■きみのこえ■
草と土のあたたかな匂いが好きだ。くるくる変わる景色が好きだ。耳の後ろを通り過ぎてゆく風の音が好きだ。
だから七松小平太は、空き時間のほとんどを屋外で過ごした。彼はとかく、走り回ったり飛び跳ねたりするのが好きだった。そんな彼にとって、広大な忍術学園は学舎であると同時に、最高の遊び場でもあった。走っても走っても、終わりの見えない敷地。おまけに、場所によっては罠まで仕掛けられている。それらは、小平太をこの上なく興奮させた。落とし穴を見破ると爽快だし、たとえ落ちてしまってもそれはそれで這い上がるのが楽しい。
そんな彼の一番嫌いなものは、日暮れであった。もっともっと遊んでいたいのに、日が落ちれば、一日は終わってしまう。
「あーあ、一日って短いよなあ」
ぶつくさ言いながら、小平太は同室の中在家長次と一緒に食堂に入った。中はとても混んでいて、空席を見付けるのにも苦労しそうだった。
「なあ、長次もそう思わないか」
大柄な級友を見上げてそう言うと、長次はこくりと頷いた。それからごく小さな声で、「もっと、本を読んでいたい」と呟く。彼は小平太とは反対に、いつも図書室で本を読んでいる。
「長次とわたしは、違うけどおんなじだな!」
小平太は笑った。長次は目を細めた。彼なりに笑おうとしているのだと、小平太には分かる。
「そうだ長次、明日は一緒に裏山を探検しよう」
食事を受け取る列に並びながら、小平太はそう提案した。長次は、軽く首をかしげる。
「読みかけの本がある」
「たまには良いじゃん! な!」
な、な、と何度も繰り返して長次の手を引っ張ると、やがて彼は首を縦に振ってくれた。
「……分かった」
「やった! 約束な!」
小平太は飛び上がって喜んだ。その場でくるくる周りながら、長次の腰にまとわりつく。側にいた上級生に、「うるさいぞ」と注意されたが、小平太の耳には全く入って来なかった。
翌日。退屈な授業がようやく終わった。小平太は、すぐさま長次のもとへ駆けて行った。
「さあ長次! 裏山へ行くぞ!」
満面の笑みで、長次の背中に飛びついた。しかし長次は、申し訳なさそうに小平太を見下ろした。
「……行けなくなった」
その静かな声が、小平太の頭に浸透するまでにしばし時間がかかった。長次の腰から手を離し、ぽかんと口を開ける。やがて彼の言う意味が理解出来た小平太は、「ええー!」と叫んだ。
「何でだよ! 昨日、約束したろう!」
小平太は両手をばたつかせて、不平の声をあげた。そのあまりの大きな声で、側を通り過ぎようとしていた級友が驚いたように身体を震わせる。長次は、ゆっくりと首を横に振った。
「急に、委員会の集合がかかったから」
「何だよ! 約束したのに!」
「……ごめん」
長次の謝罪はしっかり小平太の耳に届いたが、腹の熱は到底収まらなかった。衝動のままに、長次の足を思い切り蹴飛ばす。
「長次のばか! 嘘つき! もう絶対口効かないからな!」
捨て台詞を吐いて、小平太は駆け出した。周りもろくに見ず、びゅんびゅん走る。途中で何人かの生徒とぶつかったけれど、そんなことは全くおかまいなしだった。怒りを発散させるように、小平太は全力で駆けた。
そのまま勢いで、小平太は裏山に向かった。脇目もふらず山道をひた走る。その間も、長次に対する苛立ちは消えなかった。約束したのに。約束したのに!
「長次のばか野郎! 本の虫!!」
空に向かって、喉が千切れんほどの大声で叫んだ。木に止まっていた鳥が、甲高い声で鳴きながらで飛び立ってゆく。
流石に疲れて、小平太は立ち止まった。呼吸が落ち着いてから、真っ青な空を見上げて息を吸い込んだ。新鮮な空気が胸一杯に満ちて、心地よかった。それで、小平太はだいぶすっきりした。彼は、怒りを持続させるのが苦手な性質だった。
「よし、気を取り直して探検をしよう!」
小平太は拳を突き上げた。でたらめに走って来たから、目の前に広がるのは全く知らない風景だ。帰り道は分からない。不安はなかった。胸が弾んで仕方がない。小平太は軽い足取りで歩き出した。
しばらく歩くと、途方もなく大きな木に遭遇した。空を突き上げる程に高く、無数の枝を全方向に伸ばしている。圧巻であった。これは登らなければならぬ、と小平太は使命感に駆られた。腕まくりをして、手頃な枝に飛びつく。小平太は身軽な動作で、上へ上へとどんどん登って行った。上を目指す途中で、隣に生えている木が梨の木であることに気が付いた。それも丁度、果実が実っている。
小平太は大喜びで、梨の木に飛び移った。しかし足場に選んだ枝が思いの外細く、小平太が足を置いた瞬間にぼきりと折れてしまった。咄嗟に側にあった太い枝にしがみつき、どうにか落下は免れる。
「あっはは! あっぶねえ!」
枝にぶら下がった格好で、小平太は大笑いした。落ちていれば足の骨が折れていたのでは、という高さであったが、恐怖だとか危機感だとかは全く感じなかった。小平太にとっては、何もかもが楽しい出来事だ。
懸垂の要領で身体を持ち上げ、小平太は足を引っかけて太い枝の上に身体を載せた。
「おお、すごいぞ。沢山ある」
小平太は上機嫌で、梨の実をもいだ。大きくて、艶やかな果実だった。帰ってから長次と食おう、そう思って腕にふたつ抱える。彼は既に、長次に対して怒っていたことなどすっかり忘れていた。
果実を手に入れて満足した小平太は、梨の木から降りた。お手玉でもするように、ひょいひょいと梨を放り投げながら歩く。うつくしい果実に、小平太はますます機嫌良く歩を進めて行った。
そのとき、上空を大きな黒い影が横切った。小平太は口を開けて上を見る。
「鷹だ!」
小平太は声を上げ、大きな翼を広げて飛んでゆく鷹を指さした。その拍子に、腕の中の梨が二つともこぼれてしまった。
「あっ!」
梨は地面に落ち、そのまま下り坂を転がってゆく。
「待て!」
小平太は手を伸ばしたが、坂が急になって梨は逃げるように速度を上げた。よし追いかけっこだな、と小平太は理解し、走り出した。
「待て待て!」
転びそうになりながら梨をつかまえようとするが、標的はするりとすり抜けてしまう。これは難敵だ。小平太は、この上なく気分が高揚するのを感じた。このまま、何処まででも走ってゆけそうだ。
どんどん追いかけてゆく内に、不意に視界から梨が消えた。
あれっ何処に行った。梨が消えた。いや消えるはずがない。もしや、この先は崖か? 消えたのではなく、落ちた?
しかし小平太の足は止まらなかった。何処までも行ってしまう。何処までも。行く手には道がない。このままじゃ、小平太も落ちてしまう。落ちる。落ちる?
目の前に空が見える。広がる青。目を奪われるほどの濃い青色。うつくしい空。下は見えない。随分と遠い。空はあんなにも光で満ちているのに、下は暗い。足が止まらない。止まれない。何処までも行ってしまう。
「小平太っ!!」
突如、背後から大きな声が響いて、小平太の足はびくりと一瞬止まった。それと同時に、誰かが小平太の襟首を掴んで後ろに引っ張る。その衝撃で、目の前に火花が散った。引っ繰り返りそうになる彼の身体を、誰かは抱きすくめるようにして受け止めた。そしてそのまま、小平太と何者かはその場に倒れ込んだ。
一体何が起きたのか、小平太にはよく分からなかった。小首をかしげて視線を持ち上げたら、見知った顔が目の前にあった。
「あれっ、長次?」
小平太は驚きの声をあげた。そこにいたのは、中在家長次だった。長次は小平太を抱えた格好のまま、大きく息を吐き出した。
「ということは、さっきの大声は長次か!」
小平太は目を輝かせて、長次の手を握った。
「すげえ! 長次が大声出した! すげえ!」
小平太ははしゃいで、その場でぴょんぴょんと跳ねた。長次のあんな大声は、初めて聞いた。これは貴重な体験だ。
すげえすげえ騒いでいると、長次は手を振り上げた。そして思い切り、平手で小平太の頬を張った。ばちんっ、と大きな音が辺りに響く。顔だけでなく、耳や喉までじんじんした。痛みよりも驚きが先に来て、小平太は目を瞬かせた。
長次は顔を伏せ、小平太の袖口を握り締める。その手は小さく震えていた。そして彼は、何かを堪えるように唇を噛み締めていた。
「……長次」
小平太は呟いた。そして次の瞬間、小平太の両目からぶわっと涙があふれ出してきた。
「ごめん! 長次ごめん! わたしも怖かった! すげえ怖かった!! 崖から落ちるかと思って、本当に怖かった!」
恐怖と頬の痛みが随分と遅れて頭に到着し、小平太は長次の胸にかじりついてわんわん泣いた。あのまま長次が名前を呼んでくれなかったらと思うと、全身が冷えた。ますます涙が流れてゆく。
泣き喚く小平太を、長次は黙って抱きしめた。長次の胸はとても暖かかった。自分の嗚咽に混じって、長次の息づかいが僅かに聞こえる。もしかして長次も泣いているのかもしれないと小平太はちらりと考えたが、視界が涙で歪んで確認出来なかった。
小平太が泣き止む頃には、空はすっかり橙に染まっていた。ふたりはしっかりと手を繋いで、忍術学園への帰途についた。
「……なあ、長次。長次はどうして、わたしの居場所が分かったんだ?」
小平太は、長次を見上げてそう尋ねた。彼は、小さな声で答える。
「小平太が通ったところは、見たら分かる」
「へええ、すげー。長次は何でも知ってるんだな。いつも本を読んでいるからかな。長次はすごいな」
小平太はすっかり感心し、まるい瞳をきらきらと輝かせた。長次は困ったような顔をした。照れているのだと、小平太には分かった。
そのとき前方に覚えのある大木が見えたので、小平太は勢いよく長次の手を引いた。
「長次! こっちに梨の木があるんだ!」
そう言って、小平太は長次を梨の木の前まで連れて行った。最初に通ったときと同じく、木は大きな梨の実をたわわに実らせていた。
「ほら!」
小平太は、長次を振り返った。無口な級友は、感心したように梨の木を見上げた。
「知ってたかっ?」
得意になって胸をそらすと、長次は首を横に振った。
「知らなかった」
「長次が今まで読んだどの本にも、こんなことは書いていなかっただろう?」
「うん、書いていなかった」
そう言って長次が薄く微笑んだので小平太は嬉しくなって、長次の腰にしがみついた。
小平太と長次は、両手いっぱいに梨の実を抱えて帰った。小平太の思ったとおり、梨は素晴らしくあまくて美味だった。
一年い組の仙蔵と文次郎に、一体何処から獲ってきたんだと何度も聞かれたが、小平太と長次は絶対に教えなかった。あの梨の木は、ふたりだけの宝物となったからだ。
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