■ライ・クア・バード 01■
鏡を見ても自分の顔が分からなかった。
視力が悪いわけではない。目はきちんと見えている。しかし自分がどういう顔をしているかを、うまく認識することが出来ない。見えているのに見えない。いや、見えているのにつかめない……と言った方が良いだろうか。写真を撮っても同じである。一緒に写っている家族や同級生の顔はちゃんと把握出来るのに、自分の顔だけどうにもうやむやな印象で、きちんと頭に入って来ないのである。
しかしそういう風に感じているのは自分だけらしく、周囲の人間は「きれいに撮れている」とかなんとか無責任なことを言う。意味が分からない。だからおれは写真が嫌いだ。鏡を見るのも、池を覗き込むのも、ガラスの側に立つのも嫌だった。
とかくおれは長い間、自分がどういう顔をしているのか知らなかったのである。
……などと言って、一体どれだけの人が信じてくれるだろう。それを口にしたら、恐らく九割九分の人間がおれを頭のおかしい奴だと思うだろう。だからそのことは、誰にも話さずに己の胸の内にのみ秘めていた。おれとて、それくらいの空気は読める。
しかしながら、おれだって自分の顔を理解するために、様々な努力はしてきた。
とりあえず、髪型や服装が合っていないのではないかと思い、中学三年までの十五年間、様々な格好を試してみた。坊主にしてみたり伸ばしてみたりまた切ってみたりパーマを当ててみたりドレッドにしてみたり、髪の色だって赤黄緑青ピンク紫、金髪にシルバー、いっそレインボーと、思い付く限りの色と形を試した。しかしどれもしっくりこない。頭を地味にしても派手にしても、おれの顔を浮き立たせてはくれなかった。
服装だって同じだ。何を着たって馴染まない。顔を把握することが出来ない。目鼻立ちはおろか、輪郭だって曖昧だ。どうしようもない。お手上げである。
おれは十五まで、自分の顔を手に入れるために人生の全てを費やしてきた。
それ以外は何もしなかった。というか、する気力が湧かなかった。勉強もスポーツも恋愛もその他の何事も、意味のあることだと思えなかった。自分の顔すら知らないのに、何を学ぶのだろう。何を目指すのだろう。どうやって他人を愛するのだろう。
そんなだったから、おれは至極やる気のない人間に見えたらしい。周囲から、もっと真面目にやれ、お前はやれば出来るのだからと、何回説教されたか分からない。誓って言おう。おれは真面目だった。髪を金にしようが銀にしようが七色にしようが、巫山戯た気持ちでやったことは一度たりともなかった。自分の顔を識別するためにやったことである。
しかしそれを周囲に説明することは出来ない。理解してもらえるとも思えない。そういうわけでおれは、文句なしの問題児として義務教育を終了した。
中学を卒業して、特にやりたいこともなかったので適当に選んだ高校を受験して入学した。高校でこそ、自分の顔を手に入れることが出来れば良いなあとは思っていたが、あまり期待はしていなかった。中学のときのように、ただ漫然と、なんとなく、だらだら過ごして終わるのだろうな、と冷めた気持ちでいたのである。
そんなとき、彼に、不破雷蔵に出会った。
忘れもしない、入学式の日である。
式が終わって組分けを確認する前、人は良さそうだが、取り立てて特徴の無い男が何となく目に留まった。完膚無きまでに平凡な顔だ。しかし彼を見た瞬間おれは何故か、胸に引っ掛かるものを感じた。何処にどう引っ掛かったのか上手く説明することは出来ないが、このまま彼をスルーしてはいけない気になったのである。
「きみ、どっかで会ったことあったっけ?」
おれは、そう声をかけてみた。目の前にいる彼は、全力で戸惑っているようだった。おれはそのとき髪の毛を真っ青にしていたから、ちょっとやばい人にでも見えたのかもしれない。
「え、い……いや、無いと思う、よ」
返ってきた返答に、少しがっかりした。確実にテンションが下がった。何故そう思ったのかは、自分でもよく分からない。
「ほんとに?」
食い下がってみたが、やっぱり、会ったことはないと言われた。ならばきっと、本当に初対面なのだろう。なんとなく納得がいかないが、仕方が無い。そういうことにしておこう。
このまま言葉を切ったら彼は立ち去ってしまいそうだったので、おれはネクタイを差し出して彼に結んで貰うことにした。断られるかなと思ったけれど、彼は律儀に引き受けてくれた。どうやら彼は、見た目どおりの良い奴らしい。
向かい合わせだとやりづらいからと言って、彼はおれの後ろから腕を回してネクタイを結び始めた。背後から抱きかかえられるような格好に、何故だか無性にドキドキした。
「あはは、何かドキドキするねこれ」
何だろう、これは。
この気持ちは、一体何なのだろう。
彼が結んでくれたネクタイは不格好に曲がっていた。しかしそれが嬉しかった。自分でもよく分からないけれど、嬉しかった。胸のドキドキは止まらない。何だろう。本当に、これは何だろう。
「ねえきみ、名前は?」
気が付けば彼の腕を掴んで、名を尋ねていた。すると彼は少し困った顔をして、こう答えた。
「不破雷蔵、だけど」
それを聞いた直後、おれは無意識の内に「雷蔵」と繰り返していた。
雷蔵。雷蔵!
心の中で繰り返す度に、胸の底がほこほこと温かくなった。それと同時に、大きな戸惑いが湧き上がってくる。どうして自分はこんなにも、目の前の彼に対して気分を高揚させているのだろう。
しかし、幸せだ。
そう考えてから、はっとした。そうか、これが幸福か。初めての感覚であった。動悸が止まらない。気恥ずかしさすら覚え始めた。
「きみの名前は?」
雷蔵に訊かれたので、即座に「おれは、鉢屋三郎」と答えた。
「三郎」
雷蔵に名を呼ばれた。心が震えた。これも幸福だろうか。いや、もっと大きな何かであるような気がする。
「ええと……あの、鉢屋くん。そろそろクラス分けを見に行かないと」
「鉢屋くん?」
思わず、眉をひそめた。鉢屋くん。その響きは違う。三郎、が良い。雷蔵の声で、三郎と言って欲しい。そうでないと嫌だ。
「え、鉢屋くん、だよね? さっき、そう言わなかった?」
「三郎」
「うん?」
「三郎って言ってみて」
「……三郎?」
そうそう、それだ。やっぱり、そうでないと。おれはにっこりした。嬉しい。何故こんなに嬉しいのかは分からないけれど、幸せだから良いやと思った。今まで、どうして自分の顔が分からないのかをさんざ考えたけれど分からなかったのだから、こうやって雷蔵に名前を呼んでもらって心が満ちる理由も考えたって無駄なのだ、きっと。
「うん、なあに、雷蔵」
そんなことを考えながら、おれは返事をした。最高の気分だった。
この後おれはすぐさま美容室に駆け込んで、髪型を変えた。美容師には、これでもかってくらい細かな希望を伝えた。ここは何センチ切って、ここは何センチ残して、色はこうして、襟足はこうで……などなど。
つい先刻出会った彼のことを思い浮かべ、あんな風に、彼と同じように、と胸中で念じながら美容師の鋏を凝視する。
そうしたら不思議なことに、鏡の中に自分の輪郭が浮かび上がってきたのだった。彼に近付くたびに、少しずつ、自分の顔がはっきりしてゆくのが分かった。いつもは鏡なんか絶対に見ないのに、このときは釘付けであった。
徐々に顔が出来てゆく。今までどれだけ探しても見つからなかったものが、見えてくる。
「はいっ、お疲れ様でしたあ」
美容師はそう言って、灰色のケープを取り去る。
おれは鏡に映る自分の姿から、視線をそらすことが出来なかった。
分かる。
自分の顔が、分かる。
目の形も、鼻の形も、口も、顔の肉付きも、全てが見える。
全身が震えた。
ああ、おれは、こういう顔を、していたのか。
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