■赤はなんの色でしょう■


「本当は、図書委員になりたかった」

 善法寺伊作は、唐突にそんなことを言った。本当に唐突であった。なんせ今は演習中で、食満留三郎と彼は戦場の中に居る。風に乗って火の粉が舞い、絶えず誰かの悲鳴が聞こえる修羅場である。

 留三郎は何も言わず、積み上げられた石にもたれて伊作の顔を見上げた。独り言だと思ったからだ。あまりに前後の脈絡がないので何事かと少し不思議ではあったが、こんな場所では誰もがおかしくなるので仕方がない。

「たまたま一年のときに保健委員になって、それから不運だからとかなんとかそんな理由で毎年保健委員だったけれど、本当は日がな一日本を読んで、静かな図書室でぼんやりしていたかったよ」

 保健委員長は視線を遠くに向け、昔を懐かしむように言った。留三郎もなんとなく、彼の目線の先を追う。一体何が見えているのだろう。留三郎には、灰色の空しか見えない。

  それから伊作は突然眉をつり上げて、留三郎に顔を寄せてきた。

「だから別にね、ぼくは怪我の治療だとか手当てが好きな訳じゃないんだよ!」

 そうして、力を込めて留三郎の腕に巻き付けた包帯を縛る。

「……あ、ああ、おれに言ってんの?」

 留三郎は、目を瞬かせた。まさか、こちらに語りかけているのだとは思わなかった。

「きみに言ってんだよ! 全く、きみは怪我ばっかりだ!」

「いや、だって、ここ戦場だし」

 そう言って留三郎は、彼に手当てしてもらったばかりの左腕をさすった。先程、火縄の流れ弾が当たって出来た傷である。その箇所が痛いのかどうか、自分でもよく分からない。伊作に言わせると、そういう状態が一番危ないらしい。

「戦場だからって、怪我しても伊作に手当てして貰うから良いや、みたいな態度で戻ってくるのはやめてくれ。不愉快だ」

「でも」

「でも、じゃない」

 厳しい口調で言われて、留三郎は口をつぐんだ。伊作は気が立っている。逆らわないのが吉だ。留三郎は「……悪い」と素直に謝った。それと同時に、何処かで石火矢が発射される轟音がした。

「……ああ、もう。早く終われば良いのに」

 伊作は眉を寄せ、音のした方を睨みつける。そのとき後方から、「おーい」という、七松小平太の声が聞こえてきた。肩に誰かを担いでいる。見るとそれは、足軽の具足を身につけた立花仙蔵であった。

「仙蔵を拾って来たぞー!」

「小平太、その前に合言葉」

「ああ、忘れてた。ええと……忍術学園五年い組実技担当担任生物委員会顧問木下鉄丸先生が生物委員会で飼育している虫の餌にするため花を摘んでいるさまは洒落にならない恐ろしさだった」

「はい、ご苦労様」

 すらすらと合言葉を口にする小平太に、伊作はひとつ頷いた。留三郎はこれを聞く度に、こんな合言葉誰が決めたんだ、と思う。

「仙蔵が負傷した。頼む、伊作」

 小平太は、地面に散らばった矢やら具足やらを足で乱暴に散らし、空いた場所に仙蔵をおろした。

「……ひとりで歩けると言ったのに」

 いつもより一層白い顔で、仙蔵は呟いた。そんな彼を見て、伊作が目を怒らせる。

「死にそうな顔と声で、何を言ってるんだ。足だね。診るよ」

 伊作は額に浮かんだ灰混じりの汗を手の甲でぬぐい、仙蔵の側に屈み込んだ。

「それじゃあ、わたしは文次郎を捜してくる」

 小平太が肩をぐるぐると回し、再び戦火の中に飛び込んでゆこうとするので、留三郎は「待て、小平太」と呼び止めた。

「お前も、怪我してんじゃねえか。応急処置くらいならおれも出来るから、ちょっと座れ」

「怪我? 何処を」

「脇腹。火傷してるだろうが」

「あ? おお」

 小平太は己の脇腹を見下ろした。装束と、皮膚が焼けている。それを確認して、彼は大きなまなこを瞬かせた。

「別に、痛くも熱くもないけどな」

「馬鹿だな、お前。そういう状態が一番危ないんだよ」

「……留三郎が、偉そうに言うことではないよね」

  伊作の冷たい声が聞こえ、留三郎は誤魔化すように咳払いをした。気を取り直して、小平太の手当てをしようと懐から水筒を取り出すと、素早い動作で小平太にそれを奪われた。

「留三郎の方が酷い怪我だ。わたしは自分で出来るから良いよ」

 そう言って、彼は笑顔で水筒の水をがぶがぶと飲み始めた。唇の端から、透明な雫が糸を引いて落ちる。

「馬鹿、お前、飲む為に出したんじゃねえよ。傷を冷やせ、傷を」

「ああ、そうだったそうだった」

 小平太は水筒から口を離し、目を瞬かせた。それから、火傷した部分に水を浴びせる。小平太は涼しい顔をしているが、酷い火傷だ。留三郎はそんな彼を横目で見ながら、左手を握ったり開いたりしてみた。思ったよりも動く。もうすこしだけ休んで、小平太の代わりに文次郎を捜しにいくか、と考えた。

「……そういえば、小平太。長次は一緒じゃなかったの?」

 仙蔵のふくらはぎに薬を塗り込み、伊作が尋ねた。それと同時に、部下を叱責する足軽大将の怒声が響いた。

「長次は文次郎を捜している。仙蔵を此処に送り届けてから、あとで合流する予定だったんだ。ところで留三郎お前、顔色悪いぞ」

 小平太は留三郎に水筒を返しながら、そんなことを言った。全く自覚のない留三郎は、泥と灰でざらついた自分の頬を撫でてみた。当たり前だが、そんなことをしたって自分の顔色を窺うことは出来ない。

「おれが? そうか?」

「血を流しすぎなんだよ。無茶するから」

 伊作が苦々しく言うのを聞いても、留三郎はいまひとつ実感が湧かない。戦場に潜り込んでから此処に引き揚げてくるまで、何があったのかもあまり思い出せなかった。

「そんなに出てたっけなあ」

 言うと、小平太が笑顔で肩を軽く叩いてきた。この修羅場において、いつもと変わらぬ朗らかさを保っているのは小平太のみだ。

「血がいっぱい出たときはな、これは血では無い、と思うと良いぞ。この赤さは苺か林檎だと思っておけば良い」

 小平太は腰に手を当てて、自信満々で主張した。留三郎は、己の両手を見下ろし、この手を濡らす赤さは苺であると考えてみた。そう思うと、苺に見えないこともない。随分と熟れすぎた苺ではあるが。

「……途端に美味そうに見えてくるな、それは」

「だろう。腹が減ってくると、匂いも苺みたいになるぞ」

 留三郎は、手のひらに鼻を近付けた。特に空腹は覚えていないせいか、血と火薬の匂いしかしなかった。

「しかしそうなると、間違って食い付きそうだな」

「食い付く、食い付く。わたしはそれで、死にそうになったことがある」

 小平太が声をあげて笑う。留三郎はその様を想像して、呆れてしまった。こいつは正真正銘の馬鹿だと確信する。また、何処となく誇らしげに見えるのが救えない。

「そらぁお前、威張ることじゃねえよ。なあ、伊作」

 同意を求めて伊作の方を見ると、彼は仙蔵の足に包帯を巻きながら、軽蔑しきった視線をこちらに寄越していた。

「……きみたち、間違っても後輩の前で、そんな話をしてくれるなよ」

「え、何で?」

 小平太と留三郎の声が揃う。伊作は、処置無し、とでも言うように目を閉じて首を横に振った。

「あっ、長次が来た!」

 小平太が声を上げ、立ち上る煙の向こうを指さした。留三郎も目を凝らす。やがて、中在家長次の大きな体躯がぼんやりと浮かび上がった。背中に、潮江文次郎を背負っている。

「長次、お帰り!」

 小平太が駆け寄り、長次は小さな声で 「五年い組実技担当担任……」 と合言葉を呟いた。それと同時に何処かで石火矢が砲火され、その轟音で留三郎は合言葉をきちんと聞き取ることが出来なかった。