| ■きみが涙を流すなら 18■
 「へ?」
 
 相原は虚を突かれたようで、きょとんとした顔つきになった。
 何言ってんの? という表情だった。僕もそれは同じ気持ちだった。自分のしでかしたことに、唖然としてしまう。
 
 一体何を言ってるんだ。確かに相原が出て行こうとするのは止められたけれど、それからどうするつもりだ。
 今まで固く、これ以上ないってくらい厳重に胸の奥底に封印していた秘密を、何故こんなにもあっさりと口にしてしまったんだ。
 
 僕の身体は震え始めた。体温がぐんぐん下がっていく。
 恐ろしい。自分の発言、そしてこれから起きる出来事が、怖くてたまらない。
 
 「……吉川、今、何て言った?」
 
 彼がいぶかしげな口調でそう言うので、反射的に僕は首を横に振っていた。
 
 「い、いや。何も言うてへんよ」
 
 我ながら往生際が悪い。しかし相原は、何度も何度も瞬きをしながら、
 
 「ゲイって言った? お前が?」
 
 と確認してきた。聞こえてんなら確認すんな、と僕は奥歯を噛み締めた。
 
 「お……おう」
 
 消え入りそうな声で、頷いた。もう駄目だ。両肩がずっしりと重くなる。早速、胃と頭が痛くなってきた。
 
 「ゲイって……そういうゲイ?」
 
 他にどういうゲイがあるのか知らないが、僕は「うん……」と頷いた。ここまで来たら、もう頷くしかない。退路は既に、何処にも存在しないのである。
 
 「いやあの……なんていうか……」
 
 僕は、震える舌を懸命に動かした。
 ここで自分が沈黙して、相原から何かを言われるのが嫌だった。喉も震えだした。自分は大変なことをしでかしてしまった。その自覚はある。
 
 今この瞬間に、僕は相原を失ってしまうかもしれない。いや、多分失う。
 
 両親にカミングアウトしたときと同じだ。同じ過ちは、二度と繰り返すまいと思っていたのに。なのに、言ってしまった。
 
 彼が重大な秘密を打ち明けてくれたのだから、僕も言わなければならないと思ったのかもしれない。
 
 それにしても、今言うことか? こんな、何の準備も心構えもない状態で。しかも、自分が片思いしているノンケの友人に!
 
 僕は何も学習しちゃいない。過去の失敗から、何も得ることが出来ていない大馬鹿野郎だ。
 
 「あの、だから……。その、秘密を持つのキツさっていうの……それ、むっちゃ分かる」
 
 混乱したまま、僕はそんなことを口走った。自分でも、何が言いたいのかよく分からない。
 
 恐る恐る相原の顔を窺ってみると、彼はこちらを注視していた。
 その表情を一語で表すなら、「びっくり」。
 嫌悪でないだけマシだが、彼も多分まだ混乱している。
 もしこの表情がじわじわと嫌悪に変わって行ったら……僕の人生はそこで終わりだ。
 
 そのとき、相原の目が一瞬揺らいだ。えっと思った瞬間、彼の右目から涙が一粒ぽろんとこぼれた。
 
 僕は物凄く驚いたが、相原本人はもっと驚いたようだった。一瞬息を呑んでから慌てて顔をそむけ、それから手の甲で目元を乱暴にこする。
 
 それを見てしまった僕は、もう駄目だった。
 
 相原が今まで隠してきた秘密の内容や、金属バットを持ち出すくらいに追い詰められた相原、そのことに全然気付けなかったこと、自分の秘密のこと、それを相原にばらしてしまったこと、色んなことが怒涛のように一気に押し寄せてきて、もう、駄目だった。
 
 こらえようと思う暇もなかった。両目から涙がどんどん溢れてきて、止めることが出来ない。手でぬぐっても、全然間に合わなかった。涙は頬から顎を伝って、僕のTシャツにぱたぱたと落ちた。
 
 「お、おい……! 泣くなよ……!」
 
 相原がおろおろと、僕の肩に手を置いた。シャツ越しに伝わってくる彼の体温に、更に泣けてくる。
 
 「折角がんばってこらえたのに、そんなん、お前が泣いたら我慢できんくなるやん……!」
 
 そう言う相原の声が、波打っている。そして、うつむいている僕の首筋に、生ぬるい雫が落ちた。相原も泣いている。そう思ったら、より一層泣けてきた。
 
 もう何が何だか分からないが、とにかく泣ける。涙が後から後から出て来てしょうがない。
 
 僕は泣き続けた。相原も泣いた。二人で泣いた。お互いうつむいて、時折嗚咽を漏らしながら目から塩分を排出し続けた。
 
 
 ……しかし、涙なんてものは無限に出るわけじゃない。いつかは枯れるときがやって来る。
 
 男ふたり並んでおいおい泣き続けた僕たちは、涙が枯れると同時にどうしようもなくきまりが悪くなった。
 しばらく無言で、ティッシュ箱を回し合って鼻をかみ続けた。その間、お互いの顔はちらりとも見ない。
 
 「あー……」
 
 十枚目くらいのティッシュを丸めてゴミ箱に放り込んだ相原は、溜め息とも呻きともつかない声を漏らした。
 
 「はずかし……」
 
 その一言が、この場の空気全てを表していた。確かに恥ずかしい。とにかく恥ずかしくてしょうがなかった。
 
 「いやまあ……ここはお互い様ってことで……」
 
 僕も、手に持っていたティッシュをゴミ箱に投げ入れた。
 
 泣いている間、ずっとうつむいていたので首と肩が痛い。首を回そうと思ったら、相原と目が合った。
 真っ赤に腫れあがった彼の目が、僕を見てふっと笑った。
 気のせいかもしれないけれど、何処かさっぱりとした表情をしている。
 
 「……なんか、腹減った」
 
 相原のその一言で、僕もなんだかさっぱりした。
 うん、確かに腹が減った。泣くのって、どうしてあんなに体力を使うのだろう。
 
 「カップラーメンやったらあるけど」
 
 「お、食いたい食いたい」
 
 
 そんなわけで僕たちは、ふたり並んでソファに腰掛け、夜食をとることにした。
 カップラーメンにお湯を注ぎ、時計を見る。時刻は午前二時半。
 随分長い間泣いていたことになる。そう思うと、また恥ずかしくなってきた。
 
 「なあなあ、吉川。さっきの話やねんけどさ」
 
 いきなり相原にそう振られて、僕はカップラーメンをひっくり返しそうになった。
 
 「さ、さっきの話って……ど、どれ……?」
 
 「いや、お前の……」
 
 「ごめん!」
 
 僕は相原の言葉を遮って、両手を合わせた。
 
 「ごめん、ほんまにごめん!
 いきなりあんな話されて、どないせいっちゅう話やんな。
 おれもちょっと混乱しとって、もう自分でも何言ってるか分かってへんかった、っていうか!」
 
 「え、でも……お前がゲイっていうのは、ほんまのことなんやんな?」
 
 相原の切り返しに、ぐっと詰まった。首筋に汗がにじむ。
 はっきり言葉にされると、身を切られるように痛かった。
 
 「ほ、ほんまのことやけど……。ご、ごめん……っ」
 
 僕は、また泣きたくなってきた。
 
 「いや、何がごめんなんか、さっぱり分からんねんけど……」
 
 「だって、今まで友達やと思ってた奴が同性愛者やったなんて、き、きもちわるく、ない……?」
 
 「何でやねん」
 
 笑い声交じりに、そんな返事が返って来た。
 
 恐れていた展開とは違う雲行きに、僕はゆっくり顔を上げた。
 まだ目が腫れているとはいえ、相原はもういつもの相原に戻っていた。
 あかん、あかんと繰り返していたときの面影は全くない。
 
 「まあ、確かにむっちゃびっくりしたけど。でもお前、ぜんっぜん、そんな感じせんなあ」
 
 「そ、そう……?」
 
 「うん。なんていうか、女っぽくないし。マッチョでもないし」
 
 「いや、まあそれは……。ゲイにも色々いるっていうか……」
 
 「へえー、そうなんか。奥が深いねんなあ。ていうか吉川、そろそろ三分ちゃう?」
 
 相原はそう言って、カップラーメンのフタを勢いよくはがした。ふわんと湯気が立ち上って、安っぽいけど食欲をそそるスープの匂いが漂ってくる。
 
 僕は、胸がさわさわしてきた。
 
 あれ、何だろう、この状況は。この流れはもしかして、もしかして……。
 
 「あの、相原……」
 
 「何?」
 
 「おれのこと、気持ち悪くない……?」
 
 「だから、気持ち悪くないって言ってるやんけ」
 
 「いやあの、ええねんで? そんな気ぃ遣わんでも。気持ち悪いんやったら気持ち悪いって、正直に言ってくれた方がおれも」
 
 「しつこい」
 
 相原の声のトーンが変わって、僕は口をつぐんだ。彼の眉間に、皺が刻まれている。
 
 先程彼の秘密を聞いたとき、彼から「引いたやろ」としつこく言われてちょっとムッとしたことを思い出した。
 あのときは、そんなことで引くような人間だと思われたことに腹を立てた。
 今の相原も、同じ気持ちなのだろうか。
 
 泣きたくなったけれど、流石にもう涙は出ない。
 
 ごめん、と言いそうになるのを飲み込んだ。今はそれよりも、もっと言いたいことがある。
 
 「あ、ありがとう……な」
 
 僕がそう言うと、相原はキャー! と女の子のように叫んで、両手で顔を覆った。
 
 「うわテレる! そういうのむっちゃテレる! あかん無理! 耐えられへん!」
 
 どうやら本気で照れているらしい相原に、僕はつい笑った。
 なんて可愛いんだ、こいつは。
 
 「吉川、いい加減ラーメン食えよ。伸びるで」
 
 照れ隠しだろう、相原は勢いよくラーメンをすすった。そんな彼にくすぐったくなりながら、僕もカップラーメンのフタを開けた。
 
 「あっ、あああっ!」
 
 突然、相原が大きな声をあげた。
 僕はその声に驚いて、カップに突っ込もうとしていた箸を寸前で引いた。
 
 「な、なんやなんや。どないしてんな」
 
 「てことは……。こないだ吉川が振られたって言ってたの、相手男やったってこと!?」
 
 「お……おう。そうなるわな、そりゃ……」
 
 「彼女やなくって、彼氏か!」
 
 「お、おお」
 
 「うっわー、やられた!」
 
 相原は額に手を当てて、天井を仰いだ。
 何にやられたと言うんだろう。訳が分からず呆然としていると、彼は続けた。
 
 「年上で不倫やって言ってたから、完全に熟女やと思ってた!
 何かこう茶髪でシュッとしたスタイルで、気の強そうなおねえさんで……とか、むっちゃ具体的に想像しとった……」
 
 全然ちゃうやんけーと、彼は拳を握った。その本気で悔しそうな様子に、僕は笑顔になってしまう。
 
 「はは……。ごめんごめん。ほんまは、三十路サラリーマンやってん」
 
 「くっそー。全くのハズレやなあ。……いやあ、でも良かったかも」
 
 「え、何が?」
 
 「いや、実はさ。おれ、吉川のことが気になってるっていう女子、何人か知ってんねん。
 何やったら紹介しよっかなって思っててんけど、お前全然、彼女欲しいとか新しい恋がしたいとか言わんやん。
 やっぱまだ、そういうのはしんどいんかな、と思って口に出さんかってん。
 言わんで良かったなあ。女子紹介されても、正直困るもんな」
 
 「えっ、何。何それ。おれのことが気になってるって……。誰? 誰のこと?」
 
 僕はつい、身を乗り出した。それは初耳だ。
 しかも、何人かいるって? そんなこと、全く意識したことがなかった。
 
 「うわ、何その食いつき。吉川お前、女にもてても意味ないやん」
 
 「ないけどさ。でも、それはそれ、これはこれっていうか。気になるやん」
 
 「女嫌い、ってわけではないん?」
 
 「ああ、うん。別に嫌いではないかな。可愛い子は可愛いって思うよ。それ以上は何も思わんけど。で、誰よ。うちのクラス?」
 
 「ええー。何か、言いたくなくなってきたなあ」
 
 「何やねん、教えろよー。聞いてもどうもならんやん」
 
 「どうもならへんのが、またムカつくんやんけ。何やこいつ、無駄にモテやがって」
 
 拗ねたような表情の相原がおかしくて、僕は笑った。
 笑っていると、僕の目から、もう枯れたと思っていた涙がこぼれてきた。
 
 こんな風に、自分の性志向が絡んだ雑談を、笑いながら誰かと出来る日が来るなんて思っていなかった。
 僕はずっと、こうやって誰かと気楽に笑いたかった。
 同性愛なんて大したことじゃない。そう思わせて欲しかった。
 
 良かった。言って良かった。言って良かったんだ。
 
 僕は生まれて初めて、そう思った。
 
 僕は涙をぬぐって、ちらりと相原の方を見た。彼はこちらを見ていない。気付かないフリをしてくれているらしい。
 
 ……それにしても、相原が僕に女子を紹介しようとしていただなんて。
 
 ここまで脈がなさすぎると、へこむのも面倒くさくなってくる。
 
 こすり過ぎていい加減ひりひりしてきた瞼をそっと撫でて、僕はひとつ息を吐いた。
 
 
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