■愛ってなあに■


 愛ってどういうものですか?


「……って訊かれて、一瞬どうしようかと思った」

 文机に肘をついて、久々知は言った。部屋に遊びに来ていた雷蔵は、きょとんとして目を瞬かせた。彼の隣に座っていた三郎が、ぷっと吹き出す。

「兵助、それ誰に訊かれたの」

 雷蔵が尋ねると、久々知は渋い顔で目を閉じた。

「……伊助と庄左ヱ門と兵太夫」

「そ、それは答えにくいねえ」

 雷蔵は苦笑した。少し久々知に同情してしまう。一年生の、あどけない瞳が浮かんだ。あの無垢な目でそんなことを問い掛けられたら、雷蔵もたじろいでしまいそうだ。子どもの純粋な好奇心は、ときとして人を大いに戸惑わせる。

「で、優秀な久々知先輩は、何て答えたんだよ」

 肩を震わせて尋ねる三郎を、久々知は憮然として睨みつけた。

「人に訊く前に、まず図書室で調べてこいって言った」

 たまらずといった風に、三郎が声をあげて笑い出した。その場に引っ繰り返り、床板をどんどんと叩く。

「あっははは! 卑怯な逃げ方してんじゃねえよ!」

「う、うるさいな! そんなこといきなり訊かれて、答えられるかよ!」

「ああ、だからさっき、庄左ヱ門たちが図書室に来てたんだ」

 合点が行ったように、雷蔵はぽんと手を打った。

「何だよ、なっさけないなあ。それくらい、即答してやれよ」

 三郎は目尻の涙を拭い、笑いすぎて掠れた声でそう言った。さんざ笑われた久々知は、むっとしたように眉を寄せる。

「それじゃあ鉢屋先輩にお聞きしますけれど、愛とはどういうものなんですか?」

 久々知が目を細めて三郎に詰め寄ると、彼は余裕の笑みを口元に浮かべた。

「そんなもの、わたしのこの姿を見たら分かるだろう?」

 そう言って、不破雷蔵に完璧に化けた自分心を、手で示してみせる。久々知は呆れ顔で目を細め、気のないため息をついた。

「あーはいはい」

「何だよその、訊かなきゃ良かった、みたいな態度は」

「訊かなきゃ良かった、って思ったんだよ」

「まあまあ……」

 雷蔵が三郎と久々知の間に入って取りなそうとすると、彼らはほぼ同時に雷蔵を見た。ふたりに注視されて、彼はわずかに狼狽した。

「な、何。どうしたの」

「雷蔵は?」

 久々知の短いひとことに続き、にやにや笑う三郎が口を開く。

「雷蔵にとって、愛ってどういうもの?」

 雷蔵は驚いて、目を見開いた。

「な、何でぼくに振るんだよ!」

「いやあだって、雷蔵が愛についてどう考えているか、気になるよなあ兵助」

「気になる気になる」

「ねえ雷蔵」

「愛ってなあに?」

 やけに真面目な顔で、ふたりは雷蔵に詰め寄った。雷蔵は顔が熱くなるのを感じた。何だかやけに恥ずかしくて仕方がない。愛。愛って何だ。頭の中がぐるぐると回る。答えは出ない。というか、どのように答えてもからかわれそうだ。

「そ……っ、そんなこと、急に言われても……! 大体、元は兵助への質問だろ! 兵助が先に答えるべきだよ」

 早口で言い、久々知を指さす。すると彼は、ぎくりと肩を硬直させた。

「い……いや、それより、おれは三郎の答えに納得がいかない」

 今度は、久々知が三郎に視線を向ける。三郎は眉を上げ、腕を組んで久々知を正面から見返した。

「納得いかない? それじゃあ、具体的に雷蔵への愛を語ってやろうか。言っとくけど、三日はかかるぞ」

「うわあ、聞きたくない」

「うん、ぼくも聞きたくない」

「えっちょっ、兵助はともかく、雷蔵のその反応は酷すぎる……!」

 傷付いた! と三郎が声をあげたところで、部屋の障子がすぱんと開かれた。三人は、一斉に入り口の方に顔を向ける。

「兵助、いるかー?」

 来客は、竹谷だった。彼は三郎と雷蔵を交互に見やり、「何だ何だ、お前らも来てたのか」と笑った。

「なあ、兵助。何か食い物持ってない?」

 そう言って、竹谷は腹に手を当てた。よっぽど空腹らしく、腹の音が雷蔵の耳にも届いた。

「食い物? 干し芋くらいしかないけど」

「充分、充分! もう腹減っちゃってさあ」

 嬉しそうに言って、竹谷は床に腰を下ろした。久々知は立ち上がり、棚の中から小さな壺を取り出す。

「ほら。全部は食うなよ」

 久々知は壺の蓋を開けて、竹谷の前に押しやった。竹谷は目を輝かせ、食料に手を伸ばした。

「わりいな! いっただきまーす!」

 壺の中から干し芋をひときれつまみ上げ、竹谷は大きな口を開けてそれにかぶりついた。豪快に干し芋に噛みつく竹谷を見つめていた雷蔵たち三人は、顔を合わせてにっと笑う。

「ねーえ、竹谷先輩」

 三郎が竹谷に擦り寄り、しなを作って彼の肩をつついた。竹谷は一瞬身震いし、不気味そうに三郎の顔を見る。

「何なに、何だよ。気持ちわりいな」

 そこで三人は素早く視線を交わし、声を合わせてこう言った。

「愛ってなあに?」

 竹谷は瞬きをした。顎を動かして干し芋を咀嚼し、ごくりと飲み込んでから口を開く。

「愛?」

「そう、愛」

「生と死を、いちばん近くで見つめていたいと思うこと。かな」

 至極あっさりと放たれたその答えに、雷蔵、三郎、久々知の三人はしばし絶句した。先程まで騒がしかった室内が、一瞬で静まりかえる。無言で固まる彼らに、「何、さっきから何だよ!」と、竹谷は居心地が悪そうに身体を揺すった。

  一番最初に硬直から回復したのは、雷蔵だった。

「何か……ハチ、かっこいい……」

 頬に手を当て、雷蔵はほうっとため息をついた。その隣で、久々知は感心したように何度も頷いた。

「おれはちょっと、目から鱗が落ちた」

「そうかあ? おれは引いた」

 一転して三郎は、寒さをこらえるように自分の身体を抱きしめ、わざとらしく震えてみせた。ひとりだけ事情の分からない竹谷は、

「ええっ、何、何だよ! だから一体、何の話なんだよー!」

 と、腕をぶんぶん振った。三人は顔を突き合わせて、小声でひそひそと話し合う。

「生物委員って、ロマンチストが集まるのかなあ」

「おれ、次に聞かれたときはああいう風に答えようかな」

「いや、止めた方が良いって。久々知先輩は薄ら寒いって噂が立っちゃうぞ」

「なあー! いい加減、何のことか教えろってば!」





それからしばらくの間、竹谷には「愛の伝道師・竹谷八左ヱ門」という二つ名がついたのだっためでたしめでたし!