■きみが涙を流すなら 39■
翌日。僕は梅田にやって来た。
暑い。そして熱い。何といっても夏休みである。僕と同じ年頃の若者が、そこら中に溢れ返っている。凄まじい人いきれだ。若者たちとすれ違うサラリーマンやOLが、皆一様に舌打ちを噛み殺したような表情をしている。
額の汗を手の甲で拭い、地下街に潜った。阪神百貨店の、クラブハリエ前の行列を横目に見ながらてくてく歩き、地下鉄乗り場に面した百貨店入り口の方に回る。この辺りで、相原と待ち合わせの約束をしているのである。
ジーンズのポケットから携帯を取り出して、時間を確認する。十三時五十分。約束は十四時なので、少し早く着いてしまった。付近を少しうろうろしてみるが、相原の姿は見えない。
僕はその辺の柱にもたれかかって、相原を待つことにした。Tシャツの背中越しに柱のひんやり感が伝わってくる。
今日は一体、どうなるんだろう。
下腹の辺りが、そわそわするのを感じた。今までそうでもなかったのに、ここに来て急に緊張してきた。部外者の僕が緊張してどうするんだ、と思うけれど、やっぱりドキドキしてしまう。
こんな大事な話し合いの場面に同席するなんて、正直恐ろしい。だけど、相原が僕を信頼してこの場に呼んでくれたことは、めちゃくちゃ嬉しい。頑張ろう。何を頑張ったらいいのか、イマイチよく分からないけれど、頑張ろう。
相原は、自分がキレたら止めてくれと言っていたけれど、僕に彼を止めることなんで出来るんだろうか。このヘタレな僕に。
いや、いや。頑張ろう。頑張るぞ。ほんまに、何を頑張ったらええんかよく分からんけど。
「わ、吉川、早かってんなあ」
「相原!」
約束の五分前に、相原はやって来た。彼の姿が視界に入った瞬間、僕はほっとして息を吐いた。そのとき初めて、両肩に変な力が入っていたことに気付く。こんなことじゃ駄目だ。もっとリラックスしないと。
「いやー、今日はありがとうな。変なこと頼んじゃって、ごめんなあ」
そう言う彼は、いつもと全く変わらない様子だった。僕の方が、よっぽどテンパっているようだ。
「そんなん全然、ええねんで。ええねんけど……」
「ん? どしたん?」
「何かおれ、めっちゃ緊張しててさ……!」
僕はTシャツの胸を掴んで、大きく深呼吸した。口に出したら緊張がほぐれないか、と思ったけれど逆効果だったようで、余計に緊張してきた。胃の辺りがどんどん冷たくなる。そんな僕を見て、相原が声をあげて笑う。
「あはは、おれもおれも!」
「えっ、マジで? でもお前、めっちゃ余裕っぽいやん」
「そんなことないって。何気にめっちゃテンパってるよ。ほら、手なんか震えてるし」
そう言って相原は、右手を僕の目の高さに掲げて見せた。しかし、パッと見ただけでは震えているのかどうか分からなくて、僕は「震えてるかあ?」と首を捻った。
「震えてるって。ほら」
彼は何を思ったのか、両手で僕の手をギュッと握った。僕は悲鳴をあげそうになった。相原はすぐに手を離し、「な?」と無邪気な顔をして聞いてくる。僕は手を握られたことが衝撃で、彼が震えていたかどうかなんて、意識する余裕もなかった。
「お、おまえ、こ……こんな人前で……!」
なんちゅうことすんねん、と小声で訴えると、彼は一瞬「は?」というような顔をした。しかしすぐに僕の言わんとしたことを理解したようで、
「ええー、気にしすぎやって。ていうかあれくらいやったら、普通に友達同士でもやらん?」
至極軽い口調で、そんなことをのたまった。
このドノンケめ! 同性と付き合う場合、女と付き合うより何倍も気を遣わないといけない、っておかんに言われたんと違うんか! そう言いたいのをぐっと飲み込んだ。
……いや、あれくらいならセーフ、か? 同じクラスの男子たちだって、普通に肩を抱いたりしてたりするし。もしかしたら本当に、僕が考えすぎなだけなのかも。いや、でも……。
「そんじゃ吉川、行こっか」
「あ、う、うん」
相原が歩き出したので、僕は考えを中断させた。それについては、また時間があるときにじっくり考えよう。
僕たちは並んで、地下街を歩いた。人がとにかく多くて、さっきからすれ違う人と肩がゴンゴンぶつかる。
隣の相原を、横目でちらりと見た。いつもより、歩くペースが速い気がする。それに、さっきから無言だ。僕は、ああやっぱりこいつもテンパってんねや、と思った。少し安心したのと同時に、また緊張が喉元にこみ上げてきた。
「そんで相原、今からどうすんの? どっかで浩一さんと待ち合わせしてんの」
ずっと黙っているのが息苦しくて、僕は相原に尋ねた。相原は、前を見たまま答える。
「兄貴のバイトがもうすぐ終わるみたいやから、とりあえずバイト先まで行くわ。そんで、どっか適当なとこで話しよっかな、と思って」
「そっか……。で、どんな感じで、切り出すん」
相原の中では、どういう計画になっているのだろう。そう思って、僕は恐る恐る、尋ねてみた。すると彼はこちらを向いて、とんでもないことを言った。
「あー、全然考えてないなあ」
「は、い?」
「そういえばそうやんな。あー、どうしよっか。どういう風に話したらいいと思う?」
冗談を言っている顔ではなかった。無意識に、口から「え、えええっ」と声が出る。
「それ、今おれに聞くんっ? 兄貴と話をする、って決めた時点で、そういう細かいことも決めとくもんなんちゃうん!」
「ほんまやなあ。何も考えずに来てもうたわ」
相原は恥ずかしそうに笑う。
忘れてた。相原はしっかりしているように見えるけれど、天然なんだった。いや、これは天然というよりは……。
「あ、あの、相原……。相原ってもしかしてさあ……」
「うん?」
「相原って基本、ノープラン……?」
「ああ、うん、そうかも」
神よ!!
朗らかに頷く相原に、僕は頭を抱えたくなった。
そういえば僕はしょっちゅう相原と遊んでいるけれど、明確な約束を交わしたことはほとんどない。大抵、相原がふらっと僕ん家に来て、それから出掛けるか家でのんびりするか決める、というパターンだ。事前に計画して出掛けたことなんて、甲子園に野球を見に行ったことくらいじゃないか。それに、そうだ。よく考えたら、こいつが僕と付き合うことになったときも、その場で決めた感じだった。
「お、お前っ! 今になってやめるとか言うなよ! 前言撤回とか受け付けへんからな!」
急に巨大な不安に駆られて、僕は相原に食ってかかった。いきなり声を荒げる僕に彼は面食らったようだった。
「な、なんやなんや。どうしてん吉川。いや、やめへんよ。ちゃんと今日は話するって決めてんもん」
いや、それもやけど、おれのことも! ……なんてことは、流石に往来では言えなくて、僕は空気を噛み締めた。
「それにおれ、ノープランやけど、自分の行動に後悔したことは無いねんで」
そう言って表情を引き締める相原に、僕はついうっかりホワンとなってしまう。なんてかっこいいんだ、こいつは。
駄目だ。やっぱり僕はどうやったって、相原には敵わない。
ドノンケ、天然、ノープラン。
これはある意味、不倫よりも危険な爆弾なんじゃないだろうか。……今更ながら、やばい男に惚れてしまった気がする。
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