■愛かな愛かな■
宗太が学校から帰って来たら、葵が何やら真剣な様子で鏡を見つめていた。夕子が置いていった、顔全体が映る大きめサイズの手鏡だ。そこに映し出される自分を真顔で凝視する葵は、近寄りがたいオーラを放っていた。
「な、何やってんの……?」
大いに戸惑いつつ宗太がそっと声をかけると、葵は
「ああ、宗太さんお帰り」
と言ってこちらに視線を向け、微笑んだ。
「いやさあ、自分で言うのも何だけど、僕ってかなり可愛いと思うんだよね」
己の頬に手を当て、葵はほうっと溜め息をついた。宗太は、がくっと肩の力が抜けるのを感じた。
「……葵って、結構ナル入ってるよね」
「別にナルじゃねえよ。可愛い造形に作られてんだもん、僕は」
「ああそう。良かったね」
何だそれバカバカしい、と思いつつ宗太は鞄を床に下ろした。上着のポケットから携帯を取り出して開こうとしたら、葵が今度は宗太の顔を注視していることに気が付いた。
「な、何?」
「僕はこんなに可愛いのに、宗太さんは何が気に入らないわけ?」
「はあ?」
ツッコミどころ満載な発言に、宗太は思い切り顔をしかめる。
「可愛いし一途だし料理も上手いし、言うことないじゃん」
葵はそう言って、宗太の前に立った。葵は小柄なので、向かい合うと常にこちらを見上げる格好になる。蛍光灯の光で、葵の大きな眼と長い睫毛がやけに輝いて見えた。
こうして見ると、つくづく葵は女の子にしか見えない。
そんな彼は、顔だけ見れば確かに可愛い。それにまあ、一途だというのも分かる。料理の腕に関しては文句なしである。しかし、だ。
「……ねえ、葵」
「何だい、宗太さん」
「きみ、自分がすっごい暴力的だってこと、忘れてない?」
言ってしまった直後、やばい殴られる、と宗太は半歩後ろに下がった。しかし葵が手を出してくる気配はなく、彼は腕を組んでこちらをじっと見上げるのだった。
「やだな、宗太さん。あれは暴力じゃなくて、愛情表現だよ?」
「いやいやいや! どう考えても暴力だよ。いっつも本気でブン殴るくせに!」
「めちゃくちゃ手加減してるっつうの。僕が本気出したら、歯が折れるくらいじゃ済まないぜ」
恐ろしいことをさらりと言われて、宗太は更に半歩後退した。しかしその分葵がじりじりと前にやって来るので、二人の距離は離れない。むしろ、近付いている。
「そんじゃ、宗太さん。お前の言うところの『暴力』をやめたら、宗太さんは僕を愛してくれるわけ?」
今日の葵はいつもと違う。宗太は頬を引き攣らせた。今まで何百回と葵に「愛してる」と言われてきたけれど、そういう角度から攻めてこられるのは初めてだ。
「い、いやいや、暴力がなくなっても、無理だって……!」
「何で?」
葵は目を細めた。宗太の胸がどきっとなる。ときめいているわけではなく、正体不明の罪悪感から来る「どきっ」だ。葵に出て行け、と言ってしまった一件以来、彼にそんな顔をされると宗太の心臓は奇妙に疼いてしまう。
「だ……だって、きみ、男じゃん!」
宗太としては、それは切り札のようなものだったのだが、葵はフッと鼻で笑った。今までのしおらしい表情が引っ込む。それと同時に宗太の罪悪感も何処かに行ってしまった。
「何、お前ってば性別なんかにこだわんの。視野せっまいのな。そんなんだから、みんなから器が小さいって言われるんだよ」
小馬鹿にしたような物言いに、宗太はむっとして顔をしかめた。器が小さい、なんて言うのは葵だけだ。
「別に、ホモやレズがいたっていいと思うけどさあ。おれは無理だ、って言ってんの」
憮然とした口調で宗太が言うと、葵は、にっこりと微笑んだ。そして宗太の胸ぐらをつかみ、そのまま彼を床に引き倒した。宗太の視界はぐるんと回転し、次いで鈍い痛みと衝撃が身体の後ろ半分を襲った。
「いっ!」
背中と後頭部を思い切り床に打ち付け、宗太はもんどり打った。全身が痺れて、目尻に少し涙が浮かんだ。 身体を丸めようとしたら、葵が馬乗りになってくる。
殴られる、と宗太は青くなった。このマウントポジションは、往復ビンタ耐久レース始まりの合図だ。歯が抜け落ちるかと思うくらいの強烈な平手打ちを、たて続けに喰らう恐怖が宗太の脳裏に蘇る。
「ご、ごめんなさい、もうしません」
恐ろしさのあまり、宗太はとりあえず謝った。葵がニコニコしながら手を伸ばしてくるので、ひっと身体をすくめるが、ビンタは飛んでこない。その代わりシャツをめくり上げられて、宗太は別の意味で青くなった。
「あ、葵! 何してんの!」
腹に手を這わせてこようとする葵の手を、慌てて振り払う。
「何事も、やってみなきゃ分かんないってことを、お前に教えてやろうと思って」
葵は曇りのない笑顔でそう言って、もがこうとする宗太の腕を膝で押さえつける。そして再度、宗太の服に手をかけた。宗太の口から、キャーという少女のような甲高い悲鳴が飛び出した。
「なんつう声出してんの、宗太さん」
「無理! 葵、ほんと無理だから!」
「だから、やってみないと分かないだろ、って」
「無理だって! たたないもん!」
「へえ?」
必死で主張する宗太に、葵は片眉をつり上げた。口元だけが、微妙に笑っている。宗太はぐっと詰まった。どうして葵は、こんなにも凄味があるのだろう。特に今のように見下ろされていると、尋常じゃないくらいの圧力を感じる。小柄な葵が、とてつもなく大きく見えるのだった。是非、こういうときの自分を鏡で見て欲しい。本当に恐ろしいから。
「たったらどうする?」
挑戦するような調子で言われて、宗太は眉間に力を入れた。
「た、たたないよ。男相手に、たつわけないじゃんか」
「絶対に?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ、たったら僕のこと愛してる、ってことだよな?」
「なっ」
「何動揺してんの。絶対に、たたないんだろ?」
「お、おう。勿論だ」
「そんじゃ、たったら僕のこと愛してる、ってことでいいな?」
「……い、いい、よ?」
あれ、何かおかしくないか、この流れは変なんじゃないのか。
宗太の脳の片隅に、そんな考えがぼんやりと浮かんだ。しかし葵の正体不明の気迫に押し切られる、ついつい彼は頷いてしまったのだった。
「言ったな」
このときの葵の表情を、宗太は一生忘れないと思う。鬼の首を取ったような、という表現がぴったりの顔だった。
「な」
「僕のテクを舐めんなよ」
葵はいやらしく舌を出して笑った。宗太の背中を、物凄いスピードで悪寒が駆け抜けてゆく。
「ごっ、ごめんなさい! マジごめんなさい!」
宗太は本気で、のしかかってくる葵から逃れようとするが、彼はぴくりとも動かなかった。こんな華奢な身体、ちょっと力を入れたらあっさり振りほどけそうなのに、どれだけ全力でもがいても葵はマウントポジションをキープしたままだ。背負った瞬間重くなる妖怪、子泣きじじいみたいだと宗太は咄嗟に思ったが、流石にそれを口にするような愚は犯さなかった。そんなことを言ったら、冗談抜きで殺される。
宗太とは対照的に余裕たっぷりの葵は、慣れた手付きでカチャカチャと、宗太のベルトを外しにかかる。
「キャー! イヤー!」
宗太は半泣きになりながら、両足をばたつかせた。
「ああもう、うっさい!」
葵は苛ついたように、宗太の頭を拳骨で思い切り殴った。
「いたっ! ぼ、暴力反対!」
「はいはい、分かったからおとなしくしててねー」
ベルトを外した葵の手が、ジーンズの中に入って来る。細くて薄い手はまるきり女の手で、宗太は身震いした。絶対にたたない、と言ったのに、もうすでにやばい感じがする。目を瞑ったら完全に女の子としている気分になってしまうので、両目をしっかり開けて葵の顔を見ることにした。こいつは男だということを、きちんと認識すれば大丈夫なはずだ。
……しかし残念ながら葵は顔も女っぽいので、宗太の目論見はいまいち功を奏さなかった。相手が男だと、しっかり意識しておかなければならないのに、長い睫毛や角のない輪郭や細い首がやたらと目に入る。布越しに触れてくる指先に、背中がぞくぞくしてしまう。
「ちょ……、ちょっ、マジ、ですか……っ」
「だって、けしかけたのは宗太さんの方だもーん」
葵は鼻歌でも歌うような調子で言って、何の躊躇もなく下着の中に手を入れてきた。直接触れる柔らかい指に、宗太は悲鳴を上げそうになった。
「うわ、うわ、うわ……っ」
浮き上がりそうになる腰を、葵の膝がぐっと押さえつける。そらした首に、葵が舌を這わせる。それと同時に手の動きも早くなって、宗太は背中を震わせた。これは無理だ、と思った。
「……ほら。ふっつうにたつんじゃん」
葵はそう言って宗太の性器から手を離し、ニコッと笑った。宗太の顔が熱くなる。
「は、反則だよ!」
「何が」
「葵なのに……、葵なのに、こんなの女の子じゃん!」
涙ながらに訴えると、葵は目を細めて笑った。
「何を訳の分かんないこと言ってんの。葵は葵だよ」
「そ、それはそう、だけ……うあっ」
再度前をつかまれて、宗太の声は裏返った。
「ちょ、葵……っ。分かっ……、分かったから……っ」
「ああもう、宗太さんマジでうっさい」
心底うんざり、という風に溜め息をついた葵は、宗太の口の中に指を突っ込んできた。反射的に噛みつきそうになって、宗太は顎を強張らせた。葵は、宗太の口の中で指を好き勝手に動かす。
「う……っ、んんん…・…っ!」
上顎をやわやわとさすられて、奇妙なゾクゾク感が走る。全身が焼けそうに熱い。宗太は、己の限界が近いことを知って泣きそうになった。
「はは、かわいいかわいい」
葵は口の中から指を抜いて、宗太の頭を撫でた。宗太は反論したかったが、身体はもう、それどころじゃなかった。
「も、ほんと……っ、やめろ……っ」
宗太は必死になって葵の身体をおしのけようとする。が、やっぱり彼はぴくりとも動かない。一体どういう仕組みなんだ、と宗太は遠いところで思った。
「ちょ……っ、まじ無理まじ無理まじ無……っ」
「……あああー……。ああー。ああああー……」
宗太は頭を抱えて、低い声で呻いていた。
「宗太さん、いつまで唸ってんの」
葵はティッシュで手を丁寧に拭きながら、床の上で丸くなる宗太を横目で見た。
「だって……一生の不覚だよ、これは……」
「そう?」
「男にいかされるなんて有り得ないよ……! 絶対萎えると思ってたのに!」
「しょうがないよ。愛だもん」
「あああ、おれ、そっちの世界に行っちゃったのかな……! もう帰ってこれないのかな……」
宗太は身体が地面にめり込んでしまうんじゃないか、という程に落ち込んでいたが、葵は上機嫌だ。
「しょうがないよ。愛だもん」
と、歌うように繰り返す。
「ち、違うよ……!」
「でも、たったじゃん」
「いや、だってあれは」
「たったら、僕のこと愛してるって言ったじゃん」
「言ったけど、でもあれは」
「愛だよ、宗太さん」
「あ、愛……なの? まじで? えっ、まじでっ?」
男にいかされた、ということのショックが大きすぎて、宗太はもう何が何だか分からなくなってきた。脳内を、愛、という言葉がぐるぐる駆け巡る。
「愛だってば。いい加減、認めろって」
「愛……かな……? いやでも、おれ付き合うなら普通に早苗ちゃんの方が……いたっ!!」
言葉の途中で葵の拳骨が顎に飛んできて、宗太は危うく舌を噛むとこだった。
「お前なあ……この期に及んで何なの、その発言……」
半笑いの葵が、宗太の頭を両手で掴む。宗太はヒッと息を呑んだ。
「そ、そこだって! きみのその暴力が駄目なんだって!」
「うっさい!」
葵は再び、宗太にのしかかった。
えっ何、また!?
と宗太が身構えかけたら、鈍くて重い痛みと衝撃が頬に走った。それが葵の平手だと分かると同時に、二発目が飛んでくる。
今回のマウントポジションは、往復ビンタ耐久レース始まりの合図だった。 宗太が半泣きになるまで、葵は許してくれなかった。
ようやく解放されたとき、宗太は熱く重くなった頬にそっと手を当てて、
「……愛って何……?」
と、涙声で呟いた。
お幸せに!
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