■おひさま■


  紙と墨の匂いが好きだ。静かで、適度に緊張した空気が好きだ。ほこりっぽいところも好きだ。何よりも、何も考えず文字のみに没頭出来る環境が好きだ。

 だから中在家長次は、頻繁に図書室に通った。忍術学園に入学して半年。彼は空き時間のほとんどをここで過ごしていた。

  本を読むのは楽しかった。兵法書から料理の本まで、手当たり次第何でも読んだ。文字を目で追っていると落ち着いた。知識が頭にしみこんでゆく瞬間は、他の何にも代え難い快感であった。静寂と本。それが長次の世界だった。

「長ー次ー!」

 荒々しく木戸を開ける音と甲高い呼び声に、長次の静かな世界は破られた。闖入者は、同じ一年ろ組の、七松小平太だった。長次の近くで自習をしていた上級生が、またかと言うように顔をしかめた。

「長次はっけーん!」

 小平太は、嬉しそうに長次を指さした。一体何をしたらそんなになるんだ、と尋ねたくなるくらい小平太は汚れていた。頭の先からつま先まで、泥まみれで真っ黒だ。目と歯の部分だけがぽっかり白く浮かんでいて、何とも異様な風体だった。まるで泥田坊のようだ。

 小平太がその格好のまま図書室に入って来ようとするので、図書委員の先輩が悲鳴じみた声をあげた。

「七松! 図書室に入る前に、風呂に入って来い!」

 手を洗って来い、と注意される生徒はよくいるが、風呂に入って来いと叱られる者は珍しい。小平太は、不満そうに顔をしかめた。

「ええー。別に、本を読みに来たわけじゃないんすよ! そこにいる、中在家長次に用があるだけで」

 小平太の声は、静かな図書室全体に響き渡った。その場にいた全員が、隅の方で本を読んでいた長次に視線を向ける。長次は黙って、本を閉じた。そこに、小平太の大きな声が降ってくる。

「長次! 長次! は組の伊作が落とし穴に落ちたぞ! 緊急出動だ! ほら行くぞ!」

「やかましい! 飛び跳ねるな!」

 先輩は、拳を固めて小平太の頭をごつんと打った。

「いってえ! 先輩だって、おっきな声出してんじゃん!」

 小平太は後頭部を押さえて、先輩を見上げた。先輩は何か言おうと口を開いたが思いとどまり、その代わりに深いため息を吐いた。それから、長次の方を振り返る。

「……中在家。あいつをなんとかしてくれ」

 長次は数秒沈黙し、立ち上がった。読みかけの民話集を書架に戻し、小平太のもとにのっそりと向かう。すると小平太は、この上なく表情を輝かせた。

「よーし長次! 行くぞ!」

 嬉しそうに言って、小平太は小さな手で長次の腕を掴んだ。ぐいと引っ張られて、長次の身体は前に傾いだ。

「行け行けー!」

 小平太は叫び、拳を突き上げて廊下を走った。





「おーい! 長次連れて来たぞー!」

 小平太は、学園長の庵の側で立ち止まった。池の横手に、大きな穴が空いている。善法寺伊作は、きっとその穴に落ちたのだろう。

「小平太、遅かったじゃないか」

 穴の中を覗き込んでいた一年は組の食満留三郎が立ち上がり、こちらを振り返った。そして、真っ黒になった小平太を見て、ぎょっとした表情になる。

「……ていうか、何だその格好」

「ごめんごめん! 途中で良い感じの水たまりがあって、遊んでたら遅くなった!」

 小平太は豪快に笑った。留三郎は、呆れたようにため息をついた。

「悪いな、長次。また、読書中に無理矢理引っ張られて来たんだろ?」

 留三郎の言葉に長次はゆっくり首を横に振り、穴に歩み寄った。中を覗き込む。かなり深い。底で、善法寺伊作がうずくまっているのが見える。伊作が顔を上げた。彼の大きな瞳と視線がかち合う。

「やあ、長次。……また落ちちゃった」

 伊作は土で汚れた顔に、照れ笑いを浮かべる。彼はほんとうによく穴に落ちる。注意力が散漫なわけでもないのに、何故か落ちる。たまたま印を付け忘れた落とし穴だとか、たちの悪い上級生のいたずらなんかに、ことごとく引っ掛かる。聞くところによると、彼は不運委員会と呼び声の高い保健委員の、期待の新星らしい。

 浅い穴なら自力で這い上がれるが、深い穴になると難しいし、体力のない一年生では上から引っ張り上げるのも大変だ。そこで、力のある長次が救出要員として呼ばれるのである。

  長次は首を二度鳴らして、懐から縄を取り出した。それを腰に巻き付けて、残りの部分を穴に垂らす。

「伊作、ちゃんと縄を握ったかー?」

 穴底に向かって留三郎が声をかけると、「持ったー!」という伊作の声が返って来た。長次は全身に力を込めて、縄を手繰り寄せた。

 程なくして、伊作の小さな手が地上に現われた。長次はそれを両手で掴み、ひょいと持ち上げて地面に下ろした。

 救出された伊作は長次の手が離れると、その場にへたり込んだ。

「ああ、死ぬかと思った!」

 大袈裟な声をあげる伊作の頭を、留三郎が指でつつく。

「そんなんで死んでたらお前、命がいくつあっても足りないだろ」

「でも本当に、落ちたときは死ぬかと思ったんだよ! 今日のは一段と深かったもん」

「あははは! 死ぬかと思った! 死ぬかと思った!」

 小平太は腹を抱えて大笑いし、伊作の言葉を真似する。長次は縄を回収して、きっちり結んで再び装束の中にしまいこんだ。

「伊作。怪我、してねえか」

 留三郎が、伊作の顔を覗き込んだ。伊作は朗らかな笑顔を返した。

「うん、大丈夫。ちょこっと擦りむいたくらい」

「あはは死ぬかと思った!」

「小平太、うるせえよ」

 留三郎は、いつまでも笑いやまない小平太の背中を平手で叩いた。すると小平太は、にいっと歯を見せて笑った。

「やったな留三郎! 喰らえっ泥アタック!」

「うわっ、きったねえ! 来んなよ!」

 小平太は大はしゃぎで留三郎に飛びかかり、全力で体当たりをした。留三郎の裏返った悲鳴が、辺りに響く。

「……長次、助けてくれてありがとう。いつもごめんね」

 身体についた土を払いながら、伊作は長次の顔を見上げた。

「…………」

 長次は口を微かに動かした。伊作は、きょとんとした表情になる。

「長次、今、何か言った?」

 尋ねてみても、長次は何も言わない。代わりに、留三郎を押さえ込んでいた小平太が声をあげた。

「気にしなくて良い、大きな怪我がなくて何よりだった、って言った!」

「小平太! いい加減どけよ!」

 小平太の下で、留三郎がわめく。

「ほんとに、そう言ったの?」

 疑わしげな口調で伊作が小平太に確認すると、彼は留三郎から身体を離し、

「ほんとだよなー! 長次!」

 と寡黙な同級生に向かって言った。長次は静かに頷いた。

「小平太、すごい」

 伊作はすっかり感心し、嘆息を吐いた。小平太は誇らしげに胸をそらす。

「よーし! そんじゃ泥遊びしに行こうぜ!」

 小平太の提案に、は組のふたりは「ええー」と不満の声をあげた。

「やだよ。お前、手加減しねえんだもん」

「ぼくは、保健室で消毒してもらいに行かないと」

「何だよー。長次は行くよな!」

 そう言って、小平太は勢いよく長次を振り返った。留三郎と伊作は、ふたりして苦笑いを浮かべた。

「いや、長次は行かないだろ」

「うん、長次は行かないと思う」

「行こうぜ、長次!」

 小平太は長次の袖を掴み、きらきら光る瞳で彼を見上げた。長次はしばし小平太の目を見つめ、やがて無言で頷いた。

「ええええっ!」

 留三郎と伊作は、同時に驚愕の声をあげた。小平太は大喜びで長次の腕にまとわりつき、彼の背中に飛びついた。

「ちょ、長次、泥遊び、するの……?」

 おずおずといった風に伊作が言うと、長次はもう一度深く頷いた。伊作と留三郎は口を開けたまま固まった。

「長次、おんぶ! おんぶ!」

 小平太の催促に、長次は彼の足をひょいと抱え上げ、そのまま歩き出した。背中にしがみついた小平太が、キャーと少女のような歓声をあげる。

「長次いけいけ! どんどーん!」

 その掛け声に、長次は走り出した。小平太の、歓喜の声が更に大きくなる。

「……ろ組って、分かんねえよな……」

「うん……」

 留三郎と伊作は、半ば呆然とした面持ちで小平太と長次を見送った。でこぼこな二人組の姿はあっという間に見えなくなった。