■満ちる、満ちる、満ちる(雷蔵)■


「ほら、三郎。早く」

 雷蔵は三郎の手を引き、六年生長屋の廊下に足を踏み出した。

「良いよ。本当にもう、良いって」

 三郎は足を踏ん張って、無理矢理引っ張って行こうとする雷蔵に抗う。雷蔵は三郎を振り返った。子どものように愚図る友人に、呆れて眉を寄せる。

「何が良いんだよ。ちゃんと中在家先輩にお礼を言わないと。お世話になったんだから」

 三郎が負傷し、中在家と共に帰還してから十日が過ぎた。まだ完治とは言えないが、彼の怪我も大分癒えてきていた。

 ……帰って来たときの三郎の様子は本当に酷くて、見ているのも辛いくらいだった。泥と血で汚れた蒼白な顔。雷蔵の手を握る、冷たい手。あのときの三郎を思い出すと、今でも雷蔵は胸の底が冷たくなる。

「もう良いよ、雷蔵。帰ろう」

 照れているのか何なのか、三郎は中在家に会いに行くのを異常なまでに嫌がっていた。部屋を出るときからずっと、嫌だ嫌だ帰る戻るとうるさくて仕方ない。しかし雷蔵は、何があっても絶対に譲らないつもりだった。命を助けて貰ったのだから、礼を言うのは当たり前だ。

「駄目だよ。絶対に、行くんだから」

「言った。お礼なら、もう言ったよ」

 適当なことを言って雷蔵の手を振りほどこうとする三郎を、思い切り睨みつけた。

「嘘ばっかり。一体、何時言ったんだよ」

「ほら、保健室に運ばれるときに」

「そのとき、三郎は気を失ってたろう!」

 底の浅い嘘を一蹴し、雷蔵は両手で三郎の思い切り手を引っ張った。

「雷蔵、痛いよ……!」

 訴えるような声をあげる三郎に、雷蔵ははっとして手の力を緩めた。怪我に障っただろうか、と心配になる。その隙に三郎が素早く踵を返して逃げようとしたので、雷蔵は彼の首根っこを引っ掴んた。

「三郎!」

「いやだ! 帰る!」

「だーめ、って言ってるだろ!」

 段々、子どもを叱りつける母親のような心境になってきた。時折廊下を通る六年生たちが、何をやってるんだこいつらは、とでも言いたげな視線を彼らに注ぐ。

「一体、何がそんなに嫌なんだ」

 問うと、三郎は襟元を掴まれた格好のまま、「嫌なものは嫌なんだ」と憮然とした口調で言った。まるっきり、駄々っ子だ。日頃、鉢屋先輩は変装の天才だ凄いやかっこいい、と彼を憧憬の眼差しで見つめる下級生たちに、この姿を見せてやりたい。

「……大体、どうしてきみがついて来るんだ」

 三郎はそう言ってくるりと身体の向きを変え、雷蔵と顔を合わせた。

「おまえが、行きたくない、ってダダをこねるからだろう」

 雷蔵は、三郎の目をじっと見つめた。自分と同じ色の瞳がこちらを見返してくる。ふたりはしばらくそのまま見合っていたが、やがて三郎の方が観念したように目を伏せた。

「……分かったよ」

 しっかりと三郎が頷いたので、雷蔵は安堵した。

「ちゃんと中在家先輩に礼を言うよ。だからきみは戻って良い」

 三郎の言葉に、雷蔵は首を横に振った。

「いいや、ぼくもついて行く」

「おれは随分と、信用がないんだな」

「日頃の行いだよ」

「酷いなあ。わたしはこんなにも誠実に、日々を生きているというのに」

「三郎」

 茶化すような口調の三郎に、雷蔵は語気を強くした。三郎は口を閉じ、笑みを引っ込める。

「……おまえが、中在家先輩のことを苦手に思っていることは知ってるよ」

「……」

 三郎は押し黙った。何か言いたげな表情であったが、何も言わない。

「だけど、三郎」

 雷蔵の脳裏に、自身も傷付き血の匂いを纏いながら、三郎を背負って学園まで歩いて来た中在家の姿が蘇る。

「中在家先輩は、おまえを助けてくれた人なのだから」

 そう言うと、三郎は深く深く息を吐き出した。

「……分かった、分かった」

 降参だ、と言うように彼は両手を挙げた。それからもう一度息を吐き出し、中在家の部屋に向けて歩き出す。雷蔵もその後ろについて行こうとしたら、三郎がこちらを振り返った。

「心配しなくても、逃げないよ」

「うん、分かってるよ。だけどぼくも、中在家先輩にお話があるから」

 微笑むと、三郎は一瞬だけ面白くなさそうな顔になった。しかしすぐに普段通りの顔つきに戻り、こう言った。

「それなら、おれの話が済むまでここで待っていてくれ。付き添いがないと、礼のひとつも言えない男だと思われたくない」

 ついつい、雷蔵は吹き出しそうになってしまった。先程まで、行きたくない帰る帰るとごねていたのは、誰だっただろう。

「分かったよ。待ってる」

 笑いをこらえ、頷く。全く、三郎は見栄っ張りだ。

 三郎は背筋を伸ばし、長屋の廊下を歩いて行く。雷蔵はそれを見送り、縁側に腰を掛けた。

 空が青い。そよぐ風が心地よい。あの日と全くの正反対だ。

  三郎は、きちんと中在家先輩にお礼が言えるだろうか。何だかんだ言って先輩には礼儀正しく振る舞う男だから、大丈夫かな。大丈夫だと良いな。……足、まだ痛そうだった。実技の授業にはもう参加しているけれど、やっぱり早かったんじゃないだろうか。今度新野先生と、善法寺先輩に相談してみよう。それにしても三郎は、何だってあんなに嫌がるんだろう。ちょっと行って、先日は有難うございました、って言うだけじゃないか……。

 そんなことをつらつら考えていたら、段々眠くなってきた。あまりに天気が良いせいだ。思わず欠伸が口を突く。雷蔵は、目を閉じた。





 人の気配を感じ、雷蔵は目を覚ました。そちらに視線を向けると、三郎がこちらに向かってゆったりと歩いてくるのが見えた。もう話は済んだらしい。一体どれくらい眠っていたのだろう。

「やあ、お帰り」

 片手を上げて声をかけると、三郎はいたずらっぽく笑った。

「上級生の長屋でうたた寝なんて、雷蔵は度胸があるな」

 ばれていたらしい。雷蔵はほんの少しきまりが悪くなって、咳払いをした。

「……三郎、ちゃんとお礼言えた?」

 立ち上がってそう尋ねると、三郎は眉をしかめて、むっとした表情になった。

「それくらい言えるよ。雷蔵はおれを何だと思ってるの」

 意地っ張りで聞き分けのない駄々っ子だと思ってる……とは言わないでおいた。

「それじゃあ、今度はぼくが中在家先輩のところに行って来るね」

「ああ、おれは先に戻っているから」

 三郎の言葉に雷蔵は頷き、中在家の部屋に向かって歩き出した。





「不破です。失礼してもよろしいでしょうか」

 中在家の部屋の前に立ち、雷蔵は言った。返事はない。中在家の沈黙は、肯定の合図だ。雷蔵は、障子を開けた。紙と墨の匂いが鼻をかすめる。図書室と同じ匂いだ。雷蔵は、この匂いが好きだった。

 中在家の部屋は、本だらけだ。そこかしこに本が山の如く積み上げられており、その中心で部屋の主はひとり、本を読んでいた。

「お邪魔します、中在家先輩」

 声をかけて部屋の中に入ると、中在家はちらりと顔を上げた。いつもと変わらぬ無表情だが、機嫌は悪くないようだった。五年も同じ委員会で一緒に過ごしているので、大分彼の表情も読めるようになった。

 どうやら三郎は中在家の機嫌を損ねるようなことはしなかったらしい。雷蔵はほっとした。

 雷蔵は手早く自分の用件を告げるべく、その場で正座をした。

「……この度は鉢屋を助けて下さって、有難うございました」

 床に手を突き、深々と頭を下げた。額を床板につけ、そのままの姿勢で静止する。

「……頭を上げろ」

 中在家の声に、雷蔵はゆっくりと頭を持ち上げた。中在家は本を机に伏せ、静かにこちらを見ていた。雷蔵はそっと、胡座を組んでいる中在家の足を見る。

「あの……お怪我の具合は如何ですか」

 尋ねると、ほとんど間髪を入れずに答えが返ってきた。

「問題無い。元々軽傷だった」

 嘘だ、と雷蔵は唇を噛んだ。あの傷で人ひとり抱えて雨の中、山を越えたなんて信じられない、と新野先生が驚嘆していたのを雷蔵は知っている。どう考えても、中在家の行動は無茶であった。

 ああ、だけど、だけど。勝手だとは思うけれど、無茶をして下さって有難うございます。三郎を助けて下さって、有難うございます。有難うございます。有難うございます。

 雷蔵は胸が熱くなり、心の中でもう一度、中在家に頭を下げた。

「お身体、お大事になさって下さい……」

 その呟きに、中在家は軽く頷いた。本当に、何でもないような仕草だった。

「……では、ぼくはこれで失礼致します」

 それだけ言うつもりだったので、雷蔵は立ち上がって部屋を出ようとした。そこを、「不破」と呼び止められる。雷蔵は振り返った。中在家は片手を顎に当て、何かを考えているふうであった。

「不破は、鉢屋のことを可愛いと思うか」

「は……えっ?」

 あまりに突拍子もない発言に、雷蔵は目を見開いた。三郎が可愛いか……と言ったのだろうか、この人は。

 えっ何で? 何でそんな話に? そんな流れだったっけ?

 雷蔵は、すっかり混乱してしまった。頭の中が真っ白になって、何も考えられない。混乱している内に、中在家が本当にそのように言ったのか、自信が無くなってきた。もしかして、自分の聞き間違いではないのか。

「さ、三郎が、可愛いか、ですか?」

 声を引っ繰り返したり詰まらせたりしながら確認してみると、無言の頷きが返って来た。残念ながら、聞き間違いではなかったらしい。

 三郎が可愛いかどうかなんて、意識したこともなかった。鉢屋三郎は気の合う友達で、手の掛かる同級生で、頼りになる仲間だ。その三郎が可愛いか否か。

 雷蔵は、三郎の顔を思い浮かべた。自分の顔だ。それを可愛いかどうかと尋ねられても困る。いや、顔の話ではないのだろうか。性格が可愛いかどうか、ということか。

 そう考えてみても、どうにも答えられなかった。可愛い性格って何だ。どういうのを、可愛い性格って言うんだ。雷蔵は口をぱくぱくさせた。喉に空気がどんどん入って来る。

 何だ。この質問は一体何だ。そもそも、可愛いって何だ。ああもう、何だか全てが分からなくなってきた。

「……か、考えたこと、ありません」

 雷蔵は俯き、正直にそう言った。すると中在家は「そうか」と素っ気なく頷いた。それきり彼は黙ってしまったので、雷蔵は余計混乱した。この無口な上級生の真意が、全く掴めない。感情を読ませないという点では、彼は完璧な忍者であると思う。

 しかし、中在家は何故そんなことを尋ねて来たのだろう。何よりも、雷蔵はそこが分からなかった。

 ……あ、も……もしかして……?

 雷蔵はひとつの答えに行き当たった。信じがたいが、これしか考えられない。確かめるのが怖かったが、どうにも気になるので恐る恐る雷蔵は口を開く。

「な……中在家先輩は、鉢屋のことを可愛いと、思ってらっしゃる……んですか?」

 口にしてから、雷蔵は無性に恥ずかしくなった。どうして自分がこんなにも照れているのだろう。

 中在家は顎を引き、しばらく真剣な表情で考え込んだ。そして、ぽつりと呟いた。

「……変装をしたいとは思わないな」

「はい?」

 その答えに、雷蔵の声は更に引っ繰り返った。変装? また、違う方向に話が飛んだ。そしてやはり、意味が分からない。図書委員長は、こんなに支離滅裂な人だっただろうか。

「……いや、良い。おかしなことを聞いて、済まなかった」

 中在家は小さな声でそう言い、手をひらりと振った。もう行って良い、という意味らしい。しかし雷蔵は、しばしその場から動けなかった。中在家との会話が頭の中を旋回していて、まともな思考が働かない。数秒間固まった後、彼はようやく我に返った。

「し、失礼いたしました……!」

 頭を下げ、逃げるように部屋を後にする。

 廊下に出ると、一番最初に青空が目に入った。さえざえとした、痺れるような青だ。その色を見つめていると、何だか胸がどきどきした。雷蔵は心臓を押さえ、深呼吸をした。

 中在家先輩は、三郎のことが好きなんだろうか……?

 まさか、という思いと、ならば何故急にあんなことを聞いたのか、という思いが同時に襲ってきて、雷蔵は咳き込みそうになった。

 空が青い。そよぐ風が気持ち良い。三郎は可愛いのかどうか。

  ただ一言お礼を言いに行っただけなのに、何故こんなことになったのだろう。

 雷蔵は首を傾げ、廊下を歩き出した。胸のどきどきは、まだ続いていた。