■満ちる、満ちる、満ちる(三郎)■


 だってきみがいる前で、あの男に頭を下げられるわけがないじゃないか!!

 六年長屋の廊下をひとり歩きながら、三郎は心の中で叫んだ。自然、足音が荒々しくなる。雷蔵は何も分かっていない。いや、分からなくて良いのだけど。むしろ三郎自身が隠しているのだけれど。

 しかし中在家とふたりきりになるのも、それはそれで嫌だった。何が悲しくて、あの可愛げも何も無い仏頂面と一対一で向き合わねばならんのだと思う。しかも奴は声が小さいので、会話をしようと思ったら無駄に神経を使わなくてはならない。

 口から吐息が漏れた。ああどうして、よりにもよって中在家長次に助けられてしまったのだろう。あの男に借りを作るなんて、一生の不覚だ。面倒くさいことこの上ない。

 今ここに、どっかの軍勢が攻め込んで来たりしないかな。学園を総動員しなければならないくらいの、大きな危機が迫れば良い。そうすれば、中在家の部屋まで行かずに済むのに。もしくは学園長がまた何か、はた迷惑な行事でも突然思い付けば良い。全校徹夜マラソン大会とか。今なら、大喜びで参加しよう。

 ……そんな子どもじみたことを考える三郎であったが、非情にも学園内に流れる空気は静かかつのどかで、平和そのものであった。敵襲を告げる鐘が鳴る気配も、全校生徒集合の合図が上がる兆しも何もない。

 それに雷蔵に泣きそうな顔をされてしまったので、ここで逃げるわけにはいかないのであった。

  あーあ。




 中在家の部屋に近付くにつれ、三郎の歩調は遅くなった。数歩歩いては溜め息と共に立ち止まり、また歩き出しては立ち止まり……を繰り返す。嫌だ。やっぱり行きたくない。三郎は、引き返したくて仕方がなかった。忍術学園に入学して、一番気が重い瞬間かもしれない。

 しかし、ここでちゃんと中在家に礼を言ったら、きっと雷蔵は笑ってくれる。褒めてくれる。そうに違いない。その為に頑張れ、と自分を必死に鼓舞して足を動かす。

 目的地まで数歩の距離まで近付いたところで、丁度部屋から出て来たところの七松小平太と遭遇した。そういえばこの人と中在家先輩は同室だっけ、と思いつつ三郎は会釈をする。

「よお! 長次に用か?」

 七松は三郎の顔を見ると、軽快に手を挙げた。三郎が返事するよりも早く、彼は部屋の中に顔を突っ込んで大声を張り上げた。

「長次ぃー! お前んとこの五年が来てるぞー!」

 ヒトのものとは思えない、腹の底に響く声だった。まるで獣の咆哮のようだ。余りの騒がしさに、三郎は顔をしかめた。中在家が部屋の中にいるのなら、小声で言っても聞こえるだろうに。

 また、七松の物言いが気に食わなかった。雷蔵と自分を間違えるのは良い。が、雷蔵のことを「お前んとこの五年」とは何だ。同じ委員会の、という意味合いだと分かっていても、何となく腹が立つ。まるで雷蔵が、中在家のものみたいじゃないか。

「……七松先輩、鉢屋です」

 笑顔で訂正すると、七松は「ん?」と首を傾げた。

「鉢屋、三郎です」

 三郎は再度、ゆっくりと名乗った。

「あー」

  と七松は頭を掻き、再び勢いよく部屋の中に顔を突っ込んだ。

「長ー次ー! 図書のじゃなくて、変装の奴だったー!」

「いや、わざわざ言わなくても、聞こえてると思うんですけど」

「入って良いってよ!」

 三郎の言うことを全く聞かず、暴君と呼ばれる体育委員長は楽しそうにこちらを振り返った。

「あんまうるさくすんなよ! 長次はうるさいの、嫌いだからな!」

 全く説得力のない科白と共に、七松は親指を立てる。呆れるほどに、良い笑顔であった。内に芽生えた思いは横に置いておいて、三郎は「はい」と頷いた。何だかもう、突っ込む気にもなれない。七松は満足そうに頷いて、いけいけどんどん、とわめきながら何処へかと走って行ってしまった。登場から退場まで、全てが騒がしい男であった。

 三郎は息を吐いて、中在家の部屋に身体を向けた。七松が障子を開けっ放しにして行ったので、部屋の中が見える。

  本、本、本。大量の書籍が、部屋からはみ出しそうだった。中からは、紙と墨の匂いがする。それは雷蔵の匂いと同じで、ただでさえ芳しくない彼の機嫌が更に悪くなった。

「……失礼します、鉢屋です」

 昂ぶりそうになる感情を必死で抑えて、三郎は部屋の中に入って障子を閉めた。中在家は読みかけの本から顔を上げた。三郎はさりげなく視線を走らせ、彼の読んでいる本の題を盗み見た。この朴念仁はどうやら、歌集を読んでいるらしい。舌でも出してやりたくなった。

 中在家の正面にどすんと腰を落とし、三郎は勢いよく頭を下げた。ここまで来たらもう、嫌なことは素早く済ませてしまうのが良い。

「先日はどうもありがとうございました中在家先輩のおかげで助かりました」

 三郎は一息で言い切った。

 言った。ちゃんと言った。頑張った。頑張った! 頑張ったよ雷蔵、おれを褒めて!

 大きな達成感に三郎が浸っていると、中在家が何かを言った。が、声が小さすぎて全く内容が聞き取れなかった。

「……なんですか、中在家先輩」

「…………」

 中在家はもう一度繰り返したようだったが、やはり何を言っているのか分からなかった。この間はちゃんと聞こえたのに、と三郎は思ったが、あのときは中在家の背におぶさっていて至近距離だったから苦もなく聞き取れたのだ、ということに気が付いて嫌な気分になった。油断すると、中在家の腕や背中の感触が蘇りそうになる。最悪だ。

「……足の具合はどうだ」

 ようやく、彼の言葉を聞き取ることが出来た。

「お陰様で」

 三郎は、短い返事を返した。

「先輩こそ、お怪我の具合は」

 ついでに同じことを聞いておくと、 「問題無い」と低い声が返って来た。今度は、一度で内容を把握することが出来た。

「かーっこいいー」

 三郎は眼を細め、口笛を吹いた。中在家は何も言わず、本に視線を落とした。それからまた、ぼそりと何かを口にする。

「聞こえません、中在家先輩」

「……不破に会えて良かったな、と言った」

 声の音量は先程と大して変わらないのに、今度は三郎の耳に真っ直ぐ言葉が滑り込んで来た。

 小馬鹿にされているような気がして、一瞬で頭に血が上った。こめかみに力を込めて表情を変えないよう努める。胸で渦巻く黒い嵐をどうにか鎮めるべく、全神経を集中させた。

 この男は、おれを怒車の術にかけようとしているのだろうか、と半ば本気でそう思った。それほどまでに、いつだって中在家は三郎の逆鱗を的確に狙う。

「……失礼します」

 三郎は静かに頭を下げ、なるべく中在家の顔を見ないようにして立ち上がった。目を合わせたら、殺してしまいそうだ。

 そのまま部屋を出て、真っ直ぐ前を見て来た道を戻る。身体の奥底で言いようのない破壊衝動が膨らんで、どうにかなりそうだった。壊したい。何でも良いから、壊したくて仕方がない。歩きながら、手のひらに視線を落とす。

 壊したい。片っ端から。この手ならば、それが出来る。

 ……通路の角を曲がると、雷蔵が縁側に腰をかけて眠っているのが見えた。首を傾け、気持ちよさそうな表情で目を閉じている。幸福そうな寝顔だった。

  三郎はその寝顔に見とれた。無意識の内に、自分の頬に手を触れる。雷蔵と全く同じ曲線を持つ輪郭だ。瞬時に、彼の内側に生じていた黒い衝動が、すうっと引っ込んでいく。まるで、夢から覚めたような気分だった。

  ……ああ、なんて愛しいんだろう。だけど、三郎は雷蔵のために頑張って来たのに、眠ってしまうなんて酷い。

 雷蔵は時折頭巾を揺らめかせ、穏やかに眠っている。三郎は、彼に触れたくて仕方がなかった。そっと彼に近付いて、あの身体を抱きしめることは可能だろうか。あの頬に、唇に触れることは許されるだろうか。

 そんなことを考えながら足を踏み出すと、雷蔵が目を開けた。

  三郎はがっかりした。だけど当然だ。彼も忍者のたまごなのだから、他人の気配を感じ取れば目を覚ますに決まっている。

「やあ、お帰り」

 雷蔵は、邪気のない笑顔を向けてきた。三郎は胸に圧迫感を覚えた。泣きそうになるのをぐっとこらえ、目を細めて「鉢屋三郎っぽく」笑ってみせる。

「上級生の長屋でうたた寝なんて、雷蔵は度胸があるな」

 そう言うと、雷蔵が照れくさそうに咳をする。三郎は、手のひらを握りしめた。

 あーあ。

 あーあ!