■つよく、生きて■


「潮江文次郎は死んだ」

 立花仙蔵は冷たい床に背筋を伸ばして座し、沈痛な面持ちで、しかしはっきりとそう告げた。

  彼が口を閉じると、遠くから蝉の羽音が聞こえてきた。ついで、庭を走り回る下級生たちのはしゃぎ声。仙蔵はそれらの音を遮るように、そっと目を伏せた。

「早すぎる終わりだった。……実に、残念だ……」

 最後の方は、吐息と紛うような小声であった。仙蔵は膝の上で悔しそうに拳をきつく握る。

「……いや、死んでねえよ……」

 仙蔵の正面に座っていた潮江文次郎は、戸惑いを含んだ声で言った。忍術学園六年い組の潮江文次郎は、今日も至って健康である。何を言い出すんだこいつは、という表情で友の顔を見返す。

  仙蔵は目を閉じたまま、ふう、と悩ましい吐息を漏らした。

「分かった、訂正しよう」

 そう言って彼は手を軽く持ち上げ、更に口を開こうとしていた文次郎を制した。

「わたしの知っている文次郎は死んだ」

「お前な……」

「暑苦しくて鬱陶しく、毎晩寝言と歯ぎしりがうるさくて何度本気で殴り倒してやろうかと思ったか分からないが、潮江文次郎は悪い男ではなかった」

「お前、何気に言いたい放題だな」

「救いようのない程に直情的で空回りしがちではあるが、義を重んじる男であった」

「…………」

 淡々と述べる仙蔵に、文次郎は黙った。彼の言葉が、ちくちくと全身に突き刺さるようであった。

「だが、そんな文次郎はもういない」

「ああっ、もう!」

 我慢が出来なくなった文次郎は、だん、と拳で床を叩いた。仙蔵はまったく動じず、静かな面持ちでこちらを見ている。

「確かにおれは、鍛錬明けで極限に腹が減っていたとはいえ、お前の大福を無断で食った! それに腹を立てているなら、もっと普通に怒れ! 単刀直入におれを責めろ! もって回った言い方しやがって!」

「わたしは別に、怒っているとは言っていないが」

 目を細め、仙蔵は淡々とにそう言った。下級生が見れば泣き出してしまいそうな、怜悧な視線である。六年間彼と一緒に居る文次郎も、若干気圧されて頭を後ろにそらす。

「お、怒ってんじゃねえかよ……!」

「あれは、作法委員の後輩が街で買って来てくれた大福でな」

「だからっ、悪かったって何回も言ってんだろうが!」

「先輩これ召し上がって下さい、と少し緊張した面持ちで述べるさまが、どれだけ健気でいじらしかったことか」

 仙蔵は、けして声を荒げることはなく、静かな調子で言う。文次郎は、床を拳でもう一度軽く打った。

「……分かった。代わりの大福を買って来る」

「別にわたしは怒っていない。ただ、酷く残念だ」

 仙蔵がそう言ってゆるく首を振るので、文次郎はひび割れた声でこう叫んだ。

「蕎麦も奢る! あと食堂の食券もつける! だからいい加減機嫌を直せ!」

「……良いだろう」

 言って、仙蔵は唇の端を持ち上げて悠然と微笑んだ。潮江は、大きく息を吐き出す。やっとである。やっと、この面倒くさい男を納得させることが出来た。大福ひとつ食っただけなのに何て陰険な野郎だ足元見やがって、と内心で舌打ちをする。しかしあの調子で、延々と責められるよりはましだ。

「あーあ、そんじゃ、出掛けるか」

 文次郎は頭を掻きながら立ち上がり、行李に手をかけた。私服の着物を中から引っ張り出すと、仙蔵の手が肩に置かれた。

「文次郎、違うだろう。その着物じゃ駄目だ」

「は? 何を言って……」

「お前の着物は、これだ」

 そう言って仙蔵は、一枚の着物を文次郎の胸に押しつけた。それは上品な桜色で、仕立ての良い女ものの着物であった。

「な……っ、仙……っ」

 絶句する文次郎に、仙蔵は何処までもうつくしく微笑んでみせる。輝く笑顔、というのはこういう顔のことを言うのではないかと、文次郎は頭の端でそう考えた。

「まさか嫌だとは言わないよな、文次郎?」

 仙蔵は笑みを深くする。うつくしい仙蔵とうつくしい着物に迫られて、文次郎の背中を冷たい汗が伝っていった。