■ライ・クア・バード 03■
起きる。洗面所で顔を洗う。鏡を見る。そこには自分の顔がきちんと映っている。おれは、にっこりした。
自分の顔を知ったお陰で、毎朝とても爽やかな気持ちで目覚めることが出来た。毎日きちんと朝食を摂って学校に行こう、という意欲が湧いてくる。これまでの自分では、考えられないことだった。学校なんてどうでも良かった。あの場所には何も無かった。もはや、小学校や中学校がどういう所であったかという記憶でさえ、朧気になりつつある。
しかし今は違う。学校に行けば雷蔵に会えるのだ。おれは雷蔵のために学校へ行く。彼と言葉を交わし、笑い合い、あの柔らかな笑顔を見るために。
雷蔵が好きだ。彼と一緒にいると、何故か幸せな気持ちになれる。
あまりにも雷蔵への想いが強いので、もしかしてこれは恋であろうか、と時折考える。この胸の高鳴り、幸福感は、世間で言うところの恋というやつだろうか。
雷蔵が好きだ。それは間違いない。となると、やはりこれは恋か。恋なのか。恋かもしれない。しかし、あまり結論を急ぎたくはなかった。まだ出会ったばかりで、おれはあまり雷蔵のことを知らない。自分の顔も、ついこの間知ったばかりなのだ。己を知り、相手を知り、少しずつ進んでゆきたい。これは恋かな、恋じゃないかな、なんて考えるのも楽しいじゃないか。
……まあ、十中八九、恋なのだろうけど!
校門のすぐ側まで来たところで、雷蔵に会わないかなあ、と思ったら竹谷八左ヱ門に会った。雷蔵と小学校から一緒だという羨ましい男だ。しかし嫉妬はするまい。過去はなくとも、おれには現在と未来がある。無いものを羨むよりも、これからを大事にするべきだ。
……と、頭で分かっていても、やはり悔しいものは悔しい。八左ヱ門は、おれの知らない雷蔵を知っているのである。羨ましい。畜生。
「なあ、三郎。ちょっと聞いてくれよ」
八左ヱ門は、何やら嬉しそうに言った。それよりもおれは、彼の髪の毛が気になって仕方が無かった。なので、このように返した。
「何だよ。というか寝癖ひどいな」
普段から彼の頭はぼさぼさだが、今日は一段と酷い。鳥の巣だってこうも無秩序ではなかろう、という勢いである。
「え、そう? これでもだいぶ押さえてきたんだけど」
おれの指摘を受け、八左ヱ門は手のひらで髪の毛を撫でつけた。そうすると一瞬だけ頭が平になるが、すぐまたひょこひょこと短い髪が全方向に跳ねるのだった。
「押さえてきたって、これで? お前いっそ坊主にしろよ」
「何でだよ、ふざけんな」
「それで、聞いて欲しいことって何だよ」
どうせ大した話では無いのだろうな、と思いつつ尋ねる。すると八左ヱ門は、真っ白な歯を見せて笑った。
「そうそう、おれ、昨日変な夢見てさあ」
本当に、大した話ではなかった。おれは一気に面倒くさくなって、 「人の夢の話とか、興味ないわー」と言って手を振った。八左ヱ門は眉を寄せて不服そうな顔になる。
「何でだよ、聞けよ。ほんと変な夢で……」
そこまで言って、八左ヱ門は言葉を切った。そして「あれ? んん?」とかなんとか言いながら、視線を遠いところに向ける。まさか、と思いつつ彼の思案するさまを眺めていたら、案の定八左ヱ門はこう言った。
「……どんな夢だっけ?」
「はあ? 何それ」
心底呆れて息を吐き出す。聞いてくれ、と言っておいてこれである。オチもなければツカミすらもない。振りのみである。何というグダグダっぷりだろう。そんなだからお前はもてないんだ、と言いそうになったが我慢した。おれは優しいのである。
「いや、さっきまで覚えてたんだよ! なのにお前が、おれの寝癖とかどうでも良い話してくるから!」
八左ヱ門は必死である。よっぽど聞いて欲しかったらしい。
「夢の話も、充分どうでも良いって」
「……むかつくなあ……」
八左ヱ門は口を尖らせた。その拍子に、頭頂部の髪の毛が一房、ぴんと立った。
雷蔵は予鈴が鳴る寸前になって、慌ただしく教室に駆け込んできた。ギリギリになるなんて珍しい。走って来たらしく、雷蔵はゼエゼエ言いながらおれの席までやって来て、
「三郎、これ」と、一冊の文庫本を差し出した。おれはそれを受け取る。ロートレック荘事件。筒井康隆。
「貸してくれるの?」
尋ねると、まず咳が返って来た。本気できつそうだ。おれは腕を伸ばして、雷蔵の背中をさすってやった。
「うん、それ、面白い……んだけど、駄目だったらごめん。昨日、何を貸すか考えすぎて分かんなくなっちゃって、やっと決めたんだけど、家を出る直前までやっぱこれで良いのかな、って悩んでた……」
雷蔵らしい物言いに、しぜん、笑いがこみあげた。よく見たら、雷蔵の目の下には隈が出来ていた。彼には毎日たっぷり寝て、つやつやの笑顔でいて欲しいけれど、そこまでおれのことを考えてくれて嬉しい。
雷蔵は優柔不断だ。まだ短い付き合いだけど、それはよく知っている。何せ彼は迷う。どんな小さなことでも、まずは迷う。
人は生きてゆく上で、何らかの選択に迫られる機会が無数にあるわけだが、彼はそのひとつひとつにいちいち立ち止まって考え込むのだ。雨が降りそうならば傘を持ってゆくべきか否か、日替わり定食にAとBがあればどちらを選ぶか、そして、友人にどんな本を貸そうか……等々。
そういった気質はどちらかと言えば短所なのだろうけれど、おれは彼の迷い癖がいとしくて仕方がなかった。それだけ雷蔵は真面目で、誠実なのだ。何も悪いことではない。
授業中、早速膝の上で文庫本を広げる。活字を目で追う。ページをめくる。教師の声はひとつも耳に入って来ない。それよりも、雷蔵から借りた本を読むことの方が大事だ。ひたすら読む。文章が頭の中に流れ込んでくる。
この物語を、この文字を、かつて雷蔵も追い掛けたのだと思うと、胸がどきどきした。自分は今、雷蔵と同じ道を辿っている。彼が咀嚼し、飲み込んだ物語を味わっている。楽しい。うれしい。幸せだ。
おれは、今までにない集中力を発揮して、「ロートレック荘事件」を読んだ。
次 戻
|