■黒木庄左ヱ門に見られている■
不破雷蔵はここのところずっと、何者かの視線に悩まされていた。
見られている。何がしたいのか分からないけれど、見られている。その人物は放課後になると現れ、物陰に潜んで雷蔵のことをじっと観察するのである。学内であれば、何処へでもついて来る。校外に出たら、離れてゆく。その視線に悪意や敵意は感じない。ただじっと、こちらを見ている。それだけである。
「…………」
雷蔵は落ち着かない心持ちで、書架から図書を一冊抜き取った。今も、図書室の棚の向こうから見られている。
実のところ雷蔵は、観察者が誰なのか分かっていた。一年は組の学級委員長、黒木庄左ヱ門である。
彼が優秀とはいえ一年生、気配は消し切れていないし、時折、姿がちらりと見えたりもする。危なっかしい監視に、何だかそわそわしてしまうのだった。
撒こうと思えばすぐに撒けるのだけれど、人の好い雷蔵はそれが出来ない。それに、目的が分からないのがいささか不気味でもあった。自分などを観察して、どうするのだろう。課題だろうか、と思ったけれど、一年は組の他の良い子たちは、放課後は運動場で元気に遊んでいる。庄左ヱ門だけが雷蔵の元にやって来て、付かず離れず、雷蔵を盗み見ているのである。そして、夕食時になるとさっといなくなる。
……指摘した方が、良いのかなあ。
雷蔵の、目下の悩みはそれであった。彼の監視に気付いていることを、本人に告げても良いものかどうか。課題でなくても、自習の一環として雷蔵をつけ回しているのならば、もう少しやり方を考えた方が良いよ、と助言してやった方が良い気がする。しかし、それが逆に彼の向学心に水を差す結果となってしまったらどうしよう。いやいや、もしかしたら、彼は自分に何か言いたいことがあるのではないか。いいや、もしくは……。
「やあ、雷蔵」
そこに、間延びした声が響いた。顔を上げてそちらを見る。鉢屋三郎だった。
「三郎」
雷蔵は目をぱちぱちさせた。そして、そうだこいつが居た、と思った。
三郎と庄左ヱ門は、同じ学級委員長委員会に所属している。そして、三郎は人をからかうことが何よりの楽しみ、という人間である。成程、こいつが噛んでいるのか。そう考えれば、すべての辻褄が合う。三郎の目的は分からないけれど、どうせ下らない目論見を携えているに違いない。
そんな考えに至った雷蔵は、腕を伸ばして三郎の胸ぐらを掴んだ。三郎の目がまんまるになる。
「わ、何だよ、乱暴だなあ」
「……三郎、ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
庄左ヱ門の耳に入らないよう、雷蔵は小さな声で囁いた。三郎は、「何だい、もっと優しくしておくれよ」なんて、にやにや笑う。
「お前、庄左ヱ門に何を吹き込んだんだ」
彼の軽口は無視してひくく尋ねると、三郎は小首を傾げた。まるきり幼子みたいな仕草だった。
「庄左ヱ門?」
「とぼけるなよ。色々考えたけれど、お前の差し金としか思えない」
「雷蔵、急ぎすぎだよ。どういうことなのか、最初から話してくれ」
三郎は、飽くまでしらばっくれるつもりのようだった。雷蔵は苛立ちをおぼえたが、此処で声を荒げてしまえば庄左ヱ門に聞かれてしまうし、図書委員長の中在家先輩にも私語がばれてしまう。図書室は私語厳禁。飽くまでも、他に聞こえないくらいの声で会話しなくてはならない。
「棚の向こうに、庄左ヱ門がいる」
「いるねえ」
「この間から、ずっとだよ。ずうっと、ぼくの後をつけ回しているんだ」
「彼もなかなか、やるね」
三郎はのんびり頷く。なんて見え透いた態度だろう、と雷蔵はますます腹が立ってきた。思わず早口になってこう言った。
「だから、それは、お前が指図しているんだろう」
「まさか」
三郎はすぐさま首を横に振った。この期に及んでまだ認めない。雷蔵は眉根を寄せ、「そんなことを考えるのは、三郎くらいだ」と言い張った。
「酷い言い様だなあ」
変わり者のの変装名人は息を吐き出し、襟元にかかる雷蔵の手をほどいた。そして気取った仕草で顎を上げる。
「おれは何もしていないし、庄左ヱ門をけしかけたりもしていないよ」
「またそんなことを……」
「本当だったら」
「お前は嘘つきだから、信用ならない」
「本当に、本当だよ」
三郎はしつこかった。頑として、否定し続ける。そして、こうしている間にも、庄左ヱ門の視線が気になって仕方が無い。雷蔵は目の前にいる男を睨み、「本当に?」と尋ねた。
「本当に」
一文字ずつ噛み締めるように言って、三郎はふかく頷く。それでもまだ信用出来なかったので、雷蔵は「何か賭けるかい」と畳みかけた。そうしたら、すぐさま三郎はこう返して来た。
「素顔を賭けよう」
「…………」
雷蔵は黙った。予想外の返答だった。素顔を賭ける。それを持ち出されては、雷蔵には返す言葉が無い。心の中で膨らんでいた、猜疑心だとか苛立ちだとかが一気に萎んでゆく。信用するしかない。彼は、何も知らない。
どうやら、雷蔵の予想は外れていたらしい。絶対に、三郎が噛んでいるのだと思っていたのに。
「……本当に、お前は無関係なのか」
それでも尚信じ難く、今一度確認する。三郎は、今度は困り顔になって軽く笑った。しつこいなあ、と言われている気がした。しかしそれも全て三郎の、日頃の行いの賜物である。
「だから最初から、おれは知らないと言っているじゃないか」
「じゃあ、どうして……」
「さあ、それはおれにも分からないよ」
いよいよ手がかりがなくなってしまった。雷蔵は、口元に手を当てて考え込む。まだ、庄左ヱ門は雷蔵のことを窺っている。本人に訊けば早いのだけれど、訊いても良いのだろうか。下級生の考えていることはよく分からない。年長者が踏み込んではいけない領域だったらまずいし……。
「あ、だけど、ひとつだけ心当たりがある」
不意に三郎が言った。雷蔵は思考を中断させる。
「それは何だい?」
「……雷蔵、少し目を閉じて」
神妙な顔で言われ、雷蔵は素直に目を閉じた。
視界がすっかり暗くなってから、おかしい、ということに気が付いた。今の話の流れで、どうして目を閉じろ、なんて話になるんだ。妙だ。おかしい。何となく勢いで彼の言葉に従ってしまったけれど、こんなの、無意味だ。
そういう訳で雷蔵は、ぱちんと瞼を持ち上げた。そうしたら何故か、額が擦れそうな距離まで三郎の顔が迫っていて心臓がびくりと跳ねた。彼は日頃から平常心を保つ訓練をしている訳だが、それでも驚いた。しかし、声を上げなかっただけましだと思うことにする。
「ああ、駄目じゃないか、雷蔵。目を開くなんて無粋な真似をしては」
至近距離で三郎が囁く。息が口元にかかってむずむずした。まったくもって、意味が分からない。
「いや、三郎、何……」
この行動の意味を尋ねようとしたら、三郎は雷蔵の肩に手をのせ、そっと唇を重ねてきた。
「…………」
数拍ののち、やわらかな感触は離れてゆく。
雷蔵は、ぽかんとして三郎を見つめた。
「……は?」
間の抜けた声が唇から漏れる。頭の中は真っ白だった。何も考えられない。
「いや……三郎、今のは一体……」
そう言いかけるのと同時に、書架の向こうに潜んでいた庄左ヱ門の気配が動いた。
ばたばたばた、がつっ、どたんっ
「あ、転んだ」
三郎は軽く笑った。そこで雷蔵は我に返る。今の音は、確かに転んだ。しかも、派手に。
「しょ、庄左ヱ門!」
雷蔵は大慌てで、後輩の元に駆け寄った。三郎が笑い声をあげる。
床で額をしたたか打ち付けて涙目になっている庄左ヱ門を助け起こしつつも、雷蔵は胸の内で同じことばかりを繰り返していた。
今のは一体何だ?
今のは一体、何だったんだ!?
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このお話はるーしーさんに捧げます!
鉢雷+庄ちゃんは∞(インフィニティ)ですねまったく!
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