■シェイク■


(※葵が宗太さんのとこに来た、翌日の話です)


 宗太は、夢と現実の間をふわふわと漂っていた。

  瞼が下がったり上がったり。身体が沈んだり 浮いたり。視界が、灰色になったり桃色になったりする。あたたかい布団と自分の境界が曖昧になって、実に心地が良い。

 冷たくて華奢な手が、額の上に置かれた。ひんやりとして気持ちがいい。宗太は幸せな気持ちになって、その手の上 に自分の手を重ねた。

「具合は?」

 頭の上から声が降って来る。

 そうだ、自分は熱を出したんだ。ぼんやりと思い出した。

「だいぶマシ……」

 まだ声に力が入らないが、身体の熱は引いていた。

「学校行ける?」

「行く……。伝承の出席やばい……」

 宗太の手の下から、冷たい手がすり抜けて行った。名残惜しくて手を伸ばしたが、空を掴んだだけだ った。

「……ねえ、夕子、今何時……」

 最後まで言わない内に、額にまっすぐ強烈な衝撃が落ちて来た。頭の内側で、重い打撃音が響 く。

  チョップでも喰らったような、鈍い痛み。一気に目が覚めた。
視界も急に鮮明になった。

「嫌だなあ、宗太さん。前の女の名前を呼ぶなんて、最低すぎるぜ」

 笑いと怒りを含んだ声に、宗太の顎が震え出した。おそるおそる目を開ける。

 そうだ、違うんだ。夕子じゃない。そもそも、女ですらない。彼は、流れ星が連れて来た「贈 り物」だ。自分には不要だと散々言ったのに、葵という名のこの少年を置いて流れ星は消えてし まった。

 夕子は、出て行ってしまった。便座ごときで、出て行ってしまった。自分はふられてしまったのである。 彼女のことを本当に愛していた(いや、今でも愛している)のに、話し合いはおろか、宗太の言うことに全く耳を貸さず、去って行ってしまった。

 宗太は突然の失恋を思い出し、嗚咽を漏らしそうになった。しかし、葵が宗太の胸倉をつかむ。
 
「目ェ覚めた? さ、僕は誰だ? 言ってみな」

 葵は腰に手を当て、尊大な態度でそう言った。宗太には、悲しむ暇も与えられないらしい。

「あ……葵、くん……?」

「呼び捨てでいいよ」

「あお、い」

 たどたどしく発音すると、葵はニッと笑って宗太の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

「よし、飯にしよう」  

  葵はそう言って、さっさと宗太から離れた。軽い足取りでリビングの方に歩いて行く。  


  食卓代わりの小さな赤いテーブルには、トーストとサラダ、ヨーグルトが二人分用意されてい た。宗太は少し感動した。夕子は朝食を食べる習慣がなかったので、朝食は自分で用意していた からだ。

 葵って結構いい奴なんだ。

 熱がまだ残っていたせいか、宗太はついついそんな風に思ってしまった。

 しかし、テーブルに置かれていたコップが、夕子が買って来たもので、宗太はまた悲しくなった。胸がじくじくと痛む。

「食欲あるなら、ハムエッグかなんか作るけど。どうする?」

 葵は冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出して、乱雑に冷蔵庫を閉める。

「こんだけでいい……」

 宗太は、すとんとテーブルの前に腰をおろした。その向かいに座った葵が、宗太のコップに荒 々しくオレンジジュースを注いでくれる。

「あれ、その服……」

 気が付けば葵は巫女装束ではなく、紺の長袖シャツとジーンズを身に着けていた。どちらも見覚えがある。宗太のものだ。洋服を着ていると、昨日と随分印象が違う。少し身近に感じる…… ような気がする。

「ああ、宗太さんの借りてる」

 当たり前のように言って、葵は自分のコップにもオレンジジュースを注ぐ。橙色の水面が大き く揺れて、ほんの少しテーブルにこぼれた。

「あの巫女の服は?」

「クロゼットにしまった。流石にあの服で日常生活は送れねえわ。脱ぎ方よく分かんなくてさ、 苦労したよ」

 喋りながら、葵はトーストにバターを塗る。

「え? いつも着てるんじゃないの?」

「何でだよ。宗太さんが巫女装束がいい、って言ったから着て来たんじゃん。もし宗太さんがナ ースがいい、って言ったらナース服で登場したし、マイクロビキニがいいって言ってたらマイク ロビキニで登場したぜ、僕は」

 ……そんな要求しなくて良かった、と宗太は心から思った。マイクロビキニの男をプレゼントされるなんて、悪夢以外の何物でもない。いや、巫女装束でも一緒なんだけれども。

「巫女装束がいいなら、着替えて来るぜ」

 葵はバターを塗り終わったトーストを、宗太に差し出してそう言った。

「い、いらないよ!」

 宗太は大きく首を横に振って、トーストを受け取った。何故か葵はニヤリと笑った。

  そして葵は自分のトーストを手に取り、豪快にかぶりついた。カシュッ、という良い音がした。急にトーストが美味そうに見えて、宗太も食パンを頬張った。

「宗太さん、今日は何限まで?」

「四限までだけどさ……。あの、何でそんなに普通にこの家に馴染んでんの」

「だって、宗太さんの嫁だもんよ」

「いやいやいや」

「ふつつか者の宗太さんを、よろしくしてあげるよ」

「いやいやいやいや。だからさ、おれはそういう趣味はないんだって」

「ほざいてろ」

「こ、こわ! 急に口悪くなるの、やめろよ。そ、それに何を言われようと、おれは普通に女の子が好」

「……宗太さん……酷い……っ」

 突然葵は大きな目を潤ませ、口元に手を当てて上目づかいに宗太を見つめた。声も若干、可愛らしく聞こえるように作っている。宗太の両腕に、凄まじい速度で鳥肌が立った。

「そ、それ嫌! そのノリ、いちばん嫌!」

 悲痛な叫びを上げるが、葵は止まらない。透明な涙が白い頬を伝い、長い睫毛が濡れて光る。葵のヒートアップに、宗太の鳥肌も止まらない。

「だって、宗太さんが、口悪いの嫌……って言う……から……っ。ありのままの僕を……っ見てくれない……から……っ」

 しゃくり上げながら、葵は切なる口調で訴える。あまりの不気味さに、宗太は降服するほかなかった。

「あああ無理! ごめん! 本当にやめて! 口悪くてもいいから、カマっぽくなるのだけは本当にやめて!」

「分かればいいよ」

 あっさり涙を引っ込めて、葵は雑に言い放った。そのまま、涙が残る頬を手の甲で適当に拭うと、大口を開けてトーストを食べる。

  宗太はしばし、その変わり身の早さに唖然とした。しかしよく考えてみれば、初めて会ったときもこんな調子だった。葵はこういう人間なのだ。つくづく、厄介な人間を抱え込んでしまったと思う。

「……あの、葵さん?」

「呼び捨てで良いって」

「葵」

「何だい、宗太さん」

「本当に、ここに住むつもり?」

「うん」

「……やっぱ、そうなんだ」

 はあ、とため息をついてサラダに入っていたプチトマトを口に放り込んだ。やたらと酸っぱくて、顔をしかめた。ハズレを引いてしまった。

「あっれー。追い出さないの?」

 意外そうに首をかしげて、葵は手についたパン屑を皿の上で払う。その手は細くて華奢で、どう見ても女の手だった。

「だって……他に行くとこないんでしょ?」

「うん、無いよ」

「でもって、昨日の妖精がいなかったら、帰れないんだよね」

「そうそう。ここで宗太さんに放り出されたら、普通に路頭に迷う」

「……そこまでおれ、鬼じゃないよ。あの妖精と連絡取れるまで、ここにいて良いよ」

 観念してそう言うと、葵は白い歯を見せてニヤリと笑った。にっこりじゃなくて、ニヤリだ。非常に悪そうな笑みだった。

「僕、宗太さんのそういうとこ好きだぜ。むしろ愛してるぜ」

 そんな悪人のような表情で愛の告白をされても、ちっとも胸に響かない。というか、むしろ怖い。しかも男からの告白だ。絶望的である。

「ま、まだ出会って一晩しか経ってないのに、何でそんなこと言えるんだよ……」

「長い時間かけて熟成するのも、一瞬で芽生えるのも同じだ。愛には変わりない」

 もっともらしいことを言って、葵はオレンジジュースを一気に飲んだ。

「いやあでも、宗太さんがあっさり同居を承諾してくれて、僕は嬉しいよ」

「で、でも、妖精と連絡が取れるまでだからな」
 
 宗太はそこを強調した。期間限定であることを、ちゃんと葵に分からせておかないと。ゴネるかなと思ったけれど、葵は素直に頷いた。

「うんうん、ピコさんと連絡取れるまでね」

 あれっ、何だ。
 もしかしたら、そんなに長い間居座る気じゃないのかも。

 宗太の心に、一筋の光が射した。それならば、男友達を家に泊めてると思えば良い。彼の奇妙な言動や行動も、短期の試練だと思えばまだ耐えられる。

「ちなみに僕、ピコさんの連絡先知らないんだよね」

「えっ?」

「ピコさんと連絡取れないの。だから、ピコさんと連絡取るまで宗太さん家にお世話になるってことは、必然的にー」

「ええええっ!」

 絶叫が喉にひっかかり、宗太は盛大に咳き込んだ。自分が病み上がりであったことを、今更ながらに思い出す。

「あーあー。大丈夫? 宗太さん」

 葵は宗太の後ろに回り込んで、背中をさすった。そんなことよりも、宗太にとっては今眼前に突きつけられている現実の方が大事だ。

「て、てことは……え、ちょ……っ、ずっと……?」

 息も絶え絶えになりながら喘ぐと、葵が笑顔で頷いた。してやったり、という感じの笑顔だった。やられた、と思った。

「あ、さっきの『ここにいていいよ発言』は、ちゃんと録音してあるから」

 葵は何処ぞに隠し持っていたらしいICレコーダーを取り出すと、これみよがしに振って見せた。宗太は開いた口が塞がらなかった。

「そんなわけでよろしくな、宗太さん」


 こうして、ひとりの男の人生が終わったのである。