| ■カウントダウン 11■
 
 その日以降、三郎はぼくに対して物凄く優しかった。優しすぎるくらいだ。ぼくはというと、ずっとグダグダのグズグズだった。テンションは低いし、何をするにも失敗してばかりだった。三郎は、そんなぼくの側にいて、何かと気遣ってくれた。
 
 あのときのことを、三郎は「気にしなくて良いよ」と言ってくれたけれど、ぼくはめちゃくちゃ気にしていたし、引きずりまくっていた。これまで上手くいっていただけに、ショックが大きかった。今後一生、三郎とセックス出来なかったらどうしよう。今は「焦らなくて大丈夫だよ」と微笑む三郎も、その内ぼくに愛想を尽かしてしまうんじゃないだろうか。ぼくはそれが、怖かった。好きな人が離れてしまうかも、と考えるのってこんなに怖いんだと思った。今まで、そんなことも知らなかった。ぼくはずっと、三郎に甘えていたのだ。
 
 三郎が優しければ優しい程、ぼくの至らなさだとか駄目さだとかが浮き彫りになってゆく感じがして、死にたかった。いっそ責めてくれたら……なんてことも思うけれど、三郎に責められたら責められたで、悲しくて死にたくなるのだ、きっと。
 
 三郎に会うのは辛かったけれど、会えないともっと辛いので学校には毎日行った。そしてぼくは、人の足音と気配に苛まれるのだった。頭の中がずっとうるさい。休み時間が憂鬱で仕方無かった。級友たちの会話が、聞きたくもないのにどんどん耳に入って来る。足音と笑い声が響く。ああ、うるさい。うるさい。
 
 「雷蔵、具合悪いの?」
 
 そっと問いかける三郎の声が、耳に滑り込んできた。
 
 「…………」
 
 ぼくは黙って三郎を見た。三郎はとても心配そうな顔をしていた。彼の後ろでは、女子たちが携帯を手にきゃらきゃら笑っている。その声がまた頭に響いてぼくは眉を寄せた。何だか、今日は特に調子が悪い。
 
 「頭痛い?」
 
 三郎はぼくの顔をのぞき込む。ここで大丈夫、と言っても通用しないだろうから「ちょっと」と答えた。
 
 「保健室行こうか。おれ、ついてくよ」
 
 三郎は今日も優しい。優しくない日なんて無い。胸が痛い。
 
 「ううん……良い」
 
 保健室に行ったら、三郎と離れ離れになってしまう。ぼくは首を横に振った。
 
 「じゃあ、鎮痛剤あげるから飲んどきなよ。ちょっと待ってね、ダッシュで水買ってくる」
 
 そこまでしなくて良いよと思ったけれど、止める間もなく三郎は行ってしまった。
 
 三郎と入れ替わりに、八左ヱ門が口笛を吹きながらぼくの席までやって来た。
 
 「雷蔵、マガジン回ってきたぞ」
 
 彼はそう言って、ぼくの机にマガジンを置いた。いつもだったら喜んで手に取るのだけれど、今日はそんな気にならなかった。
 
 「三郎は?」
 
 「うん、ちょっと……」
 
 ぼくがそこまで言ったところで、教室の扉が開く気配がした。軽やかな足音が、こちらに向かってくる。半分、スキップでもしているような。
 
 あ、勘右衛門だ……とぼくが思うのと同じタイミングで、八左ヱ門が顔を上げて扉の方に目を向けた。案の定というか何というか、勘右衛門がにこにこしながら歩いてくるのが見えた。
 
 「よーす。あ、マガジンじゃん。見せて見せて」
 
 「これは今から、雷蔵に回すんだよ。一組は一組でやれって」
 
 「『もうしま』だけでも読ませてよ」
 
 「何でそのチョイスなんだよ」
 
 八左ヱ門と勘右衛門は軽い調子で漫画の話をしているが、ぼくは全く別なことで頭がいっぱいだった。
 
 今、八左ヱ門も勘右衛門がこちらへ来ることに気が付いたのだろうか。何となく、そういう感じに見えた。どうして分かったのだろう。
 
 ……ぼくと同じように、足音と気配で?
 
 「…………」
 
 ぼくは八左ヱ門の顔を凝視した。彼は笑っている。何で今、勘右衛門が来るのが分かったの、と尋ねてみようか迷う。
 
 「何なに、雷蔵どうしたの」
 
 勘右衛門はそう言いながら、ぼくの肩を叩いた。
 
 「いや、あの……八左ヱ門、今……」
 
 ぼくはまだ迷いながら、あやふやに口を動かした。そうしたら八左ヱ門はほんの少しだけ視線を動かして、ちらりと勘右衛門を見た。勘右衛門も、同じように八左ヱ門を見た。彼らの間に、見えない信号みたいなものが走ったのが分かった。
 
 まただ。また、いつもの「隠しごとモード」だ。
 
 そう思った瞬間、ぼくの胸の中で何かが爆発した。何だよ。何なんだよ。何が言いたいんだ。ぼくが気付いていないとでも思っているのだろうか。
 
 色々あったから結局触れずに終わったけれど、ぼくは八左ヱ門から「雷蔵が何を忘れてるか知ってるけど、教えない」と言われたことだって全く納得していないのだ。そんなことを言われて、成る程そうですか、なんで思うわけがないじゃないか。何だよ。何だよ。ああ、頭が痛い。焼けるようだ。こめかみがガンガンする。人の声がうるさい。何だよ。何だよ、みんなして。
 
 無意識の内に、ぼくは立ち上がっていた。びっくりしたように、八左ヱ門と勘右衛門が目を丸くしてぼくを見る。
 
 「ぼくに言いたいことがあるなら、言えば良いじゃないか……っ」
 
 そう絞り出して、ぼくは足早に教室を出た。ほとんど駆け足になりながら廊下を突っ切る。ここもうるさい。駄目だ。階段を降りる。ここも駄目だ。音が反響して、廊下や教室よりもしんどい。
 
 ぼくは静かな場所を探して走った。とにかく、人のいないところに行きたかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 気が付けば、ぼくは裏庭の池まで来ていた。そこは無人で、辺りは静まり返っていた。やっと一人になれた、と少しだけほっとした。だけど、頭の中は依然としてぐちゃぐちゃのままだった。
 
 ぼくはすっかり疲れてしまって、池の端に座り込んだ。池の水は今日も濁っていて、鯉の姿はたまにしか見えない。ぼくは膝を抱えて項垂れる。気を抜くと泣いてしまいそうだったので、眉間に力を入れて必死で耐える。
 
 そのとき、すとんと誰かがぼくの隣に座った。まったく気配を感じなかったので少し驚いて、顔を持ち上げた。
 
 「……兵助」
 
 そこにいたのは、久々知兵助だった。彼はいつも通り、何を考えているのかよく分からない表情で、ポケットからパックのいちご豆乳を取り出して、ぼくに差し出した。
 
 「…………」
 
 ぼくは黙って、いちご豆乳を受け取った。冷たい。ぼくはそれを額に当ててみた。ひやりとして、気持ちが良かった。
 
 「八左ヱ門たちが必死で探してたぞ。三郎なんか、顔面蒼白になってた」
 
 兵助は静かに言った。友人たちの名前を聞いたら、また泣きそうになった。
 
 「……みんな、ぼくのことが嫌いなんだ……」
 
 言いながら、五歳児かよ、と思った。兵助は、ゆっくり首を横に振る。
 
 「みんな雷蔵が好きだよ」
 
 「嘘だ……」
 
 また、五歳児みたいなことを口にしてしまう。
 
 ぼくだって、本当は分かっている。ぼくのことが嫌いなら、ぼくを探したりしないし、こうやって隣に座って豆乳いちごを差し出してくれたりもしない。きっと、みんなぼくのことを心配している。頭では分かっていても心は五歳児のままで、口が止まらなかった。
 
 「……じゃあ何で、みんなしてぼくに隠し事するの」
 
 「…………」
 
 「みんな何かよそよそしいし、普段通りの表情しながらたまに目線でやりとりしてるし」
 
 「……気付いてたんだ」
 
 「気付くよ! みんなぼくのこと警戒してるんだって、目を見たら分かる。三郎はそんなことなかったけど、でも……」
 
 名前を口にした瞬間、脳裏に三郎の顔が浮かんだ。胸が締め付けられる。
 
 「でも、三郎とも何か、ぐちゃぐちゃだし……」
 
 ぼくは顔を伏せた。全身が、ずっしりと重かった。
 
 「もう、嫌だ……」
 
 「…………」
 
 「人の足音が耳についてうるさいんだ。無意識に歩幅をはかって、体格を推測して……何それ、何でそんなこと考えちゃうんだよ。訳わかんないよ」
 
 「雷蔵……」
 
 「ぼくは何を忘れてるんだよ……。八左ヱ門は知ってる癖に、教えてくれないし。知ってるけどぼくには教えない、って……」
 
 「……あいつ、そんなこと言ったの?」
 
 「……言ったよ。兵助も勘右衛門も、知ってるんだろ。ぼくが何を忘れてるのか」
 
 返事を期待せずに、言った。思った通り、兵助は黙っている。やっぱりぼくだけのけ者なんだ。ぼくは小さく、乾いた笑いを漏らした。
 
 「思い出せないなら、全部消えて欲しい……ほんとに、もう、嫌なんだ……」
 
 ぼくが口を閉じると、辺りはまた静かになった。鯉たちは音もなく泳いでいる。ぼくはぼんやりと、ぬるぬる動く魚影を見詰めた。
 
 そのとき、兵助が思いもよらないことを言った。
 
 「本当に知りたい?」
 
 「……え?」
 
 意表を突かれて、ぼくは声を引っ繰り返した。兵助は背筋をぴんと伸ばして、ぼくを見ていた。彼はいつも通りの、世間話でもするような口調でもう一度言った。
 
 「雷蔵が忘れていること、本当に知りたい?」
 
 「…………」
 
 ぼくは絶句した。まさか、そういう展開になるとは思わなかったのだ。
 
 本当に知りたいか、って……、知りたいに決まっている。それが分からないから、ぼくは今こんなにぼろぼろになっているのだ。そう思うのに、ぼくの心臓は奇妙にうねりだした。背中に冷たい汗が浮かぶ。
 
 「知りたければ、教えてあげる」
 
 兵助は淡々と言う。教えてあげる。教えてあげる? 瞼がびりびりし始めた。指先が震える。怖い。……怖い。ぼくははっきりと、恐怖を覚えていた。
 
 「ぼく、が忘れていること……」
 
 「聞く?」
 
 ……ここでぼくが一言、聞きたい、と言えば彼は教えてくれるのだ。だけど、怖い。瞼が痺れる。怖い。どうしてだろう。あんなに知りたかったのだから、教えて貰えば良いじゃないか。だけど怖い。怖い。
 
 「き……」
 
 唾を呑み込んで、硬直しそうなくちびるを動かした。兵助は全く普段通りのたたずまいで、ぼくの返事を待っている。
 
 「聞か、ない……」
 
 ぼくは、力なく首を横に振った。そして、立ち上がる。
 
 「聞かない……いらない……」
 
 言いながら足を踏み出したら、膝に力が入らなくてそのまま転びそうになった。地面に手をついてどうにか堪えて、ぼくはふらふらと池から離れた。兵助は追ってこない。ぼくは走った。ほとんど、逃げるみたいに。
 
 瞼が、ずっと引き攣っている。背中が寒い。三郎。三郎。駄目だ。三郎がいないと、ぼくはこのまま凍えてしまう。
 
 
 
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 ※「もうしま」→ルポ漫画「もう、しませんから」のこと。現在はタイトルが変わっているようです。
 
 
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