■きみがいなけりゃ■


 久々知兵助と尾浜勘右衛門が長屋の廊下を歩いていると、通路のど真ん中で誰かが倒れているのが目に入った。ぐったりとして動かない。兵助と勘右衛門は、慌ててその人物に駆け寄った。

「お、おい! 大丈夫か!」

「しっかりしろ! ……ていうかこれ、どっちだ?」

 倒れていた人物は、不破雷蔵か鉢屋三郎のどちらかであった。ぱっと見ただけでは、どちらなのか分からない。勘右衛門の問い掛けに、兵助は首を傾げた。

「分からん。とにかく医務室に……」

 そう言って、ぐんにゃりと脱力した身体に手を伸ばそうとした。そのとき、雷蔵か三郎か判然としない彼が僅かに身じろぎした。

「……うう……。雷、蔵……」

 その呻きを聞き、兵助と勘右衛門は顔を見合わせた。

「鉢屋だ」

「だな」

「おい鉢屋、大丈夫か。何があったんだ」

 勘右衛門は屈み込み、三郎の頬を軽く叩いた。すると彼は薄く目を開け、もう一度「雷蔵……」と呟いた。

「雷蔵の身に、何かがあったのか」

「……それが……」

 三郎は苦しそうに、掠れた声で話し始めた。









「おばちゃん、終わったよ」

 最後の皿を拭き終えた三郎は、指先で布巾をくるりと回した。鍋を磨いていたおばちゃんがこちらを振り返り、整然と片付けられた皿を見て手を叩く。

「まあ、ありがとう! 鉢屋くんは仕事が早くて綺麗だから、助かるわあ」

「いやあ、それほどでも」

「向こうの棚の中にお饅頭が入ってるから、お礼に持って行って頂戴」

「ほんとに? やった!」

 三郎は指を鳴らした。台の上に布巾を置き、早速ご褒美を頂戴することにする。棚の中には、美味そうな柏餅がひとつ入っていた。それを取り出し、すぐさま、これは雷蔵と一緒に食べよう、と思った。それが良い。雷蔵だって喜ぶはずだ。

 三郎は柏餅を手に、軽い足取りで食堂を出た。さて雷蔵は何処だろう。図書室に行けば、会えるだろうか。三郎は図書室に行ってみることにした。

「こんにちはー! 雷蔵はいますかー!」

 朗らかに挨拶をしながら、図書室の戸を開ける。すぐさま「図書室では静かに」の貼り紙と、こちらを睨む中在家長次の三白眼が視界に入って来たが、気にしないことにした。

「おーい、らいぞーう」

 室内に向かって呼び掛けると、書架の間からきり丸がぴゃっと飛び出して来た。「ちょっとちょっと」と言いつつ、口元に人差し指を当ててこちらにやって来る。

「鉢屋先輩、図書室では静かにして下さいよー」

「やあ、きり丸。雷蔵はいるかい」

「雷蔵先輩っすか? さっきまではいましたけど……」

 そう言って、きり丸はきょろきょろと室内を見渡した。そうしたら突然、足元から小さな声が聞こえてきた。

「さっき、食堂に行く、って言って出て行かれましたよ……」

「うわっ、びっくりした!」

 三郎は本気で驚いた。怪士丸がすぐ側でしゃがみ込んでいたのだった。その存在に全く気がつかなかった。一年ろ組、恐るべし。しかしそんなことよりも、雷蔵の行方である。

「食堂? 行き違いになってしまったか」

 仕方が無い。三郎は食堂に戻ることにした。急げば途中で追いつくかもしれないので、走って向かうことにする。

「あっ、ちゃんと戸を閉めてって下さいよ!」

 背後からきり丸の声が聞こえてきたが、振り返らずに走った。彼には申し訳ないが、図書室の戸と雷蔵のどちらが大切かと言えば、断然雷蔵である。

「雷蔵!」

 三郎は食堂に飛び込んだ。結局、途中で追いつくことは出来なかった。しかし食堂内に雷蔵は見当たらない。中には三年の誰かと誰かがいて(三郎は、彼らに見覚えがなかった)突然やって来た三郎に、何事かという視線を向けていた。

「やあ、きみたち。不破を見なかったか。此処だと訊いたんだが」

「え、あ、確かに、不破先輩なら先程までいらっしゃいましたけれど」

 何処となく幸の薄そうな方が、あたふたと答えた。また、少しの差で会うことが出来なかった。三郎は眉を寄せて、手の中の柏餅に視線を落とす。

「教室に忘れ物をしたから取りに行かないと、っておっしゃってましたよ」

 もう一人が、はきはきと答えた。そういえば、こちらは知っている。借り物競争で、畳に乗って乱太郎と一緒に飛んで来た奴だ。あれがなければおれが二位だったのに、と思ったが今はそれよりも雷蔵だ、ということで絡むのはやめておいた。

「教室だな、分かった! ありがとう!」

 礼を言って、三郎は走り出した。何となく嫌な予感がした。これは良くない流れである。次、教室に行ったらまた雷蔵は不在で、彼に会えないのではないか。そんなのは嫌だ。嫌すぎる。何としてでも、雷蔵と一緒に柏餅を食うのだ。

「雷蔵!」

 勢いよく、五年ろ組の教室を開ける。しかしそこにもやはり、雷蔵はいなかった。

「あれ、三郎。どうしたんだ、そんなに急いで」

 代わりに八左ヱ門がいた。お前がいたってどうしようもねえんだよ、と口走りそうになってしまう。

「……八左ヱ門、雷蔵は此処に来なかったか」

「ああ、来た来た。何か忘れ物したとかなんとか言って。墨だったっけな。そんでさっき先生に用事を言いつけられてさ、これから街まで出掛けるみたいだぞ」

「何だと!」

 三郎は矢も楯もたまらずに走り出した。街まで出掛けるだと。冗談じゃない。それだと、もしかしたら夜まで帰って来ないかもしれない。三郎は今、後でではなく今、雷蔵と一緒に柏餅が食べたかった。

 出掛ける前に、部屋で支度をするはずである。三郎は必死で長屋まで駆けた。しかし途中で運悪く山田先生に見つかり、「上級生が廊下を走るな、下級生に示しがつかんだろう」といらぬ説教を食らってしまった。お小言を聞きながら、三郎は居ても立ってもいられなかった。こうしている間に、雷蔵が出掛けてしまうかもしれないのに!

 ようやく解放され、三郎は山田先生が視界から消えた瞬間にまた走り出した。雷蔵、雷蔵、と胸の中で何度も繰り返しながら全力で駆ける。

「雷蔵っ!」

 部屋の扉を開ける。しかしそこは、もぬけの空だった。脱ぎ散らかされた装束が、開けっぱなしの行李が、つい先程までそこに雷蔵が居たことを物語っている。

 三郎は不意に泣きたくなったが、涙をこらえて校門へと急ぐことにした。せめて、出掛けてゆく雷蔵を見送りたい。一目姿を見るだけで良い。雷蔵に会いたかった。

 門の前では、事務員の小松田が、手を伸ばしたり足を上げたり、よく分からない体操をしていた。

「こっ、小松田さん! あの、雷蔵は!」

「あ、きみは鉢屋くんだねえ。雷蔵くんなら、もう出掛けたよ」

 小松田の柔らかな声が、三郎の脳天に鋭く突き刺さった。

「そん……な……!!」

 三郎は、その場に膝をついた。そのまま自分は地中に沈んでしまうのではないか、という気がした。それほどまでに大きな絶望が、心を支配する。

「雷蔵……っ!」

  全身から力が抜け、手の中の柏餅が落ちそうになった。おばちゃんから貰った、美味しそうな柏餅。雷蔵と食べたかった。雷蔵と食べたかったのに!









「……くっだらねえ」

 兵助と勘右衛門は、ふたり同時に同じことを言った。

「お前らに何が分かる!」

 三郎は涙声で叫び、拳で廊下の床板をどんと殴りつけた。そろそろ日が沈む。何処かでカラスの鳴く声がした。





ちょこっとオーバーしましたが、わたしにしてはハイペースで書けました。
端から見たら全力でくだらないけれど、鉢屋的には最悪のバッドエンドです。
だって雷蔵に会えないんだよ。追い掛けても追い掛けても、追いつけないんだよ。そんなん三郎にとって絶望以外の何ものでもない……!
あまりにへこみすぎた三郎は、柏餅を兵助と勘右衛門に譲渡します。
そしたら、お遣いから帰って来た雷蔵がお土産に柏餅を買ってきてて、

「三郎、一緒に食べようよ」
「!! ……雷蔵、好き!!」

というオチです。あれっ、ハッピーエンドになったぞ。おかしいな……。

長編だったら、もうちょっとじっくり心のすれ違い的なのを書くんですが、短編ですので軽いお話になりました。楽しかった……。
リクありがとうございました!