■伊作くんは諸事情により欠席です■
「チェンジ」
と、曲者は開口一番にそう言った。そのまま保健室の戸を閉めようとするので、室内にいた食満留三郎は咄嗟に足を出してそれを阻んだ。
「……お客さん、ここ室町時代なんでね、それは出来ない相談ってもんですよ」
留三郎は障子に手を掛けてこじ開けようとするが、包帯だらけの曲者がそれを押しとどめる。それで、ふたりは障子の隙間越しに睨み合う格好となった。
保健委員長の善法寺伊作が所用で席を外している間、留三郎はひとりで保健室の留守を預かっていた。そこに件の曲者が、保健室の入り口から堂々と入って来ようとした、という訳だ。
「おまえ、タソガレドキの忍頭だな。雑渡昆奈門、とかいったか」
曲者はそれには答えず、はあ、と悩ましいため息をついた。
「あーあ、もう何なの。折角伊作くんに会いに来たのに、こんないかつい男子に出迎えられるなんて、ちょう最悪」
「その軽薄な物言いをやめろ。ていうか、伊作も大概いかついわ」
忍術学園の六年を舐めるなよ、と続けて留三郎は障子を引く手に力を込めた。しかし両者の力は完全に拮抗していて、障子はびくとも動かない。
「へえ、伊作くんて着やせするタイプなんだ。脱いだら凄いんだね」
「だからその、軟派な言い方をやめろ」
留三郎は眉間に力を込めて、雑渡を睨みつけた。
「きみ、あれだろう。食満留三郎くんだろう」
包帯の間から覗くまるい目を細くして、雑渡は楽しそうに言った。名を言い当てられても、留三郎は表情を動かさない。
「忍者がそうそう名を明かすと思っ」
「人の良さそうな、事務員さんが教えてくれたよ」
朗らかに言われて、留三郎は咳き込みそうになった。頭の中で、入門票にサインして下さあい、というあの間延びした声が再生される。あいつまじ殴る、と留三郎は胸中で絞り出した。
「ねえ、伊作くんは何処にいるの。きみ、用具委員でしょうに、何でこんなところに居るんだい」
「何で、そんなことまで知ってるんだ」
「何でだろうねえ」
首をゆるりと振って、曲者はとぼけてみせた。それも小松田が漏らしたのだろうか。それとも、タソガレドキが学園の内部を調査しているのか。
「……タソガレドキの忍頭が、伊作に何の用だよ」
「別に、用が無くても会いに来て良いじゃない」
「良いわけねえだろ」
「あっはっは、怖いなあ」
人を喰ったような笑いが、心底気に入らない。留三郎はぐい、と障子の隙間に膝を割り込ませた。
「……何故、伊作につきまとう。タソガレドキに引き抜こうとでも?」
留三郎のその問いに、雑渡は軽い口調で 「まさか」と即答した。
「だってあの子、向いてないもん。多分うちの気風にも合わないだろうし」
「それじゃあ、何で」
それならば何の目的があって伊作に近付こうとするのか、留三郎には全く理解が出来なかった。
「食満くんだって、心が荒んだときにアヒルさんボートの頭を撫でて、ふっと微笑んだりしてるじゃない。それと一緒だよ」
「なん……っ、何でそんなこと知っ……!」
思いもよらない部分を突かれて、つい留三郎は動揺を露わにしてしまった。障子を支える手が滑りそうになる。何故こいつがそんなことを知っているんだ。絶対に、誰にも見られていなかったはずなのに。
「はは、若いなあ」
雑渡は、いかにも楽しそうに笑った。それから、すぐに声を低くする。
「しかし、抜け目ない」
留三郎は何も言わなかった。曲者の目をじっと見返し、障子を掴む手に力を込める。雑渡は肩をすくめ、こう囁いた。
「もうすぐ、応援が到着しちゃうんだろう?」
留三郎は内心で舌打ちをした。ばれたか。しかし、これだけ露骨に時間稼ぎをしていれば気付きもするか、とも思う。
「それじゃあ、わたしはそろそろ帰るよ。別に、忍術学園と喧嘩しに来たわけじゃないし」
部下もおかんむりだろうしね、と続けて雑渡はついと障子から手を離した。留三郎が力を込めていた分、勢いをつけて障子が開く。身体の均衡を崩しそうになるのをどうにか踏ん張り、留三郎は雑渡に向かって素早く手を伸ばした。
しかしそれは、至極あっさりとかわされてしまう。
「伊作くんによろしく伝えておいてくれ」
そう言って、雑渡は足を一歩うしろに踏み出した。そして二歩目で、留三郎の視界から消えた。瞬く間に、彼の気配は空気に溶けて消えてしまう。留三郎は愕然とした。つい先程まで間近にいたのに、もう追跡出来る気がしない。畜生何処へ消えた、と留三郎が廊下に飛び出したところで、仙蔵に文次郎、それに小平太が走って来るのが見えた。
「留三郎、曲者は!」
先頭を走っていた小平太が声をあげた。留三郎は頭をがりがりと掻き、 「ああもう、来るのがおせえよ、お前ら!」と吐き捨てるように言った。しかし、悔しいがあの曲者には全て見透かされていたようなので、彼らがどれだけ迅速に到着しようと、どのみち逃げられていたような気もする。
「何だと! まんまと逃がしやがった癖に偉そうに」
文次郎の言葉に、留三郎はかちんときた。曲者とのやり取りで虫の居所が悪くなっていたこともあり、いつもより怒りの沸点が下がっているのが自分でも分かる。
「ああ? やるかコラ」
留三郎は拳を握り、挑発するように文次郎を睨みつけた。文次郎も闘志を漲らせ、袖をまくる。
「受けて立つぜ」
「やめろ馬鹿ども」
仙蔵が前に出て、留三郎と文次郎の頭を順にはたいた。ふたりが文句を言う間を与えず、腕を組んでこう続ける。
「ところで、伊作はちゃんと保護しているのか」
すると、小平太が勢いよく手を挙げた。
「ああ、ちゃんと落とし穴の中に保護しているぞ!」
「……小平太、それって……」
無邪気に告げる小平太に、留三郎、文次郎、仙蔵の三人はめいめい、口元に微妙な笑みを貼り付けた。深い穴に落ちゆく保健委員長の姿が、容易に想像出来てしまう。かわいそうな伊作。曲者に気に入られて穴に落とされて、本当に彼は不運だ。
「相変わらず良い落ちっぷりだった」
朗らかな暴君は、そう言って爽やかに笑った。三人はしばし、何も言わなかった。
「……まあ、長次もついていることだし」
気を取り直すように、仙蔵が言う。留三郎も気持ちを切り替えるためにひとつ息を吐き出し、身体の向きを変えた。
「じゃあおれ、伊作を迎えに行って来る」
「先生への報告は?」
文次郎の問いに、軽く手を振って 「その後で行く」と答えた。歩き出しながら、こう付け加える。
「まあ、もうご存知な気もするけどな」
「学園長は、何であの曲者を泳がしてるんだ」
文次郎がそう言いながら、後ろからついて来る。何でお前も来るんだと留三郎が言おうとしたら、仙蔵も同じ方向に歩き出しながら 「何か考えがあるのだろう」と呟いた。
「そういえば、留三郎」
今度は小平太がそう言って、軽快な歩調で留三郎の隣に並んだ。結局彼らは全員揃って、伊作を落とし穴から救出しにゆくことになった。
「何だ、小平太」
「時間稼ぎしてる間、曲者と何を話していたんだ?」
その問いを聞いて一番に、自分の秘密が暴かれたことが脳裏に蘇った。返答に窮してしまう。アヒルさんボートと食満留三郎。まさか見られていたなんて。
曲者と相対していたときは押さえていた羞恥と憤りが、不意に留三郎の身を突き上げた。彼は衝動的に文次郎の襟元を掴み、思い切り顔面を殴り飛ばした。ばちん、と肉を打つ音が廊下に響き渡る。
「い……っ、きなり何しやがる!」
突然殴られた文次郎は、怒りに目を燃え上がらせて留三郎につかみかかる。
「やかましい! 良いから殴らせろ!」
「何だとこの野郎!」
「おい、お前たち、喧嘩は報告が済んでからにしろ!」
仙蔵が声を張り上げ、そこに楽しそうな小平太が飛び込んでくる。
「おお! 二人ともやるか、やるのか! やるならわたしも混ぜろ!」
「小平太、事態をややこしくするな!」
こうして留三郎と文次郎、それに面白がって参戦した小平太の取っ組み合いが始まってしまった。忍術学園きっての武闘派三人の立ち回りはどんどん規模が大きくなり、騒ぎは実に夜まで続いた。
……もちろん、その間伊作は誰にも助けられないまま、小平太の掘った深い深い落とし穴の中で待機していたのであった。
戻
|