■幾つもいくつも■


 試験で零点を取ったら先生に呼び出されて殴られた。拳で思い切りである。

 しかも、それだけでなく、雷蔵にまで殴られた。

「……理不尽にも程がある」

 自室に戻ってぱんぱんに腫れた両頬を手ぬぐいで冷やし、鉢屋三郎はひくく呻いた。すっかりみっともない風体になってしまった。

  雷蔵は眉を寄せ、軽蔑しきった目でこちらを見ている。

「今すぐ図書室に行って、理不尽という言葉を字引で調べておいで」

「だって、この答案で零点なのが、そもそもおかしいじゃないか」

 三郎は、授業中に返却された答案を床に広げてみせた。皺の寄った紙には、朱色の丸がいくつも踊っている。雷蔵は、それに視線を落とし、深く頷いた。

「そうだね。解答は、全問正解だね」

「だろう?」

 おかしいじゃないか、と続けようとすると、雷蔵が唐突に「ところで、お前の名前は何だっけ」なんてことを言い出した。三郎は胸の前で手を組み、露骨に哀れっぽい表情をつくった。

「酷い、雷蔵。おれの名を忘れてしまったのかい」

 悲しげな振る舞いを見せても、雷蔵はちいともなびいてくれない。怒りさえ含んだ声で、「良いから、名乗ってみろよ」 と、三郎を促すのである。だから仕方なく、三郎は答えた。

「鉢屋三郎だよ」

「では、ここになんと書いてあるか、読んでご覧よ」

 雷蔵は難しい顔で、三郎の答案の、名前欄を指さした。三郎は答案を拾い上げ、顔を近付けてそこを見た。

「ええと……不破雷蔵、と書いてあるねえ」

 墨でしっかりと書かれた文字を読み上げると、雷蔵は手のひらで三郎の頭をぱしりと叩いた。三郎の口から「いたっ」という悲鳴が漏れる。

「どうして、ぼくの名前を書いたりしたんだよ! そのせいで、ぼくまで呼び出されたじゃないか!」

 そう、『不破雷蔵』と書かれた答案が二枚あり、鉢屋三郎の答案が無いというので、三郎と雷蔵は揃って先生に呼び出されたのであった。また、三郎が雷蔵の筆跡を真似て解答していたものだから余計にややこしく、それで三郎は先生と雷蔵から、いつもよりきついお叱りを受けたのだった。

「だって、書きたかったのだもの」

 素直に申し出たら、再度、ぶたれた。痛い。

「お前がばかなことをするから、物凄く、それはもう本当に、恥ずかしかったんだぞ」

  雷蔵は頬を赤くした。恥じらう雷蔵があまりに可愛かったので思わず笑うと、もう一度頭を叩かれた。

「痛いよ雷蔵……!」

「痛くしているんだ。どうして真面目に試験を受けないんだよ」

 その話はもう、先生から何百回と聞いた。雷蔵からも同じ話を聞きたくはなかったので、三郎は「真面目だとも。おれは大真面目だ」と早口で言ってその話題を終わらせようとした。

「また叩かれたいかい」

 雷蔵は目を怒らせた。まだ、顔がほんのりと赤い。可愛い雷蔵、と三郎は声には出さず心で呟いた。それから、雷蔵に顔を近付けてかれの目をじいと見つめた。

「だって、たまに、自分が誰だか分からなくなるんだ」

 その言葉で、雷蔵は振り上げた手を止めた。目尻から、彼の怒りが抜けてゆくのが見える。そんな雷蔵が一層いとしくなって、三郎は口の端を持ち上げた。

「他人の顔を借りすぎた。今まで冗談で、おれは自分の素顔を忘れてしまっただとか言っていたけれど、近頃では冗談ではなくなってきた」

「……三郎……」

 雷蔵はそこまで言って、口を閉じた。三郎は雷蔵のまるい目から視線を外さず、続ける。

「おれの本当の顔って、どんなだろう。そもそも、おれに本当の顔なんてあるのかな? おれは本当に、鉢屋三郎なのかな?」

「…………」

 雷蔵はとうとう、どう言っていいか分からない、みたいな顔をして黙り込んだ。三郎はしばし黙って、その複雑な表情を眺めていた。

  やがて三郎は面を伏せ、手早く顔の形を変えた。

「なんざー言ってサ」

 錫高野与四郎の顔をつくった三郎は、おどけた表情で笑った。そうしたらすぐに雷蔵の拳が飛んで来て、めいっぱいの力で額を打たれた。

「いったあ!」

「もう、お前なんて知らないよ!」

 雷蔵はそう言い捨てて立ち上がり、三郎から背を向けてしまった。雷蔵が本当に怒ってしまったのだと分かり、三郎は、きゃああ、とおなごみたいな悲鳴をあげた。

「あっ、待って! 雷蔵待って! おれが悪かったから!」
 
 三郎は慌てて雷蔵の顔に戻し、彼の背中に縋り付いた。

  雷蔵は顔をしかめ、「ああもう五月蠅いなあ!」と三郎を振り払おうとしたが、その口元がほのかに微笑んでいたような、いないような。





鉢屋の日ヤッホーー