■くらむ桜(室町)■


 漸く学園長先生の世間話から解放されたわたしは、庵の外に出た。

 春であった。空気がぬるくなってあたたかな光が地面に落ちて色とりどりの花が咲いて風が爽やかに吹き抜ける出会いの季節である。

 ……まあ、その辺りの事象はわたしにはあまり関係の無いことなので、色づいた風景などには目もくれず雷蔵に会いにゆくことにした。季節は移り変われど、雷蔵に会いたいというわたしの気持ちは変わらないのである。

 雷蔵は「花でも見ながら本を読んでいるよ」と言っていた。裏庭に桜の大木があるから、其処に居るはずだ。

 わたしは裏庭に急ぐ。途中、七松先輩と潮江先輩に「裏山で花見をするからお前も来い」と誘われたが、「花見をすると臓腑が溶ける病を患っていので遠慮致します」と適当なことを言って逃げて来た。あの方々と花見だなんて、冗談ではない。阿呆のように酒を食らって、美女に化けて酌でもしろ等と絡んでくるのである。まったく、たちが悪い。

 それよりも雷蔵だ。雷蔵である。わたしは駆けた。雷蔵に会うために。









 思ったとおり、雷蔵は裏庭の桜の気にもたれて座っていた。頭を幹に預け、静かな寝息を立てている。うたたねをしているのである。膝にのった開きっぱなしの本の頁が、風に吹かれてはらはらとめくれてゆく。そして、時折舞い散る桜の花びらが、雷蔵の髪に、肩に、本に落ちる。

 わたしは、ふっと笑った。なんていとおしいのだろう。この光景を、どうにか形にして残すことが出来ないだろうか、と思う。絵などではなく、このままの姿を。目に焼き付けるだけでは、勿体ない気がした。

 思わず、雷蔵の口元を見つめる。薄桃のくちびる。これは、くちづけなければ罰が当たるんではないだろうかと思った。なので、わたしは身を屈めて彼にそっと顔を寄せた。

 そうしたら、雷蔵の両手が思い切りわたしの頭を掴んだ。雷蔵のくちびるまで後三寸……というところであった。

「……何をやっているんだ、お前は」

 雷蔵は目を開けて、眉をしかめた。いつの間にか、目を覚ましてしまっていたらしい。

「あ、起きちゃった?」

 わたしは肩をすくめる。そうしたら、雷蔵はますます不服そうな顔になった。

「此処まで接近されて尚目を覚まさない程、ぼくは間抜けでは無いよ」

「それは残念」

 わたしは雷蔵から身体を離し、彼の隣にすとんと腰を落とした。

「雷蔵、花が積もっているよ」

 言って、わたしは彼の肩に付いている花びらを指でつまみ上げた。雷蔵は「本当だ」と、肩と膝を無造作に手で払った。

「髪の毛にも、ついている」

 わたしがそう指摘すると、雷蔵は髷の中に手を突っ込み、がしがしとかき混ぜた。その大雑把な行動に、わたしは噴き出してしまう。

「それじゃあ、余計に絡まってしまうよ」

 わたしはやんわりと雷蔵の手を解き、彼の髪に指を差し入れた。髪の毛のやわらかな感触を楽しみながら、小さな花びらを丁寧に取り除いてゆく。

「そういうお前の髪にだって、花びらがついているよ」

 雷蔵は手を伸ばし、わたしの髪に触れた。そんな何でもない触れ合いにも、わたしの胸はときめいてしまう。

 ……実際にはわたし自身の髪ではなくかつらなので、特に感覚などは無いはずなのだけれど、胸の内側がくすぐったい気がして、わたしは笑った。

「優しくしておくれね、雷蔵」

 わざと艶めいた口調で言ったら、軽く額を叩かれた。それもまた、くすぐったいのだった。




(毛繕いしあう鉢雷)
(って書くと獣っぽい)
(それもまた良し)