■わらって藤内!■


 作法室に入ってみたら浦風藤内が部屋の隅の方でやけに小さくなって座り込んでいるので、一体何をしているのだろうと綾部喜八郎は不思議に思った。

「とう……」

 丸まった藤内の背中に声をかけようとしたら、両脇から小さな人影がふたつ、綾部の腰めがけて飛びついて来た。

「綾部先輩!」

「駄目ですよ!」

 腰にしがみついて来たのは、一年生の兵太夫と伝七であった。ふたりは綾部に顔を寄せてきた。

「今、浦風先輩に話しかけちゃ駄目なんです」

「どうして?」

 小声で囁く兵太夫に、喜八郎はせわしなく目を瞬かせた。そうすると今度は伝七が、綾部の耳元でこそこそと話し始める。

「浦風先輩、実技の試験で大失敗してしまったらしくて、物凄く落ち込んでおられるんです」

「それで、どうして話しかけてはいけないの」

 後輩たちの言わんとするところが理解出来なくて、綾部はかくりと首を傾けた。じれったそうに、伝七が続ける。

「だって……落ち込んでいるときは誰だって、そっとしておいて欲しいものでしょう」

「わたしは、そうでもないよ」

 即答すると、兵太夫が「いや、そりゃあ……綾部先輩は……」と、口元をもぞもぞさせて呟いた。まだ何か言いたそうな後輩のことはひとまず置いておいて、綾部は藤内に近付いた。

「藤内、綾部先輩が来たよー」

 彼からの返事はなかった。壁に向かって膝を抱え、顔を伏せた状態のままぴくりとも動かない。綾部は口を尖らせた。

「ねー、藤内ってば」

 綾部は、藤内の肩に顎を乗せた。細い肩が、いつにも増して頼りなく見える。綾部はしばらく彼の首筋と耳を見ていたが、なんとなく口寂しくなったので目の前にあった藤内の耳をかぷりと噛んだ。

「うわあ!」

 甲高い声と共に、藤内が勢いよく顔を上げる。

「な……っ、何するんですか!」

 頬を真っ赤にして怒鳴る藤内に、綾部は 「耳を噛んだ」と短く答えた。すると、藤内は目を白黒させた。何も間違ったことは言っていないのに。

「い、一年生がびっくりしてるじゃないですか!」

 そう言って、藤内は兵太夫と伝七を指さした。確かに彼らは、ぽかんとして綾部たちの方を見ていた。

「藤内の声にびっくりしたんだと思うよ」

「…………っ」

 藤内は言葉を詰まらせた。じい、と彼の黒々とした目を見つめていたら、逃げるように視線をそらされてしまった。藤内はこうやって、いつもすぐに目をそらしてしまう。綾部にとって、それは常日頃からの不満であった。

 藤内は大きく息を吐き出して、ふたたび膝を抱えて座り込んだ。

「とーうない」

 綾部は藤内の肩をつかんで、大きく揺さぶった。それでも、藤内は返事をしない。

「ねえ、藤内ってば。返事をしないと、また耳を噛むよ」

 そう言うと、 「……ぼくのことは、放って置いて下さい」という低い呟きが返って来た。そんな答えが聞きたかったわけではないので、綾部は眉を寄せてもう一度彼の耳を噛んだ。

「ひゃあ!!」

 藤内はふたたび飛び上がる。それから勢いよく、綾部の方を振り返った。

「や、やめて下さいよ!」

「嫌だ」

「…………」

 藤内はくちびるを噛み、また、綾部に背を向けてしまう。

「笑って、藤内」

 綾部は腕を伸ばして、藤内の背中に抱きついた。一瞬、彼の身体に震えがはしった。

「ねーえ。笑って、藤内」

「……無理ですよ」

 絞り出すように藤内は呟いた。その声音には明らかに拒絶の意が含まれていたが、綾部はまったくお構いなしだった。藤内はあったかいなーなんてことを考えながら、彼の背中に頭を預ける。

「わたしは、藤内の笑顔が見たい。だから笑って」

「……綾部先輩は、勝手なことばっかり言う……」

「そうかなあ」

「そうですよ。人が落ち込んでるっていうのに……」

「落ち込んでる藤内は、もう沢山見たから良い。飽きた。だから、落ち込むのはもうおしまいにしようよ。藤内も、飽きたでしょう」

「何ですか、それ」

「笑って、藤内」

「…………」

「ねえ、落ち込むのってそんなに楽しい? 滝夜叉丸も、しょっちゅう落ち込んでるけど」

「えっ」

 藤内が顔を上げて、驚き顔でこちらを見た。「あの、滝夜叉丸先輩が?」と口を開ける。綾部は大きく頷いた。

「うん、机にこう突っ伏してね、何かぐだぐだ独り言を言ってるよ。……あれ、これ、人に話しちゃ駄目なんだっけ。あ、そうだ、誰にも言うなって言われてたんだった」

「だ、駄目じゃないですか……!」

 藤内はそう言って、力の無い苦笑を浮かべた。しかしそんなのじゃなく、もっとかわいく笑ってくれないと満足出来ない。

 なので綾部は、僅かながらに持ち上がった藤内の口角を両手ではっしと捕まえ、無理矢理上にぐいぐいと引っ張った。

「い、いあ、いひゃい、いっ」

「笑ってー、藤内、笑ってー」

 歌うように言いながら、藤内の柔らかな口元を無理矢理笑顔の形にする。藤内はしばらく、いひゃいいひゃい、と泣きそうな声をあげていたが、やがて「あーもう!」と叫んで綾部の肩を押した。

「もう……ほんと、綾部先輩は無茶苦茶すぎだよ……」

 藤内は頭をがりがりと掻き、しばらくそのまま下を向いていた。それから顔を上げて、彼はにっと笑顔になった。綾部の一番好きな表情だ。やっと笑った、と綾部は思った。

「綾部先輩を見てたら、落ち込んでるの馬鹿らしく思えてきました」

 そう言ってから彼は「よしっ」と気合いを入れ、勢いよく立ち上がって拳を突き出した。

「次からはもっと予習して、頑張るぞ!」

 大きな声で宣言し、藤内は自分の決意に満足したように歯を見せて笑った。次いで、固まったままの一年生ふたりに顔を向ける。

「一年生、心配かけてごめんな!」

「え、いや」

「そんな、別に」

 兵太夫と伝七はお互いの身体にしがみつくような格好で、ぎこちない返事を返した。

「じゃあ、立花先輩が来るまで、先週のおさらいをしましょう! よーし、準備準備!」

 急にやる気を漲らせた藤内は、大張り切りで生首フィギュアの準備を始めた。やっといつもの藤内になったので、綾部は満足してうんうんと頷いた。

「……綾部先輩って、すごいんですね」

 背後からこっそりと、兵太夫にそんなことを言われた。綾部はくちびるを尖らせて瞬きを繰り返した。何が、と尋ねようとしたが、たまには先輩らしく威張るのも悪くないかなと思い、胸をそらして「すごいでしょう」と答えておいた。