろにひねって壁に掛かっているカレンダーを見る。
 
 「中二日……てことは、八月三日やな」
 
 改めて日付を口にされると、うわっ全然時間ないやんけ、と戦いてしまう。
 
 だけど、どう足掻いたって進路指導のときには、親と顔を合わせないといけないのである。それについて、色々と話しておかなければならないこともある。いつ大阪に来るのかとか、おとんとおかん、どっちが来るのか、もしくは両方来るのか。日帰りなのか、泊まりなのか。泊まりの場合、この部屋だと狭いしそれ以前に布団も足りないしあああ具体的なことを考えていたらへこんできた。
 
 「八月三日やで、吉川。約束な?」
 
 「が……頑張るわ」
 
 「そんときは、おれも横にいとくから」
 
 「ほ、ほんま?」
 
 僕の心は、ほんのり明るくなった。相原が側についていてくれるなら、心強い。頭の隅でもう一人の僕が、両親と話くらい一人でしろやヘタレ、と叫んでいるが聞こえないフリをした。なりふりなんて構っていられない。心細いものは心細い。
 
 「ほんまほんま。その代わり、おれもいっこ、吉川に頼んでもいい?」
 
 「え、何?」
 
 「吉川さ、明日って空いてる?」
 
 「うん、空いてるけど。何かあんの?」
 
 「明日、兄貴と話すんねんけどさ、吉川にもいてもらえたらな、って思って」
 
 「えっ」
 
 僕は一瞬言葉を失った。すると相原は、ちょっと気まずそうに頬を強ばらせた。
 
 「あ、いや、無理に頼もうとは思わんねんけど」
 
 そんなことを言う相原に、僕は急いで首を横に振った。
 
 「おれが、おってもええの?」
 
 相原はほっとしたように表情を緩めた。
 
 「うん。ていうか、おってくれると嬉しい。家の中はちょっとマズイから、外で話そうってことになってんけど、おれがキレたら、吉川が止めてな」
 
 「お……おう。頑張る」
 
 ていうか、相原にはキレる権利があると思うけどな……と、僕は心の中で呟いた。
 
 
 
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