■きらめかない、ときめかない 08■


「な……っ、何……、何で……っ」

 言葉にならないメグリに、俺は小さく「岩田からの漏洩」と言った。

「あの、野郎……!」

 メグリは拳を震わせ、声を絞り出した。目が本気で怒っている。彼が、こんな風に怒るところを見るのは初めてかもしれない。そういえば昨日まで、メグリといえば仕事をしているときの顔と笑っている顔しかほとんど見たことがなかった。

「だからさあ、ほんともう、勘弁してくれよ。全部伝聞だぜ。お前から何一つ肝心なこと聞いてないのに、人づてでどんどん話だけ入ってくんの。それも何処までが本当か分かんねえし」

「…………」

 メグリが何も言わないので、俺は話を続ける。喋っている内に言いたいことが止まらなくなってきて、頭で考えるよりも先に言葉がぽんぽんと口から飛び出してゆく。

「何だよ、一方的に振られた気になりやがって。ああもう、また腹立って来た。そんなもん、俺だって振られたっつうの。リアルでは佐々木さんに振られて、夢ん中ではメグリに振られてさあ! 俺、どんだけ振られてんのって感じじゃん」

「え?」

「昨日なんか、お前すげえ怖かったし。焼きそばに醤油バッシャバシャかけながら別れ話とかさあ。ていうか何で焼きそばに醤油? 何でソースじゃねえの? 昨日のお前、本気怖かったぞ。何処のサイコホラー……だ、っつう……」

 本気怖かったぞ、の辺りで俺は、また自分が夢と現実をごちゃ混ぜにしていることに気が付いた。自然、その後のボリュームがどんどん小さくなる。

 やばい、と思った。似たような夢を何度も見ていたし、昨日のは殊更インパクトが大きかったから、強烈に印象に残っていた。だけど、流石にこれは駄目だろう。

「も……もっさん、俺に振られた? とか? あの、何の話……」

 メグリが、泣き出しそうなのか笑い出しそうなのかよく分からない顔で、俺に尋ねる。瞬時に顔が熱くなった。恐らく、今の俺はメグリと同じくらい赤い顔をしているのだろう。そして、凄まじい勢いで羞恥といたたまれなさが全身に襲いかかってきた。

 俺は衝動的に立ち上がり、その場から逃げ出すべく全速力で走り出した。ちょこちょこと遊ぶ子どもたちを蹴らないようにしながら、公園を飛び出す。 いや違う逃げているのではない戦略的撤退だ、などとどうでも良い言い訳を胸の中で並べ立てつつ俺は必死で走った。不誠実、という単語が頭をかすめたが知ったことではない。恥ずかしい。とかく恥ずかしくてたまらなかった。

「もっさん、待って!」

 俺は悲鳴をあげそうになった。こともあろうに、メグリが追い掛けて来ているではないか。

「うわ来んな! 追い掛けてくんな!」

 速度はけして緩めず、俺はメグリを振り返りつつ叫んだ。すると、彼からも大声が返って来る。

「嫌だよ! だって気になるじゃん!」

 ちくしょう、と叫びたかった。どうしてこんなことになったんだ。

 しかも、メグリはぐんぐんと距離を詰めてくる。俺だって決して鈍足ではないつもりだったが、何せ社会人になってから全速力で走る機会なんて、遅刻しそうなとき以外ではそう訪れるものではない。対して、向こうは高校生で現役である。勝てるはずがない。 そしてメグリは、そういったハンデを抜きにしても素晴らしく足が速かった。俺は、公園を出ていくらも走らない内に、あっさり捕まってしまった。

「……なん……おま……はや……」

 大した距離を走ったわけでもないのに、俺は既に息があがっていた。ふくらはぎが重い。胸が苦しい。普段怠けているツケが、こんなところでやって来るとは。

 対して、メグリは平然としていた。いくら彼の方が若いとは言え、ここまで差をつけられると悔しい。というか、何でこんなに早いんだ。

「……あー、そういえばお前、走るの得意なんだっけ……」

 以前、メグリとの会話でそんなことを聞いた。それを思い出しつつ呟くと、メグリは目を瞬かせて「……そんなん、覚えてくれてたんだ」と、何故か感慨深そうに言った。

「で、もっさん、さっきの話……何?」

 メグリの追求に、俺は顔をそむけて咳き込んだ。疲労の影に隠れていた羞恥が、またも胸の中で大きく膨らんでゆく。

「いや……だからさ……」

 俺はどうにか誤魔化せないかと、言葉を探した。先程まで俺の視線から逃げるようにしていたメグリが、じっとこちらを見つめている。今度は俺が、メグリの視線から逃げる番だった。そんな、期待に満ちた目で見るのはやめて欲しい。

「……だからさ、振られた気になる前に、告白しろってことを言いたいんだよ、俺は!」

 俺は話題をそらそうと、全く別のことを言った。するとメグリはきょとんとして、こう言った。

「告白……して良い、の?」

 そのひとことに、俺は首をかしげた。

「あ? 良いとか悪いとか言う問題じゃねえだろ。お前がどうしたいかっつう問題で」

「藤本さん!」

 突然メグリが声を大きくしたので、俺はのけぞりそうになった。しかも、普段は渾名で呼ぶ癖に本名で呼ばれた。一瞬、何事かと思った。

「うお、何だびっくりした」

「好きです、藤本さん。好きです。好きです。何かもう訳分かんないくらい、藤本さんのことが好きです」

 メグリは時折声を掠らせながら、ほぼ一息で言った。俺は喉が詰まったようになって、声が全く出なくなった。 何だこれは。思いの外めちゃくちゃ恥ずかしい。 好きです、と直球で伝えられるのも本名で呼ばれるのも、全てが恥ずかしくてどうにかなりそうだった。心臓が、物凄い勢いで震え始める。

「藤本さんが好きだ。好きです。好きです。好きです。好きです。すげえ、すげえ、ほんとに好き」

 メグリは、好きです、と言わないと死んでしまうんじゃないかと思うくらい、同じことを繰り返した。俺は、一回その言葉を言われるたびに死にそうになった。

「わ……っ、分かったから、そんな、何回も言わなくても」

 何十回目かの「好きです」を聞いたところで、やっと声が出た。するとメグリは喘ぐように息を吐き出して、何回か咳き込んだ。それから切羽詰まった表情で俺の腕をつかみ、こちらの目をまっすぐに見る。

 物凄い目だった。感情の塊である。それはまるで鋭い矢のように俺を貫く。ああ、だからこいつと目を合わせたくなかったんだ、と思った。

「だって」

 そこまで言って、メグリは涙を呑み込むように喉を大きく動かした。

「だって、絶対言えるわけないと思ってたから……!」

 メグリの苦悩や辛さが全部噴き出したみたいなその言葉に、俺は口を閉じて沈黙した。

「もっさん、好きです」

「……分かったって」

 何十回言われても、こそばゆいのは変わらない。よく考えたら、こんな風にストレートかつ情熱的に想いを伝えられたことは初めてかもしれない。俺はいつも、女性と付き合うときも別れるときも、なんとなく流れで、とかそんな調子だった気がする。だけど泣きはらした目をしたこの男は、馬鹿みたいに好きですと繰り返す。

「好きです、もっさん。俺と付き合って下さい。お願いします。好きです。好きだ」

 俺の胸の中に、小さな波が立った。この気持ちは一体何だろう。痒いような痛いような心地よいような、それでいて敗北感にも似たこの不思議な疼きは何という名の感情なのだろう。

「……良いよ」

 俺は下を向いて、そう答えた。なんというかもう、そう言うしかない気がした。「好きです」と言われすぎて、俺の頭はもうメグリの「好きです」で一杯になっていた。それ以外は見当たらない。だったらもう、頷くしかないじゃないか。

「……ほんとに?」

 情けないほどに震える声でメグリが聞き返すので、俺は少し笑って首を縦に振った。

「おお」

「…………っ!」

 メグリは言葉を詰まらせて、俺に抱きついてきた。突然のことで一瞬息が止まりそうになったが、あまりにメグリの手が冷たくて震えているので、好きにさせてやることにした。

 藤本さん好きです好きです、とメグリは相変わらずそればかりを繰り返していた。俺はそろそろゲシュタルト崩壊を起こしそうだったが、そんなメグリも、まあ、可愛い……ような気もしないでもないから良いか、と思った。










「もっさん好きです。手、繋いでも良い?」

 ふたり並んであてもなくぶらぶら歩いていると、メグリがそんなことを言い出した。こちらの返事も聞かずに手に触れようとするので、俺はメグリの手を軽く叩いた。

「アホか。往来だぞ」

「じゃあ、チューしても良いですか」

「却下する」

 懲りないメグリに、俺はきっぱりと断る。嬉しいのは分かるが、舞い上がりすぎだ。まったくこれだから、ガキは困る。

「もっさん、さっきの話だけど、俺に振られる夢見たの?」

 メグリが唐突に先程の話を蒸し返したので、俺は盛大に咳き込んだ。

「そ、その話は、もう良いだろ」

「てことはもっさんて、俺のこと好きだったの?」

 えらいことを言い出すメグリに、俺は目を見開いた。何を言っているんだろう、こいつは。

「ば……っ、お前が、俺に惚れてんだろうが」

 若干慌てつつそう言ったら、メグリは幸福そうに微笑んで「それはそうだけど」と答えた。それから目を細めて笑みを深くして、続ける。

「ねえ、もっさん。夢の中の俺ってどんなだった? もっさんとチューしたりしてた? やらしいことしたりした?」

 その言葉で、夢で見た色んなあれこれが一気に脳裏に蘇って、俺はまたこの場から逃げ出したくなった。

「ああもう、うっさいな……!」

 一発引っぱたいてやろうかとメグリの方に身体を向けると、彼は俺の胸元をわしづかみ、こちらが抵抗する間も与えずに素早く唇を合わせて来た。

 あ、夢よりやわらかい。

 真っ先にそんなことを考えてしまって、頭の中が信じられないくらいに熱くなった。

 俺は力任せにメグリの身体を引きはがし、その脳天に思い切りチョップを喰らわせた。

「いって!」

 メグリは嬉しそうに叫んだ。つい先程まで死にそうな顔をしていたのに、今ではもうつやつやしていた。俺は今も死にそうなのに。何だか釈然としない。俺は拳を震わせながら、声を荒げた。

「メグリお前なあ! 俺の話聞いてたかっ? 大体こんな店の近くで、誰かに見られでもしたら……」

「あ、ごめんなさい、見ちゃいました」

 すぐ間近でそんな声がしたので、俺は心臓が弾け飛びそうになった。見られた? 見られただと? しかも今のは、俺の知っている声だった。

 俺は、恐る恐る声のした方を見た。

 佐々木さんだった。

 ラフな格好で、買い物袋を両手に持っている。そういえば、彼女はこの辺に住んでいると言っていたっけ。最悪だ。最悪である。

「な……っ、さ……っ!」

 あまりの衝撃に、言葉が出て来ない。佐々木さんは口を開けて、「あらあらあらあら」と声を漏らす。そして俺とメグリを順に見て、こんなことを言った。

「メグリくんて、こう見えて実は巨乳なの?」

「ちっがうっ!!」

 俺の全力の叫びは、青空に吸い込まれて消えた。メグリがひとごとのように笑っている。俺は本当に、心から、死にたくなった。