■ラブ■
ラブ。Love。愛。恋愛。
ラブとは何かと問うたとき、ある者は至上の幸福だと言い、ある者は麻薬のようだと言い、ある者は病気だと言う。
これは私が高校生の頃、ほんの少しだけラブに触れたときの話だ。
私はとかく人の気持ちを推し量るのがすごくすごくすごく苦手で、昔から何かと失敗してばかりだった。
宮本百花、十六歳と三ヶ月。私は絶望的に空気が読めない女だった。アイコンタクトが受け取れない。言葉と言葉の行間が読めない。表情から、相手の考えていることを察知することが出来ない。というか、皆がどうしてそんなことが出来るのか、それが不思議でならなかった。口で言ってくれなきゃ分からない。察しろとか言われても分からない。
だけどそんな私にも、つい最近になってようやく、何を考えているのかが分かる人物が一人だけ出来た。それはクラスメイトの小野真人。ポーカーフェイスで有名な男だ。
何故か、彼の考えていることだけはよく分かる。ちょっと体調が悪いときだとか、苛々しているときだとか、機嫌の良いときなんかが、手に取るように分かるのだ。何故かは自分でも分からない。どうして、よりにもよって常に無表情な小野の考えていることだけが分かるのかも不明だ。ちなみに、私と小野は特に仲が良いわけでもないし、言葉を交わした回数だって片手で足りるくらいだ。なのに何故? それがとても謎だ。
「好きなんじゃないの?」
鏡で睫毛の上がりっぷりを入念にチェックしながら、友人が言った。
「好きって……ラブって意味で?」
私は首を傾げた。ラブ。これがラブなのか。胸に手を当ててみた。しかしキュンともドキンとも鳴らない。
「そう、ラブ。だって、小野が気になるってことでしょ?」
「気になるって訳じゃないの。何故か、あいつの表情だけは読めるのよ」
「あいつの表情が読めるって、相当だと思うよ。あたしには、全然分かんない。ていうか多分、誰にも分かんないよ」
「あのね、ポイントは瞼の端よ。瞼の端がこうなったら、嬉しいのサインなの」
自分の瞼に指を当てて実演しようとしたら、「分かんねえって」と笑われた。コツを覚えたら簡単なのに。
「それじゃあ今、小野は何考えてる?」
友人は鏡を持ったまま、顎で小野の席を示した。小野は机に肘をついて、シルバーの携帯電話をいじっていた。私は小野の横顔をじっと見つめた。彼は少し目を細めて、携帯のディスプレイに視線を注いでいる。口は真一文字。いつもの表情……に見えるけど、少し違う。どう違うと聞かれたら上手くは説明出来ないけれど、違う。
「何か機嫌悪いみたい」
「マジでえ? ほんとに分かんの?」
「うん、だってほら、瞼の端が」
「もうそれは良いっつうの。とにかくさ、ラブなんでしょ?」
友人は結論を急ぐ。彼女はどうしても、私がラブに目覚めたことにしたいようだ。私としては、もう少し小野の瞼の端トークを聞いて欲しかった。
「だって、モモが人を観察しようって思うこと自体が珍しいじゃん。常に自分の時間のみを生きてるのに」
友人は楽しそうに、身を乗り出してくる。随分な物言いのように思えたけれど、否定出来ない自分が情けない。
「たまたま小野が目に入ったのよ」
「たまたま、って思い込んでるだけで、ラブなんだって」
「ラブかなあ?」
どうしても、腑に落ちなかった。
だって私は知っている。小野真人は恋をしている。誰も気付いていないみたいだけれど、私には分かる。ポーカーフェイスで無口でクールな小野真人はラブの虜。
瞼の端から察するに、相手は恐らく同じクラスの根元圭。こちらはイケメンで社交的で、小野との共通点は見当たらない。
ふたりが付き合っているのかそうでないのかは不明だけれど、多分付き合ってるんじゃないかなと思う。何故かは分からないけれど、片想いのようには見えないのだ。
小野には男の恋人がいる。いくら私が空気の読めない女でも、そんな男にわざわざ惚れたりしない。多分。そのはず。
ところで小野の恋人(推定)である根元は、私や小野とは違って友達が多くて、いつも誰かと一緒にいる。男子とも女子とも仲良くしている、実にユーティリティな男だ。わたしも何度か、まるで親友に対するような態度で話しかけられて、大層戸惑ったことがある。彼には、心の垣根が存在しないように見えた。いつだってオープン。瞼の端でしか物事を語らない小野とは正反対の存在だ。
だけどそういえば、根元が小野に話しかけているところは見たことがない。根元はクラスの誰とでも親しげに接するけれど、小野には声をかけないし小野も根元に話しかけたりしない。というかそもそも、小野は基本的に誰とも話さない。
私はある日の放課後、男子生徒と談笑する根元の横顔、特に瞼の端に注目してみた。軽快に瞬く大きな眼。そこからは何も読み取れない。やっぱり私は、小野のことしか分からないらしい。
意識はしていなかったけれど随分と不躾に根元の顔を注視してしまっていたらしく、彼の顔がこちらを向いた。
「宮本さん、なーに?」
屈託のない、良い笑顔。こんな笑顔を、小野にも向けるのかしらと思うけれど、いまいちピンと来ない。それくらい、接点のないふたりだった。
ふたりを観察している内に、一日に一度か二度、彼らが視線を交わす瞬間があることに気が付いた。会話をするでも笑い合うわけでもなく、ほんの一瞬だけ視線を絡ませる。その直後には小野は窓の外を眺めているし、根元は男子たちと今週のジャンプの話題に戻る。だけど必ず毎日、彼らはお互いの眼を見る。
その時の、小野の瞼の端と言ったら! 幸福感でいっぱいで、見ているこちらが恥ずかしくなってくるくらいだ。これで私は、小野と根元が恋人同士であることを確信した。勿論、それは私だけが分かることであって、端から見たら小野はいつだって完璧な無表情なのだけれど。
小野と根元のラブを目の当たりにし、どう? 傷付いた? と、自分の胸に問うてみる。ズキンともドクンとも来ない。やっぱり私の気持ちは、ラブではない気がする。
だけど、小野が幸せそうだったのは、せいぜい三ヶ月かそこらだった。いつしか根元と視線を交わすのが一日おきになり、三、四日に一回になり、週に一回になった。根元の様子は変わらないように見えたけれど、小野の瞼は日に日に硬くなる。私は人ごとながら、ハラハラしていた。
「モモ、何か悩みでもあんの?」
放課後、校門をくぐりながら友人が言った。私はその言葉に大層驚いた。
「凄い。何で分かったの」
本気で感心すると、友人は心底呆れたように息を吐く。
「あのね、そんだけ朝からずっと難しい顔してたら、誰だって分かるよ。それで分かんないのは、モモくらいだって。……それで、どうしたの? 話くらい聞くよ」
「うーん……」
友人の好意は嬉しいけれど果たして話して良いものか、と考えていると、友人の携帯が鳴った。彼女は「あ、ごめん!」とすまなそうな顔をして、電話を耳に当てた。
「もしもし。何? 今友達と大事な話してるとこなんだけど」
友人の声を耳の端で聞きながら、手持ち無沙汰なので自分も携帯を出そうと鞄を探る。が、見当たらなかった。おかしい。記憶を巻き戻し、そういえば昼休みに一度机の中に携帯を入れたことを思い出す。そのままにして出て来てしまったらしい。
「ごめんね、モモ。すぐ終わるから」
友人は受話器から一旦顔を離して、私にそう言った。
「あ、ううん。ちょっと忘れ物したから、取りに行って来る。その間、喋ってて」
私はそう言い置いて、校舎に戻ることにした。
今は試験前なので活動している部活もなく、校内はとても静かだった。私はその静寂を無遠慮に破壊し、ドタドタと足音を立てながら階段を一段飛ばしで駆け上がる。明かり取りの窓から、夕陽が差し込んで眩しい。どうして私の教室は四階にあるんだろう。舌打ちをこらえながら四階まで上がり、廊下に足を踏み出したところで誰かとぶつかりそうになった。頭で考えるよりも早く足にブレーキがかかり、どうにか衝突はまぬがれた。
「あ、宮本さんだ」
ぶつかりそうになった相手は、根元だった。辺りに連れは見当たらず、珍しく一人のようだ。
「どうしたの。何でそんな急いでんの」
すごいゼエゼエ言ってんじゃん、と、根元は笑った。そういう風に、小野にもちゃんと笑ってる? と聞きたくなるが我慢する。
「忘れ物したの。友達が下で待ってるから、早く行かないと」
「ああ……」
根元は小さな声で呟いて、教室のある方をちらりと見やった。それからこちらに向き直り、笑顔で「そっか、頑張ってね」と手を振った。私は、うん、と頷いて再び走り出した。
目的地のすぐ近くまで来たところで、教室の扉が開いた。そして中から、鞄を持った小野が出て来た。
ここで初めて私は、ああ根元と彼は二人で会っていたんだと理解した。小野はいつも制服をきっちりと着込んでいるのに、このときはシャツのボタンをふたつ外していて、ネクタイも結んでいなかった。
こちらを見ようともせず、小野は私の側を通り過ぎて行く。そのとき目に入った小野はいつも通りの無表情だったけれど、夕陽の光が染みこんで金色になった彼の瞼を見た瞬間、私の心はざわついた。
「小野!」
気が付けば、彼を呼び止めていた。怪訝そうに、小野が振り向く。私を見て、こいつが一体自分に何の用があるんだ、という顔をした。そして抑揚の乏しい声で、「何だよ」と言う。
「根元と別れたの?」
ついつい言ってしまった。ああ、また場の空気が読めてない上に、驚く程の無神経さだ。こういうとき、自分が本当に嫌になる。しかし、後悔したってもう遅い。
「……誰に聞いた」
押し殺した声に気圧されて、私は一歩後ろに下がった。
「ご、ごめん。こんなこと言うつもりなかったのに」
私は首を横に振った。本当に、こんなこと言うつもりはなかったのに。小野と根元の関係を知っていると、明かす気など全くなかったのに。
「おれと根元が話してるのを、聞いてた?」
「ううん。根元とは、さっき階段のとこですれ違った」
「そのときに、あいつが言ったのか」
わたしはもう一度、今度は強く首を横に振った。
「根元は何も言ってない」
「じゃあ、どうやって」
「 きみの」
金色の光が小野の目を照らして、初めて私は彼が意外と黒目がちだったことを知る。瞼の端はよく見ていたけれど、瞳本体はあんまり見ていなかった。
「瞼の端から」
「は?」
小野が眉を寄せ、口を歪めた。そこで初めて、彼の眉毛が直線であることを知る。彼の唇が薄いことを知る。
私たちはしばらくの間、黙ってお互いの顔を見た。そういえば、こんなにしっかりと小野の顔を正面から見据えるのも初めてだ。
「……まあ、何でもいいや」
小野は笑った。確かに笑った。
諦めたような、けだるそうなその笑みに、私の頬は痺れた。それは彼が初めて、瞼の端以外の部位で感情を表した瞬間だった。このときばかりは、目元を見ずとも小野の気持ちを理解することが出来た。
「お察しのとおり、別れたよ。というか、ふられた」
自嘲的な口調で言って、小野は私の横をすり抜けて行った。ふられた、という言葉が耳と頭に残る。そして小野が根元とこっそり視線を交わす瞬間の、あの甘やかな瞼を思い返した。
私はしばし、その場で立ち尽くしていた。小野の背中が遠くなる。こがね色の光が、愚かな私に降り注ぐ。
その後しばらくして友人から、可愛くて有名な隣のクラスのナントカさんと根元が付き合い出した、という話を聞いた。そのことはクラス中……いや、どうやら学年中に知れ渡っているようで、根元は級友たちに冷やかされて困ったように笑っていた。
小野は今日もポーカーフェイス。小野と根元が密やかに視線を交わすことは一切なくなり、小野の瞼の端を見ても、私にはもう何も分からない。
恐らく、私と小野はもう、喋ることも目を合わせることもないのだろう。
そう考えた瞬間、胸の隅の辺りがちくりとなったような気がして、あら、もしかしてこれはラブだったのかしら、と思った。それとも、小野に余計なことを言った罪悪感?
私は他人の気持ちが分からない。自分の気持ちも分からない。小野と根元がどういう風にラブを育んで、そして失ったのかも分からない。
これは私が十六のとき、初めて触れたラブの話。
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