■きみが涙を流すなら 01■
ふられた。完膚なきまでに、ふられた。
僕、吉川四郎は、全身まとわりつく熱気と人々の笑い声を振り払うように、大股で梅田の街を歩いた。
周囲にいる幸せそうなカップルを視界に入れないよう、下を向いて足を動かす。
絵に描いたような失恋だった。自分のことながら笑ってしまう。
相手は、妻子持ちの社会人。
こちらは、若さ以外は特に何も持っていない、男子高校生。
彼は、去年まで僕がバイトしていた喫茶店の常連だった。
最初に誘ってきたのは、向こうだ。
僕はもともとそういう趣味の人間で、彼……小林は男前で正直好みのタイプだったから、何も考えずにその誘いに飛びついた。
同性愛で不倫だなんて、不毛なことこの上ない。
それは分かっていた。
だけど僕は大人の男との恋に舞い上がっていて、そのことについては意識の奥に追いやって蓋をしてしまった。
そしてそのまま気がつけば、一年が過ぎていた。
僕は愚かだ。本当に、愚かだ。
「嫁に二人目の子が出来たから、別れよう」
彼は唐突に、全く何の前触れもなく、そんなことをのたまった。
しかもホテルのベッドの上で、ことが済んでからだ。最低としか言いようがない。
「えっ」
あまりにも藪から棒だったので、咄嗟に言葉が出て来なかった。
嫁ってあれか、面白みがない女で別れたいっていつも言ってた、あの嫁か。
その嫁さんに、二人目の子供ができた。で、別れようって。
てことは、ええと、あれっ?
「おれのことは、遊びやったってこと?」
こんな陳腐な台詞を、まさか自分が言う羽目になるなんて、想像もしかなかった。
僕の言葉に、相手は黙った。何処までも卑怯な男だ。
ほんの数分前までは熱っぽかった体が、するすると冷えていくのを感じた。
小林は僕から背を向けて、ベッドの縁に腰掛けている。
その背中には、僕が先ほどつけた爪痕が残っている。
戯れに爪を立てただけだから、すぐに消えてしまうだろう。
もっと全力で引っかいてやれば良かっただろうか。ぼんやりと、そんなことを思った。
きっちり五分待ったが、返事は返ってこなかった。
僕は、床に散らばった服を拾い上げた。なるべくゆっくりと、服を身に着ける。
その間も、小林の背中は動かなかった。薄暗い室内に、衣擦れの音だけが響く。
おいこら、何か言えや。おれに言わんとあかんこと、いっぱいあるんと違うんか。
がっしりとした後姿に向かって、心の中でそう言った。
あの短い言葉だけで、僕たちの関係を終わらせようと、本気で考えているのだろうか。
ジーンズを履いて、ベルトを締めた。
このベルトは、今年の誕生日に小林がくれたものだった。のろのろと、Tシャツを拾い上げる。
これを着れば、着替えは終了する。
言い訳でも謝罪でも何でもいいから、とにかく何か言えや。
Tシャツを頭からかぶり、袖を通す。裾を下ろして、着替え完了。タイムオーバーだ。
「グッバイ、ダーリン」
吐き捨てて、ホテルの部屋を後にした。
クソ野郎め、一発殴ってやれば良かった。
……そう思う反面、悪いのは相手だけではない、ということも重々承知していた。
彼が家庭持ちだということは、付き合う前から知っていた。なのに、一年間ズルズルと関係を続けてきた、僕だって相当悪質だ。
奥さんに刺されたって、文句は言えない。
だけどしょうがないじゃないか。それでも好きだったんだから。
夜の梅田は、恐ろしく人が多い。
おまけに今は六月の梅雨真っ盛り。湿度の高さが半端ではない。
何分も歩かない内に、首筋と額がじっとりと汗ばんできた。
周囲から笑い声が聞こえてくるのが、信じられない。こんなに鬱陶しい気候なのに、どうして皆笑っていられるんだ。
……たかが失恋。そう、たかだか失恋だ。
僕はまだ十七歳だ。未来がある。
たった一年間の恋愛が終了したからといって、何だっていうんだ。ただでさえ、男は余ってるんだから。
まだまだ出会いは、星の数ほど転がってるはずだ。
そこまで考えたところで、今まで麻痺したように固まっていた胸が突然震えだした。
こめかみがギュッと締め付けられて、喉奥から何かがせり上がってくる。
うわっ何やこれ。急に来た!
失恋なんて大したことないはずなのに、鼻と目頭が熱くなってくる。胸が重い。足が思うように動かない。
嘘だ。 こんなことで塩分を消費するなんて、冗談じゃない!
しかし、気がつけば僕は道の端でうずくまっていた。最悪だ。人通りの多い時間帯に、迷惑なことこの上ない。
なんだか、頭の中がぐるぐるしてきた。
彼と過ごした一年間の思い出が、ここぞとばかりに押し寄せてきた。しかも、楽しいことばかり。
そうなると、僕は涙を我慢することができない。最悪だ。最悪すぎる。
「……大丈夫? 具合悪いん?」
突然、誰かに肩を叩かれた。若い男の声だった。
優しい声が、僕の心臓をわし掴む。
単純な僕は、こんな自分に優しい言葉をかけてくれる人がいるということに、いたく感動してしまった。
何処の誰かは知らないが、何て良い人なんだろう。
「なあ、ほんま。救急車呼ぼか?」
ああ、いよいよ良い人だ。
道端でうずくまってる男なんて、不審者以外の何者でもないのに、この人はこんなにも優しい言葉をかけてくれる。
小林は、僕に何も言わなかった。別れよう、としか言わなかった。
……決めた。おれはもう、この人と結婚する。それしかない。
僕の脳みそは、あらぬ方向へと疾走し始めていた。自分でもわけが分からないが、止まらない。
失恋直後の優しい言葉は、どんな薬よりも傷口に染み渡るのである。
「けっ」
こんしてください、と言うつもりで顔を上げて、僕は一瞬固まってしまった。
目の前にいたのは、長身ですっきりとした短髪に、いかにも爽やかな嫌味のない男前だった。
僕はこの人を知っている。
名前は相原誠。僕のクラスメイトだ。
「……あ、相原?」
僕の未来の旦那(と一方的に決めた相手)がクラスメイトだった……。
結婚してくださいとか言わなくて良かったとか、なんつうかっこ悪い場面を見られたんやとか、どうやって言い訳しようとか、
何でこいつこんなとこにおんねんとか、うわっ気まずっ特に仲良くもないのにとか、色んなことが頭の中を駆け回った。
「あれっ、吉川やんか」
相原は戸惑ったように、丸い目をせわしなく瞬かさせた。
どないしょう、と思っているのだろう。僕も、全く同じ思いだ。
ああどうしようなんて言おう……と思っていたら、相原が照れくさそうに笑って、こう言った。
「……良かったら、どっかで座らへん?」
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