| ■ライ・クア・バード 05■
 
 梅雨はなんとなーく、気分が乗らない。
 
 と、雷蔵が言う。おれは、そんなことは一度も考えたことがなかった。
 今までずっと、天候に関わらずテンションはずっと低空飛行だったからだ。晴れていても曇っていても、どうということは無かった。
 
 「今日も雨だねえ……」
 
 雷蔵は机に肘をつき、窓の外を流れる雨だれを見やる。そして溜め息をひとつ。雨は二日前から降り続き、まったく止む気配がなかった。
 
 雷蔵が浮かない顔をしていると、おれもいまいち調子が出ない。何だか胸がもやもやして、力が入らないのである。そういう意味では、確かに梅雨というのは、なんとなーく気分が乗らないものであると言えるかもしれない。
 
 「そうだねえ」
 
 おれも頷き、雷蔵に倣って窓を見る。外は灰色一色だった。まだ午前中なのに空は暗く、一分の隙間もなく敷き詰められた雲が重く垂れ下がっていた。さあさあと間断なく続く雨音は何処までも単調で、とうに聞き飽きた。
 
 窓ガラスに写る雷蔵の表情は、憂いを帯びている。雷蔵に元気が無いと詰まらないなあ……なんて考えながら、視線を横にずらす。
 
 そうしたら、のっぺらぼうみたいな、ぼんやりとした顔が見えた。
 
 誰でもない、おれの顔である。
 
 ばん、という音が響いた。何事かと思ったら、おれ自身が窓ガラスに手をついた音だった。
 
 「三郎?」
 
 雷蔵が、目をまるくしてこちらを向く。おれは慌てて手を引っ込める。途端に、腹の裏側がちくちくしてきた。
 
 「あ、ごめん。何かちょっと眩暈がした」
 
 「え、大丈夫?」
 
 「うん、平気平気」
 
 出来る限り、明るい笑みを浮かべてみせる。その間も、腹を刺す妙な刺激がおさまらない。ちくちく。ちくちくちく。
 
 あれ、何で? 何で?
 
 また、顔が見えなくなっている。いや、そんなはずはない。だって、朝も学校に来る前に鏡を見てきたのに。そのときは、ちゃんと写っていた。これがおれの顔だ、ときちんと確認してから家を出たのである。それなのに、どうして急に?
 
 ……いや、雨で視界が悪いから、見づらかっただけだ。大体、鏡じゃないのだから、そうはっきり写るわけでもない。見えなくて当たり前だ。もっと近付いてよく見れば、ちゃんと分かるはずだ。そうだ。そうに決まっている。
 
 しかし、もう一度窓ガラスに目を向ける勇気は出なかった。再度確認して、やっぱり顔が見えなくなっていたら、どうすれば良いのだ。やっと自分の顔を手に入れたと思ったのに。
 
 腹のちくちくした痒みにも似た感覚が、明確に痛みになってきた。じくじく。じくじくじく。思わず腹に手を当てる。何だこれは。勘弁して欲しい。
 
 「……三郎、ほんと大丈夫? 保健室行く?」
 
 雷蔵が心配そうに覗き込んでくる。おれは黙って首を横に振った。保健室に行ってどうにかなるとは、到底思えなかった。それに、ひとりになりたくない。こんな状態で雷蔵から離れるなんて、考えたくもなかった。
 
 どうしようもない恐怖に駆られつつ、おれは口を開いた。
 
 「……あの、雷蔵」
 
 「うん、どうしたの」
 
 おれって、どんな顔をしていたっけ。
 
 喉元までこみ上げて来た言葉を、必死の思いで飲み込んだ。そんなことを、聞けるわけがない。雷蔵が気味の悪い思いをするだけである。それだけは、避けなければならない。おれは昔からどうしようもない問題児だと言われて来たけれど、それだけは口にしなかったのだから。
 
 そこで、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。おれは雷蔵を見た。雷蔵も、おれを見ている。
 
 「ごめん、後で良いや」
 
 そう誤魔化して、逃げるようにして自分の席についた。
 
 授業中は、窓の方は一切見なかった。ただひたすら、教科書を睨みつけていた。そうしながら、つい先程まで見えていたはずの自分の顔を思い出そうと努める。しかし、駄目だった。分からない。自分がどういう顔をしていたのか、ついぞ思い出すことが出来ないのだった。
 
 おれは机を叩きたくなった。何でだよ。おかしいじゃないか。入学式の日から、欠かさず鏡を見ていたのに。そうそうこれがおれの顔だ、と日々確認していたのに。今ではもう、輪郭も、目の形も色も、鼻や口の大きさも、何もかもあやふやになっている。
 
 何で、何で、何で。
 
 苛々しつつシャーペンをノックしたら、ばきん、と嫌な音がした。それ以上、ノック出来なくなっていた。壊してしまったのである。一本しか持って来ていないので、これが潰れたら何も出来ない。
 
 仕方が無いので机に突っ伏し、授業が終わるまでひたすら不安と焦燥と恐怖と闘った。時間はじりじりとしか進まない。早く、雷蔵の顔が見たいと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「えっ何、シャーペン壊れた? おれ直す直す!」
 
 休み時間になり、何故か八左ヱ門が嬉しそうに壊れたシャーペンに飛びついた。そういえば、何処のクラスにもシャーペンやらボールペンを直したがる男っているよなあ……と胸中で呟きつつ、「……良いよ、新しいの買うから」と言う。しかし八左ヱ門はこちらの言葉には一切耳を貸さず、うきうきとシャーペンを分解し始めた。
 
 「八左ヱ門は、こういうの得意なんだよ」
 
 ぼくも、よく直してもらったもの、なんて続けて雷蔵はにこにこと笑っている。おれはそんな彼を、力無く見上げた。雷蔵の笑顔を見れば、少しダメージが回復する気がする。
 
 「……ところで三郎、体調は大丈夫?」
 
 やさしい雷蔵は、おれのことを気遣ってくれる。しかし、手に入れたはずの顔を再び失ったショックに打ちひしがれていたおれには、そのやさしさが些か辛い。
 
 なんて答えようか、少し迷う。その瞬間であった。
 
 バキッ
 
 八左ヱ門の修理していたシャーペンが、物凄い音を立てた。誰が聞いても、ああもう駄目だな、と思う破壊音だった。
 
 「…………」
 
 「…………」
 
 「…………」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ……そういうわけで、購買部である。何故かいつも、こんぶだしの匂いがする購買部。裏で、おでんでも煮ているんじゃないかと思うような空気である。
 
 ごめんごめんマジごめん弁償する、と五月蠅い八左ヱ門は振り切って、ひとりで来た。元より買い換えるつもりだったものを弁償されても困る。
 
 全く、八左ヱ門はいつもロクなことをしない。しかし、今回は彼のお陰で何となく気持ちが緩んだ。たまには、彼の無鉄砲で考え無しなところも役に立つ。原因不明の腹痛も、ほんの少しだけ、ましになった。
 
 筆記具のコーナーに視線を走らせていると、雷蔵が使っているのと同じシャーペンを見付けた。細身で黒のシャーペンだ。
 
 自然に、そちらに手が伸びた。指先でつまみ上げ、握ってみる。親指でかちかち。……よし、これを買おう。
 
 ついでにシャーペンの芯も買おう。雷蔵はどれを使っていたっけ。無意識の内に、雷蔵が普段使用しているものを探している自分に気付く。シャーペンの芯を選んだら、今度は消しゴム。次はボールペン。
 
 気が付けばおれは、腹痛をすっかり忘れていた。とかく、記憶を頼りにして、雷蔵の使っている文房具を探すことに集中する。
 
 雷蔵はこのボールペンを使っていたっけ。いや、四色ではなく、三色のボールペンだったはず。どの色を使おうか迷わないためには、三色が限界だと言っていたことを覚えている。
 
 雷蔵と同じものを探すのは、楽しかった。何故か胸がどきどきする。入学式の日に、初めて自分の顔を見たときとはまた違う高揚感が身を包んだ。
 
 雷蔵と同じ。雷蔵とお揃い。
 
 ……雷蔵と!
 
 
 
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