■ふたりの■


 相原と初めてひとつのベッドに入ったとき、僕が一番最初にしたことは、ベッドの上できちんと正座をして、

「……あの! 途中で無理やと思ったら、すぐに言って下さい」

 と、相手に向かって注意することだった。

 それを聞いた相原は、きょとんとして「はあ」と頷いた。それから首を傾げて腑に落ちないといった様子で、

「いや、あの、吉川。それは普通、おれが言うことなんでは」

 なんてことを言う。

「いやいやいや。いやいやいやいや」

 僕は首を横に振った。

 ノンケが男とやろうとして、寸前で思いとどまり「やっぱり自分はゲイじゃなかった」と我に返るケースのなんと多いことか。そのような事例を数多く耳にしているため、恐ろしくて仕方がない。特に相原はついこの間まで、そういった世界とは全くの無縁だったわけだし。いざってときに我に返られたらどうしよう。むしろ今この瞬間に、彼が我に返ってしまったらどうしよう。そう思うと、手が震えてくる。

「ええと吉川も、途中で嫌になったら正直に……」

「いや、それはないから!」

 僕はきっぱりと断言した。言い切ってから、そんな言い方したらおれヤる気満々みたいやんけ、と顔が熱くなった。いや、ヤる気は満々なのだけど。

 そうしたら、相原は笑った。

「それやったら、何も問題ないやん」

 なんという爽やかな笑顔。何百回目か分からないが、僕は相原に惚れ直した。ちくしょう、何でこの男はこんなにかっこいいんだろう。明らかに僕とは度量とか男っぷりとかそういうものが違いすぎて、何だか悔しくなってくる。

「あの、おれ、下手やと思うねんけど……ごめん、な?」

 恐る恐る言う相原に、無言で首を横に振った。いや、本当は何か言うつもりだったのだけど、声が出なかった。

 うわどうしようめっちゃ緊張する!

 心臓がこぼれ落ちそうだった。初めてのときよりも、緊張しているんじゃないだろうか。

 相原が僕の肩を掴む。僕の心臓は頭の中にあるのだろうかと思うほど、心音が脳内で反響していてうるさかった。相原の顔が近付いて来て、ぎゅっと眼を固く瞑る。程なくして唇に柔らかい感触がして、息を呑んだ。

「……あの、吉川、大丈夫か? 何かめっちゃ……ガッチガチやねんけど」

 伸びきった僕の腕に手を添えて、相原が心配そうな声を出した。僕は恥ずかしくなって、息を吐く。そのとき初めて、自分が歯を食いしばっていたことに気が付いた。どれだけ固くなっているんだ、と情けなさに頭を抱えたくなる。

「だ、だっ大丈夫!」

 そう言って眼を開けると眉間のすぐ近くに相原の顔があって、ギャーと叫びそうになった。

「ほんまに?」

 相原は小首を傾げる。そんな何気ない仕草にも僕はときめいてしまって、いけない。

「ほっほんまに、やけどっ、ごめん、ちょっと緊張してる……かも……!」

 言いながら、何処がちょっとやねん、と心の中で己にツッコミを入れた。未だかつてないくらいに緊張している癖に。初めてだと言う相原よりも、一応経験のある僕の方がテンパっているなんて、格好悪いことこの上ない。

「うん、おれもめっちゃ緊張してたけど、おれ以上に吉川が緊張してるから、何か気ィ楽になってきたわー」

 何だかデジャヴを感じるやり取りだった。こんなことが、前にもあった気がする。

 いや、うん。相原の緊張をほぐすことが出来たなら、それはそれでOKなんでない? と、僕は無理矢理前向きに考えることにした。



 相原の手が、僕のTシャツをまくり、その中を這う。肌に直接相原の指が触れて、僕は身体を震わせた。ぎこちない動作だけれど相原が触っているんだと思うと、もうそれだけでいきそうになる。

「……っ」

 僕は唇を噛み締めた。声を出して良いものか悩む。男の喘ぎとかどうなん、キモイんとちゃうん、相原引いてまうんちゃうん。頭の中でぐるぐるとそんな考えが巡り、僕は手の甲で口を塞いだ。

「……卑屈なこと考えてる顔や」

「え、あ、いや……」

 指摘されて、僕は微妙な笑いを口に貼り付けた。何で分かったんだろう。卑屈って顔に出るんだろうか。

「卑屈も過ぎると、おれが傷付くねんで」

 相原は眉間にきゅっと皺を寄せ、小さい子を叱るような口調で言った。怒られているのに僕はそんな彼にポワンとなってしまって、「あ……はい、すいません」と、ぼんやりした声で謝った。そしてこれ以降、余計なことを考えるのはやめようと思った。



 相原は僕のジーンズのボタンを外し、下着の上から触れてきた。僕のは完全にたち上がっていてそれが恥ずかしいのと、男のものなんかに触って相原は大丈夫だろうかという危惧が同時に襲ってきた。だけど、あまりのことに相原の表情を窺う余裕もなかった。

  相原の手が探るように下着の中に入って来て、僕は彼の肩を掴んだ。死ぬ、と思った。羞恥と有り得なさと快感で死んでしまう。

「は……はず、い……っ」

 声が裏返ってしまうのを止められない。恥ずかしい。本気で恥ずかしい。だけどそれ以上に気持ち良い。相原が手を上下させる度に足の付け根と背中に電気が走って、脳が痺れてゆく。

「わー……、なんか、すげえ……」

 相原の声が、くぐもって聞こえる。すげえって何、どういう意味で、と思ったが、そんな雑念は相原の手と指の感触にすぐ霧散していった。

「あ……ちょ、無理……っ! も、あかん……!」

 普段よりもずっと早く、僕の限界はやって来た。相原の肩を強く掴むと、彼は、

「え、あ、どうしたらいいんやろ」

 と、戸惑った声をあげた。一回手を離してくれ、と言おうとするも間に合わなくて、身体が大きく震えた。僕は、相原の手の中でいってしまった。

  その瞬間は正に天にも昇るような気持ちだったのだけれど、相原の肩にもたれて呼吸を整える内に頭が冷静になってきて、相原の手を汚してしまった、という罪悪感が数秒遅れてやって来た。

「あ、相原、ごめ……!」

 謝ろうとしたら相原は僕の出したものをしげしげと眺めていて、それにまた死にそうになった。

「ちょ、お前! 何見てんねん! ティッシュ、ティッシュ……!」

「いや、当たり前やけど、人のん見るの初めてやなーとか思って」

 何やねんその牧歌的な感想!

 僕は泣きそうになりながらティッシュを箱から五枚くらい引き出して、相原の手のひらをごしごしと拭いた。

「別にそこまでせんでも」

 と相原は言うが、無視する。

  僕の頭は相当まともでなくなっていて、僕も何かしなければ、相原を気持ち良くさせなければ、とそればかりが頭を支配していた。僕も何か、何かせねば。男として奮起しなくては。

 頭の中でそう繰り返し、何も考えずに相原のジーンズのファスナーを下ろして相原の性器に手を触れる。萎えてたらどうしようと思っていたけれどそんなことはなく、ちゃんと反応していたのでとても安心し、僕はそこに口を近づけた。

「え、ちょ、吉川っ?」

 相原が発した驚きの声に、ハッと我に返った。初めてでいきなり口でするって、もしかして、いやもしかしなくてもやりすぎか? 相原に引かれる?

  しかしここまで顔を近づけた状態で、やめるのはどうなんだ。

  僕の脳裏には、いつだったか、相原にキスしようとするも直前で断念したときのことが浮かんでいた。あれはチキンの象徴、黒歴史だ。あのときのように、寸止めして後悔するよりも、決行して後悔する方がなんぼか男らしいんじゃないだろうか。ああ、駄目だ。よく分からなくなってきた。

 畜生どうとでもなれ、引かれたら引かれたでその時だ。僕は意を決して、相原のに口をつけた。

「うわ……!」

 相原の腰がびくんと跳ねる。僕は半分くらい口に含んで、舌を這わせた。そうしながら、ああこれはやっぱりやりすぎかもしれない、と思ったが、

「吉川、待って! それほんま、やばいから……! すぐいって、まう」

 という相原の声が半分掠れていて非常に色っぽかったので、OKということにして続行する。

  ちなみにこのとき僕は心ここにあらずの状態だったので、相原の声はしっかり聞こえていたが、言葉の内容はよく聞き取れていなかった。だから彼がいきそう、と言っていたのも理解していなくて、突然口の中に熱い迸りを受けて心底びっくりした。咄嗟に顔を離し、グエッホゴオッホ、と激しく咳き込む。

「うわあ! よ、吉川ごめん!」

 相原が謝るのも、自分の咳にかき消されて半分くらいしか聞こえなかった。うわーおれは何て恥ずかしいことを! という気持ちと、あたふたしている相原が可愛いという気持ちがいっぺんにやってきて、なお一層頭の中がぐちゃぐちゃになった。

「あ、ああー……びっくりした……」

 しばらくゲホゲホやって落ち着いてから、僕は呟いた。すると、相原は「いやいや」と手を振った。

「びっくりしたんはこっちやっちゅうねん。吉川お前、えろすぎやわー」

「え、いや、違……!」

 慌てて否定しようとしたが、

「ええやん。気持ち良かったし。めっさあっちゅう間にいってもうたわ」

 と爽やかに微笑まれ、何も言えなくなった。

 いやまあでも、己の尽力で相原がいったというのは素直に嬉しかった。そしてあれだけアグレッシブにことを起こしておきながら、僕はフェラがあまり得意でないことを今更思い出した。なのに、何であんな行動に出たのだろう。混乱しすぎだ。多分相原は、上手いとか下手だとかは分からなかっただろうから、そこに救われた……ような気がする。

「おれもな、ちょっと勉強してきてん」

 にこやかに言って、相原は僕の肩を押した。シーツの感触を背中に感じながら、 「な、何をっ?」と尋ねると、ものすごい答えが返ってきた。

「前立腺とか」

「マジでっ!?」

 僕は思わず、大きな声で聞き返した。予想外だった。まさか相原の口から、そんな単語が飛び出そうとは。

「うん、下手なりに頑張ってみようと思って」

 相原は真剣な顔で、枕元に置いてあったローションの蓋を開ける。透明のドロドロが相原の手に垂れてゆくさまが尋常でなく卑猥で、僕はついついそれを凝視してしまう。

 そして僕はまた、緊張してきた。心臓が暴れるのを止めることが出来ない。うわーあかんわ、めっちゃドキド

「うあっあ、あっ!?」

 急に、指が一気に入って来て、僕の思考は途中で強制終了した。全身が波打って、相原を蹴りそうになってしまう。向こうも驚いたようで、「え、あ、ごめん、まずかった?」と眼を瞬かせた。

「いや……っ、大丈夫、やけど……! お前、初めてやったら、もっと普通……っ、抵抗感とか、戸惑いとか……何か、あるやろ……!」

 何でそんな躊躇ないねん、と言いたかったが、息が続かなくて断念した。声が思い切り裏返ったのが恥ずかしいし、相原の指の感触に身体が震える。

「ああ……そういうもん、かなあ……?」

  相原は言って、探るように指を動かしてくる。彼の指が体内を擦る度に、息が詰まる。

「や、も……相原、前立腺とか、そんな……ええから……っ」

「何かこう、第一関節を……」

「あ……っ、あ、あ」

 ええ、っつってんのに、相原はじりじりと僕を追い詰める。そして彼の指がある一点に到達して、僕は再び相原を蹴りそうになった。

「……っ!」

 声にならない声が、喉から溢れだしてくる。あ、無理、と思った。無理だ。気持ち良すぎて、無理だ。

「あっあ……っ、うあ、あ!」

 僕はアホみたいに声をあげて、シーツを握りつぶした。強制的にせり上がってくる射精感に、涙が浮かんでくる。相原はその箇所ばかりを擦る。無理だ。二本目の指が入ってくる。無理だ!

「うわ。わー……すげえ」

 相原の声を聞く余裕がない。ああ、指が、指が!

「あ……っ! あ、あ……っ、ちょ、も……っ、ほんま、無理……っ!」
 
 ほぼ泣き声と化した叫びを上げると、相原が指を抜いた。その衝撃にも快感が走って、情けない声を出してしまう。

「入れても、いい、っすか」

 相原の多少上擦った声も、腰に響いてたまらない。荒い呼吸をしながら無言で頷いたら、彼は僕の足を持ち上げた。

 やや遠慮がちに、相原が中に入って来る。熱くて苦しくて気持ちが良くて、僕は高い声をあげながら身をよじった。

「あ、あ、あ……っ! あっ!」

 相原と触れ合っている部分が全て燃え上がってしまいそうで、目尻から涙がこぼれた。相原の姿が霞んでよく見えない。

「あ、あいは……ら……っ!」

 僕は泣きながら相原の名前を呼んだ。身体が痺れて、力が入らない。とにかく熱と快感の大洪水が、体内で渦巻いていた。

「あ、無理……っ! 無、理……っ」

「おれも無理、かも……っ」

 熱っぽい相原の声が微かに聞こえて、ああ良かった気持ち良いのはおれだけじゃないんだ、相原もちゃんと気持ち良くなってくれているんだ、と思った。そう思うとこの上なく幸せになって、僕はずっと握りしめていたシーツから手を離して、相原の手を握った。




「……吉川、大丈夫かー?」

 シャワーを浴びて戻ってきた相原が、部屋の入り口から僕に声をかける。

「おーう……」

 シーツにくるまってにうつぶせになった僕は、力なく片手を上げた。相原が笑う気配がする。
 
「全然、大丈夫じゃないっぽいねんけど」

「大丈夫…・・。今やったら死んでも良いって勢い」

「何でやねん、アホか」  

 正直に本音を述べたら、笑いながら頭を軽くはたかれた。頭をさすりながら顔を動かして相原の方に視線をやると、腰にタオルを巻いた相原が目に入った。つい先程まで、この爽やかな男と抱き合っていたんだということが信じられなくて、僕はまた恥ずかしくなってきた。

「阪神の日本一も見ずに、死んだらあかんやろ」

 相原は言って、ベッドに腰掛けた。その重みで、足下が僅かに沈む。相原からは、石鹸の良い香りがした。

「ああ、そっか。ほんまや。日本一の胴上げを見んとあかんかった」

「今年はあかんもんなあ。九月に入って、また連敗してるし。来年に期待やな」

 溜め息をついて、相原は首を横に振る。そして、天井に向かってこう呼びかけた。

「今岡、帰ってこーい」

 僕も便乗して、「井川、帰ってこーい」と声をあげた。そしてそれから僕たちは、明け方までひたすら野球の話で盛り上がった。


 相原との初めてのセックスは、死ぬほど気持ちが良かった。

 だけど、相原との初めてのピロートークは、死ぬほど色気がなかった。

 まあ、僕らはこんな感じで良いか。