■犬に噛まれたとでも思って■


 作法委員全員集合の報せを出したのに、六年は組の笹山平太夫だけが何時まで経っても現われない。

  六年い組、作法委員長の黒門伝七は頭を抱えた。絶対に、何があっても時間厳守で集合だと言っておいたのに。

「……仕方がない」

 伝七は立ち上がった。彼から立ち上る苛立ちやら怒りやらが伝わるのだろう、後輩たちは怯えた表情で縮こまっていた。伝七は、しまったと思った。怖がらせるつもりはなかったのに。

「ちょっと兵太夫を探してくるから、ここで待機していてくれ」

 そう言って、出来るだけ優しく微笑んでみたが、後輩たちは一層表情を硬くしてしまった。どうやら笑顔をつくるのに失敗したらしい。伝七は更に頭を抱えたくなった。

 ……ともかく、作法室を出て足早に歩き出す。何でぼくがこんなことを、という独り言が口から突いて出た。

  他の委員会では、遅刻者を迎えに行くのなんて下級生の仕事なのだと先日左吉に聞いた。全く羨ましい限りだ。出来ることなら、伝七だってこんな面倒な仕事は下級生に押しつけてしまいたい。しかし、笹山平太夫の捜索は危険すぎて、下級生には任せられない。だから、最高学年の自分が出るしかないのだった。

 程なくして、委員会活動中の生物委員会の面々に出くわしたので、六年は組の佐武虎若に兵太夫の所在を尋ねてみた。彼の隣に居た夢前三治郎が、「どうしてぼくに聞かないの」とでも言いたげな顔をしていたが、彼には触れないでいた。三治郎は兵太夫と同類なので、どうにも苦手である。

「ああ、兵太夫なら、部屋にいたと思うけど」

 最悪の回答に、伝七はこの上なく重苦しい気持ちになった。兵太夫の部屋。あの地獄のからくり部屋に、また足を踏み入れないといけないのか。

 伝七は奥歯をきつく噛み締め、嫌々ながら兵太夫の部屋へと向かった。

「おい、兵太夫!」

 きつい口調で呼びかけ、勢いよく障子を開ける。兵太夫の姿は見えなかった。しかし気配はする。この部屋の何処かに、兵太夫はいるのである。

「兵太夫、作法委員は放課後に集合だと言ったろう。さっさと出て来い」

 反応無し。伝七は怒鳴り散らしたい衝動に駆られたが、優秀な六年い組の生徒がそんなことではいけない、と思いとどまった。感情に流されてはいけない。冷静に、飽くまで冷静に行動して兵太夫を捕獲すべきだ。

 伝七は深く息を吸い込んだ。それから、兵太夫の部屋を見つめる。

  一見、何の変哲もない忍たまの部屋だ。文机、衝立、行李。床に重ねられた図書に、恐らく三治郎のものであろう虫かご。しかしここは、忍術学園内で最も難攻不落だと言われている、兵太夫と三治郎の部屋である。伝七は兵太夫を呼ぶために何度となくこの部屋を訪れ、その度に酷い目に遭ってきた。出来れば此処には近寄りたくないが、そんなことは言っていられない。

 伝七は軽く助走をつけて、第一歩を大きく踏み出した。部屋に入ってすぐの地点に、落とし穴があるからだ。何度もこの部屋に挑戦しているので、多少は構造が頭に入っていた。

「次は、右に三歩……」

 呟いて、伝七は慎重に歩き出した。三歩進んだら、次はまっすぐ二歩。次は一歩分飛び越えて、左に一歩、前に一歩……。

 と、過去の辛酸から学んだ、頭の中の「からくり地図」と照らし合わせながら進んでゆくと、がくんと足が床にめりこんだ。

「えっ」

 その瞬間、勢いよく床板が抜け落ちた。一瞬で肝が冷える。しまった。やられた。

「新作かあああっ!」

 伝七の叫びは、闇に吸い込まれて行った。









 深みへと落下した伝七は、やわらかなものに身体を受け止められた。お陰で怪我はしなかったが、それでも衝撃で一瞬息が止まる。どうやら地下室に落とされたらしい。着地地点には、綿の入った布団が何枚も重ねて置かれていた。

 殺風景な部屋であった。しかし、こういう場所ほど恐ろしい。伝七は、すぐに身体を起こして迎撃態勢を取った。何時、罠の第二波が来るか分からないからである。

 姿勢を低くして周囲の様子を窺ったが、何かが飛んで来たり床が抜けたりということは起こらなかった。とりあえず伝七は、ほっと息を吐き出した。

「やあ、伝七」

 安心したところで背後から声をかけられて、伝七は飛び上がりそうになった。

「へ、兵太夫!」

 慌てて、後ろを振り返る。兵太夫は、天井から垂れた縄にぶら下がり、涼しい顔で笑っていた。伝七はこの上ない屈辱を感じた。背後を取られるなんて不覚だ。

「あはは、どうしたの、こんなとこまで来て」

「お前を呼びに来たんじゃないか。今日は委員会だって言っただろう!」

「そうだっけ?」

「そうだよ!」

 委員会のことをすっかり忘れていたらしい兵太夫に、伝七は頭を掻きむしった。これだからアホのは組は嫌いなんだ、と胸中で叫ぶ。

「皆を待たせているんだ。さっさと戻るぞ。帰り道はどっちだ」

「そうだなあ……」

 兵太夫は、顎に手を当ててしばし考えるような表情を見せた。まさか、帰り道が分からないとでも言うんじゃないだろうな、と伝七はにわかに不安を覚えた。

「伝七、ちょっとした遊びをしようよ」

 唐突にそんなことを言い出した兵太夫に、伝七は眉を寄せた。

「何だよ、そんな暇は……」

「右を見てみなよ」

 伝七の言葉を遮り、兵太夫は右方向を指さす。人の話は最後まで聞けと言いたかったが、それよりも早く此処から出たかったので彼の言う通り、右を向く。するとそこには、天井から垂らされた二本の太い縄があった。

「どちらかを引っ張ってご覧。片方に、ぼくの新作罠が仕掛けてあるから」

「な……」

 伝七は目を見開いた。新作罠、という単語に胃がぎゅっとなる。またか。またこいつは、とんでもない罠を開発したのか。

「罠じゃない方を引くことが出来たら、委員会に出席する」

「……新作の罠って……どんな罠だよ」

 恐る恐る、伝七は尋ねてみた。すると兵太夫は目を細め、「ええー?」と、意味ありげに微笑んで見せる。

「大丈夫だよ。すぐに乱太郎を呼べるから」

「保健委員長が出動するような罠かよ!」

 さらりと放たれた言葉に、伝七は喉を引き攣らせて叫んだ。すると兵太夫は、声をあげて笑った。

「まあまあ、運試しってことでさ。やってご覧よ、作法委員長」

「…………」

「ほらほら、早く。こんなのに怖がってちゃ、立派な忍者になれないよ?」

 煽るように、兵太夫が楽しげな声をあげる。伝七は、顔をしかめた。この男は何時だって、至極的確に伝七の苛立ちを湧き上がらせる。

 伝七は、縄にぶら下がる兵太夫を見た。それから、二本の縄に視線を移す。何の変哲もない縄だ。しかし兵太夫の仕込んだものとなれば、どちらもとんでもない兵器に見える。どちらかに、兵太夫の罠が仕掛けられているのだ。

 新作ってどんなのだ、と伝七は唾を呑み込んだ。脳裏に、今まで彼の体験してきた罠の数々が蘇る。下級生の頃は、落とし穴だとか頭上から桶が降ってくるだとか今思えば可愛いものばかりだったが、歳を重ねるにつれどんどん過激に、そして洒落にならなくなっていった。死ぬかと思ったことも、一度や二度ではない。

 どくどくと、心臓がうねり始めた。それでも冷静に、冷静に、と自らに言い聞かせる。は組の調子に乗せられてはいけない。自分はこいつよりずっと優秀なのだから。

 伝七は試しに、右の縄に手を掛けた。それと同時に、兵太夫の表情を観察する。顔の筋肉や視線の動きなどから、相手の考えを読む。これも忍者の技である。あほのは組の罠になど引っ掛かるか、と伝七は眉間に力を込めた。

 ……が、どちらの縄を握っても兵太夫の表情は少しも動かなかった。どうやっても読めない。あほのは組のくせに、こういうときだけはしっかりと忍者である。伝七は心底悔しくなった。

「黒門せんぱーい、恐怖は忍者の三病ですよー?」

 歌うように言う兵太夫にかちんとくる。しかし、どちらの縄を引けばよいのか、全く分からない。認めたくはないが、外したら何が起こるのかという恐怖が、先程から胸を押しやっている。

 右か、左か。

 伝七は震えそうになるのをぐっと堪えて、右の縄に手を掛けた。根拠は何もない。ただの勘である。心臓が暴れる。しかしここで怖じ気づいたと思われたくはない。伝七は覚悟を決めた。目を瞑り、両手で縄を思い切り引っ張る。

 ……訪れたのは、静寂であった。何かが降ってきたり、爆発するような気配もない。

  これは正解だろうか、そう思って伝七はそろそろと目を開けた。

「う、うわあっ!」

 伝七は驚きのあまり、声を引っ繰り返した。眼前に、兵太夫の顔が迫ってきていたのである。額が触れそうな距離だ。

「な……っ、兵……っ」

 いつのまに、と思う間もなく顎を捕らえられ、唇を重ねられた。  

「…………っ!」

 唐突に訪れたやわらかな感触に伝七は息を呑んだ。肩が震える。歯の隙間をこじ開けるようにして、兵太夫の舌が滑り込んできたので、伝七は更に身体を震えさせた。

「んん……っ! ん、んっ!」

 ぬめる舌が口腔を這い、伝七の舌に絡まる。みるみる顔が熱くなり、背中に痺れが走った。わけが分からず、兵太夫の肩を必死で叩く。

 伝七の口を散々貪り、ようやく兵太夫は離れた。満足そうな表情である。伝七は呆然としてしまい、言葉も出ない。その場にへたり込まなかっただけでも、自分を褒めたいと思った。

 兵太夫は、だらんと垂れた伝七の手を取り、にっこりと微笑んだ。

「まあ、どっちも、罠なんて仕掛けてなかったんだけどね」

「……は?」

 兵太夫のひとことに、伝七は口をぽかんと開けた。目の前にいる男の笑みが深くなる。

「伝七の、怯えた顔が見たかっただけ」

「…………」

「どうも、ご馳走様でしたー」

 伝七のぼやけた頭の中に怒りが湧いてくるよりも早く、「よーし、それじゃあ委員会に行こうか」と言って、兵太夫は伝七の手を引いて歩き出した。