| ■きみが涙を流すなら 30■
 
 相原は、三コール目で電話に出た。
 
 『もしもし?』
 
 その声を聞いて、僕は無性にほっとした。
 
 そうそう、この声だ。どんなことがあっても、この声を聞けば落ち着くことが出来る。全く馴染めなかった合コンも、浩一さんとの息苦しいやり取りも、全部遠くに行ってしまう。
 
 そんな風に安心したのも束の間、この電話が、僕が彼に告白してから初めて取るコミュニケーションだということを思い出してしまった。そう思うと、途端に緊張して体が硬くなる。しまった。思い出さなければ良かった。
 
 「も、もしもし」
 
 『吉川、外? 何処おんの?』
 
 「あ、うん、梅田。今まで合コンやって……」
 
 僕は受話器を耳に当てたまま、歩きだした。周りはゲーセンだらけで、かなり騒がしい。もう少し静かなところで電話すれば良かったかもしれない。だけど僕は今、相原の声が聞きたかった。
 
 『合コン? なん……』
 
 なんで、という言葉を呑みこんだような気配があった。ああ、気を遣わせてしまっている。僕は少し胸が痛くなった。
 
 「いや、人数合わせやねんけどな。社会勉強しようかな、って思って」
 
 『へえー。どうやった』
 
 「キツかった」
 
 道の端で口論するテキ屋と警官を横目で見ながら、僕はそう言った。受話器の向こうで、相原が軽く笑い声をあげる。
 
 『はは、キツかったか』
 
 相原がいつも通りの口調で喋ってくれるので、僕の緊張は次第に解れていった。顔が見えない、というのも良かったのかもしれない。
 
 良かった、おれ、ちゃんと普通に喋れてる。これなら、相原に振られた後も友達としてやってけるかも。
 
 無意識にそんなことを考えて、瞬間的にへこんでしまった。僕は救いようのない大馬鹿だ。
 
 『そんで? どしたん』
 
 そう聞かれて、僕は口を噤んだ。相原の声が聞きたかったから……なんて、そんなこと言えるはずがない。いや、だけど話すことならあるはずだ。
 
 「あの、相原の兄貴……」
 
 そこまで言って、僕は再び口を閉じた。先ほど浩一さんと話したことを、相原に言ってもいいものだろうか? 浩一さんは、僕に口止めしたりはしなかった。でも勝手に喋るのはどうか……。
 
 ……いやでも、僕だけが知っていてもしょうがないことだ、よな?それに、今日話したことを相原の耳にどうしても入れたくないのなら、そもそも僕にあんなに突っ込んだことを話すはずがない。多分。そのはず、だ。
 
 『うん? 兄貴が何かあった?』
 
 相原が聞き返す。僕は逡巡をやめた。
 
 「さっき、相原の兄貴と話してん」
 
 そう言うと、相原は黙った。梅田の喧騒に相原の声が持って行かれてしまわないように、僕は受話器を耳に強く押し当てた。
 
 『……何で?』
 
 やや間を空けてから、相原は探るような口調で言った。
 
 「いや、さっきまで合コンやったって言ったやん? カラオケ行っててんやけど、浩一さん、そこでバイトしてはって偶然会ってん」
 
 『……うん』
 
 相原は噛み締めるように頷く。
 
 「それでまた、カラオケのトイレでたまたま会ってんけど……」
 
 『……あ、吉川、ごめん。その話、割と重要な話やんな?』
 
 「……うん。あっ今、時間やばい?」
 
 『ううん、それは大丈夫やねんけど。もし吉川が大丈夫やったら、吉川ん家行ってもいいかな』
 
 えっ、相原、うちに来んの?
 
 僕は咄嗟に返事が出来なかった。だって僕は、相原に告白しているわけで、それでいてうちに来るって言うのは、いや、別に期待はしてないよ。期待はしてないけどなんというかええとその。
 
 『……家に妹おるから、ちょっと話しにくくてさ……』
 
 声の調子を落として、彼は囁いた。僕は無意識に、背筋を伸ばしていた。吉川四郎は一度座禅でも組んで、邪念を払うべきだ。
 
 『あ、無理やったら、外ででも後日でもええねんけど』
 
 僕が変に沈黙したものだから相原は勘違いしてしまったようで、少し慌てたような口調で言った。僕も慌てて、相手に見える訳がないのに首を激しく横に振った。
 
 「いや! 全然大丈夫やで! どうせ今から家帰るとこやし、いつでも来たって」
 
 『うん、分かった。そんなら行く。ありがとうな』
 
 「そんなら、後で」
 
 『後で』
 
 僕は電話を切って、息を吐き出した。癒された。そんなことを言っている場合じゃないということは重々に承知しているが、相原の声に物凄く癒された。
 
 
 脇目もふらず、僕は自宅に帰って来た。居間のクーラーのスイッチを入れて、ソファに座ったら両肩にずっしりと疲れがのし掛かって来た。疲れた。めっちゃ、疲れた。
 
 どうしてこう、特殊な出来事が一日に複数襲いかかって来るのだろう。一日ひとつにして欲しい。合コンに相原兄貴。ただでさえ僕は要領が悪いのに、そんな特殊イベントをいっぺんに捌けるわけがない。
 
 ……酒田に悪いことをしてしまった、と改めて思った。
 
 折角誘ってくれたのに。ちゃんと謝りたいけれど、そういえば僕は彼の連絡先を知らない。酒田とええ声の佐伯くんが、彼女らと上手く行きますように、と心の中で祈った。
 
 合コンで社会勉強をするつもりだったのに、全然駄目だった。しかし、駄目だということが分かって良かった……かもしれない。これも勉強だ、うん。 
          もし次があるなら、もうちょっと溶け込めるように頑張ろう。
 
 そんなことを考えていたら、眠くなってきた。いやいやいや、寝てはいけない。疲れたのは分かるけれど、それは駄目だ。僕は首を振って眠気を飛ばそうとした。
 
 これから相原が来るのだから、寝るわけにはいかない。今日のことを、ちゃんと彼に話さなければ。相原が来る前に、何をどう話すかちゃんと考えておこう。大事な話だから、事前にシミュレーションしておかないと、絶対僕はしどろもどろになってしまう。
 
 そう思えば思うほど、僕の瞼は下に降りて来る。身体がずるずる倒れてしまう。
 
 あかんあかん。何で寝ようとすんねん。ちゃんと考えとかんと、またあいつの前でテンパってまうぞ。それ以前に、インターホンのチャイムに気付かんかったらどうすんねん。
 
 あかんあかん。あかんって。
 
 いやほんま……あかんっちゅうねん……。
 
 
 
 ……頭の後ろ辺りで、何か音がした。
 
 甲高くて、機械音のような……。多分僕は、その音を何度も聞いたことがある。ええと、何やったっけこの音。
 
 ええと、ええと、ええと。
 
 「インターホンやっちゅうねん!」
 
 僕は飛び起きた。しまった。やっぱり寝てしまった。己の意志の弱さにがっかりだ。ソファから飛び降りて、ダッシュで玄関へ向かう。その間に、もう一度チャイムが鳴った。
 
 「はいっ!」
 
 声を張り上げつつ、扉を開けた。そこに、相原が立っている。僕の勢いに、ちょっとびっくりしたような顔をしていた。
 
 相原!
 
 僕は何故か、胸が押し潰されそうになった。相原に会えて嬉しい。涙が出そうだ。自分でも大袈裟だと思うが、それくらい嬉しかった。
 
 「吉川、寝てた?」
 
 相原に会えた喜びに浸りかけていたら、そんな指摘をされた。
 
 「え、ええっ、何で?」
 
 「顔に寝あとが……」
 
 「マジっすか!」
 
 僕は顔に手を当てた。確かに右のこめかみから頬にかけて、不自然な凸凹の感触がする。
 
 「ま、ま。よくあるよくある」
 
 相原は軽く笑うが、僕は酷く恥ずかしくなった。
 
 「と、とりあえず……中、どうぞ」
 
 相原を、居間に通す。彼は「失礼しますー」と言いながら、ソファに腰掛けた。
 
 そういえば僕はここで相原に告白したんだと思ったら、急にソワソワして来た。やっぱり、外で会えば良かったかもしれない。
 
 相原は、その辺のことは気にならないのだろうか。……気にならないよな。気になるわけがない。そんな状況ではないのだ。
 
 僕は息を吸い込んだ。僕はいつだって、自分のことしか考えていない。それではいけない。もっとちゃんと、周りを見ないと。
 
 
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