■遠くの月 04■


 白煙の舞う中、久々知は木の上から、下の様子を伺った。視界が白く染まる。血の匂いが鼻を突く。先程の宝禄火矢で敵が負傷したか。

  下方で金属音が聞こえた。直後、どん、とくぐもった音と誰かの悲鳴が響いた。埋め火だろうか。三郎は無事なのか。ああもう、状況が分からない。

 久々知は苛立ちをぐっと堪えて、白い闇の中で目を凝らした。目が痛くなってくるが、眉間に力を込めて耐える。敵と味方の位置を把握するまでは、渦中に飛び込むことは出来ない。

 煙の隙間で、ちらりと紫紺の装束が翻るのが見えた。三郎だ。それを追うように、濃紺の装束が踊る。久々知は敵が真下を通る頃合いを見計らい、枝を蹴った。飛び降り様に敵の首に腕を巻きつけ、着地とともに体重をかけて相手の身体を引き倒す。敵のかすかなうめき声が耳を掠めた。ごぎ、と首の折れる重い感触が手に伝わり、敵は動かなくなった。

 久々知は息を吐き、ああ嫌だ、と思った。もう随分慣れたけれど、それでも決して楽しくはない。

 少しずつ、煙が晴れてゆく。ようやっと、三郎の姿をまともに捉えることが出来た。負傷している様子はなかったので、久々知はほっと息を吐いた。

 三郎は、右腕に敵の死体を抱えていた。大きく見開かれた死体の目が、久々知の方を向いている。まだ若い忍者だ。久々知たちと同年代くらいかもしれない。

  三郎の足元には、もう一体、焼け焦げた死体があった。三郎の投げた宝禄火矢かそれとも埋め火か、とかく爆発に巻き込まれたらしい死体であった。

  久々知は首を巡らせた。この場に立っているのは、久々知と三郎だけだった。

「ひとり逃げた」

 三郎は、抱えていた死体を放り投げた。焦げた死体の上に、年若い忍者の亡骸が折り重なる。三郎は久々知の方を見ない。目の前に広がる木々の隙間を、じっと注視していた。

「……追う気か」

 横顔に声をかけると、「楽しくなってきた」と返って来た。覆面で隠されているが、彼がどういう顔をしているか久々知には分かった。笑っている。三郎は笑っている。にわかに背筋が寒くなった。嫌な予感が、じりじりと胸に迫ってくる。

「おい。遊びじゃないぞ」

「知ってるさ」

 三郎はそう言って、こちらに視線を寄越した。久々知はその目に射すくめられてしまい、動けなくなった。

  自分の目の前にいるのは、一体誰だと思った。ともかく、三郎の目はまともではなかった。何かに取り憑かれたような目。正体不明の危機感が、久々知の全身を突き刺した。全身が総毛立つ。瞼が引き攣る。

 三郎はくるりと身体の向きを変え、木々の中に音もなく飛び込んで行った。

 追わなくては。

  そう思うのに、久々知の身体はしばし動かなかった。膝に手をつき、喘ぐように呼吸をする。  
 
 あんなの、おれの知っている三郎じゃない。あれが鉢屋三郎だというのなら、普段おれが見ていた三郎は、一体何だというのだ。

 本当に、あれは鉢屋三郎か?

 あんなのは人の目ではない。

 あれではまるで……。

 ……そこまで考えて、久々知ははっと我に返った。己の考えを消すように、両手で自らの頬を叩く。ばちん、と大きな音がした。そのお陰で、どろりとしていた思考が少しだけ晴れる。

 まるで、何だ。何だというんだ。おれは友人に対して、一体何を考えた。あれは三郎だ。鉢屋三郎以外の何者でもない。あれは三郎だ。だからおれは、ひとりで行ってしまった三郎を追わなくてはならない。

 自分に言い聞かせるように、胸の中で何度も繰り返した。そして三郎の消えた方角へ向かうことにした。

 三郎を、ひとりにしてはならない。

 直感でそう思った。ずっと動き通しだったので、身体が重くて仕方がない。しかし、行かなくては。久々知は足を引きずるようにして走り出した。






 ともすれば意識が遠のきそうになる中、久々知は必死で三郎の姿を探した。覆面のせいで、二倍息苦しい。忍者って何て面倒くさいのだろう、とにわかに己の生業が嫌になった。

 それにしても、三郎は何処に行ったのだろう。今更ながら、すぐに追わなかったことが悔やまれた。

 直後、久々知は殺気を感じて手にしていた苦無を振るった。金属音が弾け、地面に四方手裏剣が突き刺さった。上方に何者かの気配を感じた。それと、背後にも。

 更に、右手の茂みから濃紺の装束を纏った忍者が転がり出て来た。それを追いかけるように、三郎が飛び込んでくる。案外早く再会出来たことに久々知は安堵したが、敵にすっかり包囲されてしまっているこの状況はあまり嬉しくない。

 背後の気配が動いた。久々知は身体の向きを変えようとしたが、その瞬間足元がずるりと滑った。疲労のせいで、足腰が思うように動かない。最悪だ。

  敵は背後から、久々知の苦無を叩き落とした。そしてそのまま、久々知の身体を抱きすくめる。首筋に、苦無が突きつけられた。久々知はため息をつきたくなった。

 それを見て、三郎は動きを止めた。顔を上げて、じっと久々知の目を見る。その目は、先程に比べたら幾分か正気を含んでいるように思えた。

  三郎の視線が、お前何捕まってんだこの間抜け、と言っている風に感じられたので、お前が好き勝手するからだろう責任取れ、という気持ちを込めて睨み返しておいた。

「お前ら、忍術学園の者だな」

 茂みから転がってきた忍者が口を開いた。随分と高い声。どうやらくのいちのようだった。三郎はそれには答えず、顎を上げて小柄なくのいちを見下ろした。その目は再び、尋常でない光を帯びていた。それから彼は目を閉じ、数瞬の後に瞼を開けた。そのときにはもう、目から狂気は消え去っていた。

「まあ、お察しの通り、ね」

 軽く笑いながら三郎は言った。小馬鹿にしたような口調に、くのいちが眉間に皺を寄せる。

 こいつってほんと、怒車の術が上手いよなあ。

 久々知は何処かのんびりと、そんなことを考えた。焦りや恐怖は感じなかった。周囲を取り囲んでいる敵よりも喉元の苦無よりも、鉢屋三郎の方が厄介だ。

 三郎の目は先程から、正気と狂気の間を行ったり来たりしている。どうにも、目の色が定まらない。こういう場合一体どうすれば良いのか、久々知には皆目見当もつかなかった。どうしたら、三郎をこちらに呼び戻すことが出来るだろう。雷蔵なら、雷蔵ならこういうときどうするのだろう。

 ふと、三郎と視線が噛み合った。そして三郎は久々知に向かって、片目をきゅっと瞑ってみせた。

 何だその女子みたいな仕草は、と思った瞬間、背後でがさりと物音がした。久々知を拘束していた忍者の身体が揺れる。久々知は振り返った。足を振り上げる、不破雷蔵の姿が目に入った。

 雷蔵が、敵の持っていた苦無を足で蹴り落とす。同時に、竹谷八左ヱ門の姿も確認出来た。何故こいつらが此処に、と考えるよりも先に、久々知は渾身の力を込めて敵の顎に掌底を叩き込んだ。

 ……そこからは、あっという間だった。

 三郎と、竹谷が連れて来たらしい犬が、実に迅速に敵を一掃した。竹谷が無邪気に喜んでいる。久々知は、その場に座り込みたくなった。疲れた。とにかく疲れた。

「兵助、怪我は?」

 昏倒した敵を慣れた手付きで縛り上げながら、雷蔵が尋ねてくる。久々知は思わず、彼の顔をじっと凝視した。

 三郎が常に写し取る容貌。その顔は穏やかで、どう見ても人間だ。

 あまりに久々知がまじまじと見るので、雷蔵はたじろいだようだった。それにはっとして、久々知は雷蔵が縛った敵に視線を移した。ひとつ息を吐いてから、敵の懐に手を差し入れる。

 今後の相談をしているさなかに、竹谷がふと三郎の方に顔を向けた。そして、今まで口元に浮かべていた笑みを引っ込める。彼も、三郎の様子がおかしいことに気が付いたらしい。

「……おーい、三郎さん……?」

 恐る恐る、と言ったふうに竹谷は三郎の正面に回り込んでゆく。やめとけ、と言おうとしたが間に合わなかった。三郎の顔を見た竹谷はぎょっとした顔で固まった。

 久々知は、雷蔵の方を振り返った。何とかしてくれ、という気持ちを込めて雷蔵の袖を軽く掴む。雷蔵は数度瞬き、いつも通りの人の好い笑みを浮かべた。その笑顔が妙に頼もしく思えて、久々知は雷蔵の装束からするりと手を離した。そしてその瞬間、三郎が何故雷蔵といつも一緒にいるのか、理解出来た気がした。

 雷蔵は、軽い足取りで三郎に近付いて行った。何気ない調子で三郎に声をかける。三郎は微笑んで、雷蔵に言葉を返した。

  それはどう見ても、鉢屋三郎だった。不破雷蔵と鉢屋三郎。久々知もよく知る、五年ろ組の名物コンビだ。

 ああなるほど、三郎は雷蔵がいるから三郎なんだな。

 すっかり合点が行った。納得した瞬間、今までの疲れがいっぺんに全身に襲いかかってきた。もう駄目だ。指いっぽんたりとも動かない。たまらずに、久々知はその場で大の字に寝転がった。

 幾重にも重なった木々の隙間から、僅かに柔らかな光が見える。久々知はそのまま眠ってしまいたくなった。しかしその瞬間、竹谷の大きな笑い声が耳に飛び込んできて、彼の眠りを妨げたのだった。