■れんごく(雷蔵視点)■

※2011年2月に発行した同人誌「れんごく」の一部を雷蔵視点で書いたものです。

※一は「れんごく」本編から持って来たもので、三郎視点です。(一部編集してます)二が、新たに書いた雷蔵視点です。






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一.

 運動場の奥の奥、木に覆われた倉庫の側で、雷蔵と八左ヱ門の姿を見付けた。八左ヱ門が倉庫の壁にもたれて座り、雷蔵は彼から少し離れたところに立っていた。ふたりとも表情は硬く、楽しい会話を繰り広げていたようには到底見えなかった。 わたしは気取られないよう、出来る限り彼らに接近した。耳をそばだて、彼らの声を聞こうと意識を集中させる。

「んんん……、そっか、それは……難しいな」

 八左ヱ門がそう言って、ぼさぼさの頭を乱暴に掻いた。わたしはどきりとする。一体、何の話をしているのだろう。何が難しいんだ。雷蔵は、八左ヱ門に何を話したのだ。

「それで……さっきの話、三郎にはしたのか」

 八左ヱ門は尋ねた。少し間を置いて、雷蔵が口を開く。

「……いいや、話していない」

 わたしは、耳を疑った。 話していない、と言った。彼は否定をした。さっきの話、というのが何を指すのかは分からないが、雷蔵はまだ、わたしに何かを隠しているということだ。 しかもそれを彼は、八左ヱ門には話したのだ。

 指先が震える。地面が傾いたような気がした。駄目だ。落ち着け。しっかりしろ、鉢屋三郎。

「あいつには、三郎との力量差に悩んでる、って……いう風に、言った……」

 苦しそうに、雷蔵は口を動かした。八左ヱ門が息を呑む。

「……嘘を、ついたのか」

 嘘、という響きがわたしに襲いかかる。わたしは喉元を手で押さえた。

 嘘。嘘? 雷蔵がおれに、嘘を?

 心を交わしたのだと、思っていた。雷蔵は本心を打ち明けてくれたのだと。わたしはそれを受け止めたつもりになっていた。周囲の心無い噂話に翻弄されて、自信を無くし懊悩していた雷蔵。 それが彼を苦しめる全てだと、そう、思っていた、のに。

「……全部が全部、嘘ってわけじゃない」

 雷蔵は呟く。まるきり、言い訳をするような口調だった。全部が嘘じゃない。それじゃあ、何処までが本当だったんだ。

 お前についてゆけるか不安だったんだ、と告げた雷蔵。

 おれを信頼していないのかと問うたとき、そんなはずはない、と声を荒げた雷蔵。

  冷たい手をした雷蔵。

  泣いていない、と不満をあらわにした雷蔵。

 どれが真で、どれが偽だ。わたしには、分からなかった。

「だけど、核心は話しねえってことだろ」

「だって、本当のことを言えるわけがないじゃないか」

 雷蔵の言葉ひとつひとつが、わたしの臓腑を深く抉ってゆく。わたしには本当にことを言えない。八左ヱ門には、言えるのに。

 衝撃が大きすぎて、何も考えられなかった。白くなった頭に、八左ヱ門と雷蔵の会話だけが、するすると流れ込んでくる。

「それじゃあ三郎が……」

「……分かっている。分かっているけど……!」

 雷蔵は、八左ヱ門の言葉を振り切って、声を大きくした。しばし、その場に沈黙が流れる。

  少しして、八左ヱ門の深い溜め息が、静まりかえった空気をかき混ぜた。

「……そうだよな。雷蔵も辛いもんな……」

「ごめん……」

「謝ることじゃねえって。な?」

 八左ヱ門は、また雷蔵の腰を叩く。彼は弱々しく「うん……」と頷いた。

「ともあれ、話してくれて良かったよ。ここのところ様子がおかしいから、心配してたんだ」

「……心配かけてごめんよ。ぼくも、八左ヱ門に聞いて貰えて、嬉しいよ。有難う、八左ヱ門」

「止せよ、水くさい」

 ふたりは、微笑み合った。彼らは嘘のない笑顔を交わす。わたしは、それを、ただ見ている。

「よし、そんじゃ、飯行こうぜ。おれ、今日は定食にしよっと」

「うん、そうだね。ええと……ぼくは、何にしようかなあ……」

「雷蔵は、相変わらずだなあ」

 ふたりは連れ立って、この場から離れて行った。話し声がどんどん遠くなる。彼らを追おうという気にはなれなかった。やがて彼らの気配が完全に消える。わたしは、ひとりになった。

「…………っ」

 頭が重い。身体の震えが止まらない。喉奥がきつく締め上げられる。

 わたしは地面に両手を突き、胃の中のものを全て吐き出した。胃液の匂いが鼻を突く。苦しい。苦しい。苦しい。

 いっそ現実感がなかった。今わたしが見たものは、まぼろしか何かじゃないのかという気がしてくる。

 ……本当のことを言えるわけがないじゃないか。

 頭の中に雷蔵の言葉が蘇り、わたしは咄嗟に耳を塞いだ。しかし、そんなことをしても無駄だった。雷蔵の声は、わたしの内側から聞こえてくるのである。

 何故だ。何故。何故。何故。震えが大きくなる。寒い。喉が痺れる。

「……雷、蔵……っ!」

 言い様のない怒りが、激情が、腹の中で渦巻いていた。 信じていた。雷蔵のことを信じていた。心に抱えていたことを全て打ち明けてくれたのだと。本当に嬉しかった。それなのに。

 きみはこんな形で、おれを裏切るのか。みっともなく縋り付くしか出来ないおれを、抱き寄せるふりをしてあっさり突き放すのか。おれにはきみしかいないと、知っているはずなのに。嗚呼、おれは、わたしは、おれは、おれは。

 駄目だ、と思った。

 これは駄目だ。

 これは、駄目だ。









 ……気が付けば、わたしは長屋の屋根の上で、月を見上げていた。いつ、どうやって此処に来たのか全く覚えていない。月は、だいたい丸だった。色は白。うつくしいかどうかなんて、全く分からない。空気は冷たい。星は瞬く。

 わたしはゆっくりと身体を起こした。部屋に戻らなければならない。部屋にゆけば雷蔵がいる。

 心の蔵が押し潰されるようだった。それでもわたしは屋根から降りた。長屋にあがり、重い足を引きずって自室に向かう。わたしたちの部屋からは、灯りが漏れ出ていた。雷蔵は、まだ起きているらしい。消灯の鐘は鳴ったのだろうか。それもよく分からない。

 わたしは息を吸い込んだ。冷たい空気が喉を通り、胸の中を撫でた。障子に手を掛け、すうっと引く。

「……三郎!」

 部屋の中で本を読んでいた雷蔵が、顔を上げて微笑んだ。その笑みは本物だろうか。偽物だろうか。わたしは部屋の戸をしっかりと閉めた。




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二.


「何処に行っていたんだ。随分と遅かっ……」

 言い終わらない内に、三郎に腕を掴まれた。えっと思う暇もなく、力任せに押し倒される。床で背中をまともに打ち付け、上半身に鈍い痛みが走った。

 何をするんだ、という抗議は口から出る前に消えた。そんな言葉なんて引っ込んでしまうくらい、三郎の様子が普通でなかったのだ。いつもならばにこやかに「ただいま、雷蔵」と言ってくれるのに、今の彼はくちびるを固く結んでいて何も言わない。

 この表情は怒りだろうか、憎しみだろうか、悲しみだろうか。ぼくには判断が出来なかった。暗い室内では彼の顔がはっきりとは見えず、それが余計に不気味だった。しかし、好意の類でないことは分かる。ぼくはとても恐ろしかった。さきほど口論になったときでさえも、彼はこんな顔はしていなかった。

  ぼくの心音は駆け足になってゆく。ぼくの胸に芽生えた恐怖も、どんどん大きくなった。ぼくは誰よりも、三郎の近くにいるのだという自負があった。彼のことであれば、何でも知っているのだと。しかし今、目の前には見たことのない三郎がいる。

 三郎の口が薄く開く。硬く強張った空気が僅かに揺れて、彼の声が耳に入り込んできた。

「……夕方、運動場で八左ヱ門と何を話していたの」

 腹の内側を、直接掴まれたかと思った。指先がみるみる冷たくなる。まさか。まさか、聞かれていたのだろうか。先程八左ヱ門に話したことを。三郎にだけは聞かれてはいけない、ぼくの告白を。そんな馬鹿な。話をする前に、周囲には誰もいないと、確認したはずだ。

 .……いいや、相手は鉢屋三郎だ。彼が本気になれば、ぼくたちに悟られず聞き耳を立てることくらい可能だろう。そう、彼は、それが出来る男なのだ。

「……三、郎……」

 ぼくは目眩を覚えながら震える声で呟いた。圧倒的な恐怖と混乱に押しつぶされそうになりつつも、どうにか頭を動かして必死で考えた。

 三郎は聞いたのか。聞いていないのか。聞いたのならば、何を話していたのかなどと、尋ねてこないのではないか。いいや、分からない。判断するには、まだ材料が足りない。

「何を、話していたのかな」

 はは、と三郎は頬を引き攣らせて笑った。その後も彼は断続的にいびつな笑い声を漏らす。苦しそうで、悲しそうだった。ぎり、と手首に爪を立てられる。痛みにぼくは眉を寄せた。

「……三郎、痛い……」

 ぼくの訴えは聞き入れられず、彼は更に強くぼくの皮膚に爪を食い込ませた。ざらりとした冷たい空気が、喉元を通り過ぎてゆく。痛い。痛い。おそろしい。  

「言えよ。……おれが笑っている内に」

 押し殺した囁きに、腹の底が冷えた。ぼくはこのまま殺されるのではないだろうか、と思った。それほど、ただならぬ気色だった。

「……言えよ」

 再度、促される。ぼくはくちびるを噛んだ。言う。言わない。言う。言わない。頭の中で選択肢が交錯する。三郎を刺激するのは危険だ、と本能が告げる。だからと言って、もう嘘をつくことは出来ない。今の彼には通用しないだろうし、何よりもぼく自身これ以上三郎を騙すような真似をしたくない。

 言う。言わない。言う。言わない。

「……雷蔵」

 ぼくは目を閉じた。言ってしまえば、楽になるかもしれない。共に生きたい。お前をひとりで死なせたくない。ぼくの為に死んでくれ、と。

  言う。言わない。言う。言わない。言う。

「言わない」

  ぼくの答えは、それだった。耳元で、微かに風を切る音がする。三郎が手を振り上げたのだ。殴られるのだと予感して、反射的に身をすくませた。

 しかし彼が拳を叩きつけたのは、ぼくの顔ではなく、そのすぐ近くの床だった。振動と共に三郎の怒りが伝わってきて、ぼくは奥歯を噛み締める。

「言えよ!」

 三郎は、ぼくの襟元を掴んでひび割れた声で怒鳴った。耳鳴りがした。頭も痛い。腹は重くて吐きそうだった。

  気が付けば、ぼくは三郎の横面を殴っていた。がつ、という鈍い音が響く。その音を聞いて、ああぼくは三郎を殴ったのだと自覚した。三郎の剣幕に、頭で考えるよりも先に手が出ていた。攻撃しなければこちらがやられる、と身体が判断したのだ。

 三郎の燃える目が、ぎらりとこちらを向く。ぼくは反撃に備えて身構えた。しかし、駄目だった。三郎はそれよりも早かった。彼はぼくの襟を掴み直し、平手でぼくの頬を張った。

 ぼくも極限状態だったからだろうか。痛みはあまり感じなかった。頭の中が揺れ、一瞬、自分がどちらを向いているか分からなくなった。

 三郎は乱暴にぼくを引き寄せ、口吸いを強いてきた。逃げようとすると、強引にこちらの口を開かせて舌を押し込んでくる。頭痛が酷くなる。

「やめろよ……っ!」

 ぼくは両手で、思い切り三郎の胸を突いた。 ぼくにのしかかっていた身体の重みが、一瞬離れる。ぼくはその隙を突いて、三郎の下から這い出した。しかしすぐに、捕らえられる。再度逃げようとしたが、腰に体重を掛けられて身動きを封じられた。

 三郎の手が寝間着の裾を掻き分け、ぼくの太股をつかんだので、ぞっとしてしまった。三郎はいつだってぼくの意志を尊重してくれて、そういった行為を強要しようとしたことは、一度だって無かったのだ。

 三郎はぼくの腰をぐいと抱き寄せて、熱いものをそこに押し当ててきた。

 屈服してたまるかという思いから、此処までずっと強気な態度を保ってきたが、もう駄目だった。

「い……っ、やだ……!」

 ぼくは藻掻き、泣き声をあげた。嫌だ。こんなのは嫌だ。だけど三郎は止まってくれない。まったく準備の出来ていない身体に、力ずくで無理矢理押し入って来ようとする。潤いも無しに受け入れられるはずがなく、下半身に激痛が走った。

「いやだ、いや、いや……っ!」

 ぼくは、切れ切れの声を漏らす。喉が苦しい。上手く呼吸が出来なかった。同時に、あまりに悲しくて視界が大きく波打った。だって、こんなことをする奴じゃなかったのに。

「三郎……っ、お願いだから……!」

 懇願すると、ぼくの背中から重みがなくなった。三郎が、身体を離す気配がする。解放されたのだと分かり、ぼくは彼から距離を取ろうとした。だけど、どうしても手足が動かない。恐る恐る振り返って、三郎の様子を確認するのが精一杯だった。

 そのとき、ぼくは見た。三郎の両目を涙が濡らし、それが頬を伝って落ちてゆくのを。彼は泣いていた。先程まで彼の瞳を燃やしていた激情は、もう何処にも見当たらない。彼はただ泣いている。ひたひたと、静かに涙を落としている。

「三郎……」

 思わぬ光景に、ぼくは呆然としつつ彼の名前を呼んだ。

「う……、うう、う……っ」

 三郎は嗚咽を漏らし、手で顔を覆った。ぼくは、何も言えなかった。

 ……これが、ぼくの望んだ結末なのだろうか。

 何があっても、決意は揺るがないはずだった。ぼくは三郎と共に生きて、共に死にたい。それが彼の死期を早めることとなろうとも、どうかぼくの側で、人としての最期を。

 それがぼくの希望だった。その為なら何でもするつもりだった。

 だけど今、ぼくの目の前で三郎が泣いている。傷ついて、打ちひしがれて、涙を流している。

 ぼくは何をやっているのだろう。

「う……、うう、う……っ」

 三郎は苦しげに呻き、自分の顔に爪を立てた。がり、と嫌な音がするのも構わず、彼は自らの変装を引っ掻いてゆく。

 そこでようやく、ぼくの身体は動いた。

「三郎……! そんなことをしたら、顔がはがれてしまうよ……!」

 ぼくはそう言って、三郎の手を掴んだ。しかし彼は、何も言わずにぼくの手を振り払った。ずきりと胸が痛む。思わず、払われた手に視線を落とした。

「……好きだ、雷蔵」

「…………」

 泣きながら呟く三郎に、ぼくは絶句してしまった。三郎は変装が崩れるのも構わずに、ぼくとおなじ形の顔に深く爪を立て、ぼくのことを好きだと言うのだ。

「好きだ。好きだ……きみが、きみのことが」

「三郎、ぼくだって……」

 ぼくは三郎に手を伸ばした。彼のことを抱きしめて、ぼくもお前が好きだと言うつもりだった。そして、もう、彼に隠していることを全て吐き出してしまおうと思った。

 しかし三郎は、ふたたびぼくの手を払った。先程よりも胸の痛みが酷くなった。三郎は二度も、ぼくを拒んだのだ。

「嘘だ」

 三郎は掠れた声で言った。その言葉はぼくの腹に深く食い込んだ。嘘、という響きに息が苦しくなる。違う。嘘じゃない。ぼくは確かに、沢山の偽りで三郎を傷つけた。だけど、ぼくは三郎のことが好きだ。本当に。心から。それは嘘じゃない。嘘じゃないのだ。

 弁明したかった。本当にお前のことが好きなんだと言って、彼のからだをきつく抱きしめたかった。だけどぼくは、三郎に拒まれたという事実に凍り付いてしまって、うまく言葉を発することが出来なかった。手だって、まったく動かない。

「三郎……」

 何も出来ず、ぼくはただ三郎の名前を呼んだ。彼は弱々しく首を横に振り、 「嘘だ。嘘だ」と泣きじゃくった。その痛ましい姿を見て、ぼくはようやく理解した。  

 ぼくは選択を誤った。

 ぼくは間違っていた。間違っていたのだ。三郎と一緒に行こうと決めたことも、その真意を黙っていたことも、全てが誤りだった。

 ぼくは鉢屋三郎の心を踏みにじった。一番大切な人を此処まで追い詰めてしまった。三郎のこの痛々しい姿は、ぼくのせいだ。ぼくは選択を誤った。ぼくは選択を、誤った。

「……こんなことじゃあ、一緒になんてやってゆけない……」

 三郎の呟きに、はっとなった。

  一緒になんて、やってゆけない。

 彼の言葉が反響する。もう胸は痛まなかった。三郎がそう思うのも当然だ、と静かな気持ちで受け止めた。心が、麻痺してしまったのかもしれない。そうだ。彼の言う通りだ。ぼくは間違えた。

「……そうだね。無理なのだろうね……」

 ぼくは、こくりと頷いた。三郎は、ほんの少しだけくちびるを震わせたが、何も言わなかった。随分と前に三郎の口から聞いた言葉を、ぼくは思い出していた。

 きみの決意は、おれの決意。

 彼はそう言っていた。その響きが、じわじわと身体中に広がってゆく。

「ぼくの決意は、お前の決意……」

 呟き、ぼくは立ち上がった。三郎は、こちらに顔を向けている。だけど、ぼくのことを見ているのかは、分からなかった。

「今日は、別の部屋で寝かせて貰う」

 そう告げて、ぼくは部屋を出た。冷たい夜気が頬を撫でる。三郎は止めなかった。何も、言わなかった。

 ぼくは、選択を誤ったのだ。










※何だかんだ、最後はハッピーエンドになります